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Mさんのこと 第五回『軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』

 水無月という生菓子はご存じでしょうか?白いういろうの上に煮小豆が乗っていて、形は垂直三角形。確かこれを発祥元の京都では一年の残り半分の無病息災を祈念して頂くのだったかと思います。
 大学時代からの先輩のMさんはとても温厚で賢く、時々酒癖が悪い愛すべき人間でした。モラトリアムをせっせと自意識の培養に費やしていた自分が、虎になることなく人の容を保てていたのは、Mさんらに受け入れて貰えていたからの様な気がします。時々会って呑んだり、焼肉をしたり、鍋をしたり、小旅行に出かけたり。そのような関係はMさんが社会に出てからも結婚されてからも続いていました。
 六月生まれのMさんはさほど甘いものが得意ではないので、毎年この水無月をバースディケーキの代りにしていました。自分もMさんから何度かご相伴に預かり味が気に入って以来、毎年この水無月を口にするようになりました。
 水無月のご利益の有効期限も切れた真冬のある夜半、床に就いていると友人からMさんの死を報せる電話を受けました。寝起きであることも手伝い事態が呑みこめず、加えて死因が線路内での轢死であるとのことでさらに混乱しました。
 通夜と葬儀はMさんの実家がある浜松で執り行われる。通夜には間に合わず、翌朝の火葬に間に合うように前夜に発ち夜行バスで浜松へ向った。乗車前に通夜に出席していた友人から頼まれていた棺桶に入れる手向けのタバコを買った。早朝四時過ぎに着いた浜松駅は閑散として冷たい小雨が降っていた。そのまま二十四間営業のレンタカー屋で車を借り、山間の火葬場へ向かう。道中、マックに寄りローソンで買った香典袋に氏名を書いた。窓側のカウンター席から、外の暗闇に街灯の明かりを受けて姿を現した雨が路面へと消えるのが見えた。その姿が不思議に思えてしばらく眺めていた。火葬場に着いた頃には仄明るく、薄く霧がかっており、辺りの境界をぼかしてみせていた。
 ノイズしか聴こえないカーステレオが流れる車内で礼服に着替え、シートに身を沈めてしばらくすると、数台の車が進入してきた。降車する人たちの中に面識のある奥さんの顔を見つけ車外へ。その時に革靴を持って出るのを忘れたことに気づいた。
 奥さんに促され棺桶の小窓を覗くと眠っているMさんがいた。断りを入れ、大きめの小窓から前夜に買っておいたタバコを枕元へ置いた。一箱で良いところを、動転していて一カートン買ってしまったもので、棺桶の中は色鮮やかな生花と不釣り合いのタバコの存在感。なんだかペルーの煙草をくわえた人形のようだなと思った。
 簡単に別れを告げるとMさんは直ぐに火葬炉へ運ばれていった。炉が再び開くまでの間、離れの控え室へご親族と共に移動。待機中憔悴しているのに気遣いをさせてはと、Mさんとの思い出話を探しては継いでいたが会話が弾むわけもなかった。窓側の席から外を眺めると辺りには相変わらず靄がかかり、その先にぼんやりみえる煙突から立ち上がる煙が薄白く煙る空へと溶けていった。
 顛末はこのように語ることは出来ますが、原因などは今に至っても分からないし腑に落ちない。ただ起って、終わった。その日から、ホームを猛スピードで疾走する快速電車が恐ろしいように思うようになったことと、Mさんとのことがすべて「」付きになってしまったことだけが私の身に起こった変化で、感情には未だにあの日の火葬場の空みたく靄がかかっているのです。

 二〇〇五年四月二十五日午前九時十八分ころ福知山線塚口駅‐尼崎駅間、間の右カーブ区間で宝塚発JR東西線・片町線(学研都市線)経由同志社前行き上り快速電車の前五両が脱線し、先頭二両は線路脇のマンションに激突、さらに追従してきた三‐四両目と挟まれて圧壊。外壁にへばりつくような状態で、一‐二両目は原形をとどめないほどに大破した。「JR福知山線脱線事故」。死者一〇七名、負傷者五六二名を出す交通機関の事故としては歴史的な大惨事となった。
 松本創・著『軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』。件の事故で娘が重症を負い、同時に妻と実妹を失った浅野弥三一氏。ある日突然妻や肉親を奪われた不条理に、彼がとった行動は自責、後悔、悲しみに打ち沈み留まることではなく、原因を究明し「事故を社会化する」ことが遺族の社会的責務だという決断だった。それはJR西日本の企業風土と組織そのものを変える闘いだった。
 本書は淺野の視点にから、官僚組織以上に官僚的とさえ呼ばれたJR西日本という大きな組織を相手に粘り強く、ときに激しく怒り、失望してもなお決して「対話のチャンネルを閉ざさず」、何度も何度も問い掛け続けついに組織を動かした男の英雄譚、ではない。
 また本書は、加害企業側の人物も掘り下げて描いており、このことで組織側の抱えていた宿痾を浮かび上がらせている。「何十万人もの組織を動かしたい」と国鉄に入り、国鉄改革の「総司令官」となりのちに「JR西の天皇」と呼ばれた、井手正敬氏の存在は一線を退いてもなおも残照として「徹底した上意下達」、「過ちを絶対に認めない無謬主義」、「懲罰的な社員教育」「競争意識」という企業風土として引き継がれた。巨大企業の危機にトップの苦労を引き受け、「内向き志向で」「上下の壁や組織の確執がある」社内の組織改革を決断するも、自らの失着により席を追われ、最後に同じ技術畑であった淺野と被害者と加害企業との立場を越えた対話の道筋を作った山崎正夫氏。その山崎を担ぎ、後に遺族担当として対話に向けて社内調整に尽力する坂田正行氏。いかにしてこれまでに先例のない、遺族と加害企業が差し向かい事故原因について共同検証するに至ったかこれはそうした男達の群像劇、でもない。
 見過ごしてはいけないのは、組織も、被害者も、遺族も名もなき個人の集合”単位”ではなく、すべからく人格をもった個人の集まりであるということです。
 淺野はJR西日本と対峙する際に、組織の論理や体面を離れ互いに名前のある個人として向きあえる相手を交渉相手と見定めた。組織と言っても一人一人の人間の集まりであると。
 また、事故で亡くなった被害者も多くの人にとってはただの名もなき個人だったかもしれないが、遺族や関係者にとっては代替のないただ一人の個人である。
 “1月31日午後10時25分ごろ、大阪市天王寺区のJR大阪環状線寺田町駅で和歌山発天王寺行きの電車が男性をはねた。大阪府警によると、男性は奈良県に住む35歳の会社員で、頭などを強く打って死亡した。”私の個人史の中でも大きな出来事だった「Mさんの死」は新聞発表ではたった数行の出来事に過ぎなかった。
 同じくエピローグで、宿願叶いようやく責務を果たし得た淺野氏の姿は、事故以前から長年都市計画の仕事でそうしてきたように、今度は自身の感情を「被害者(遺族)の感情」と一般化してそれを社会の問題に置き換え課題の解決を図る、そのようにしか生きられなかった不器用なひとりの遺族の孤独で寂しさを帯びた肖像であった。どんなに大きな成果を手にしても失ったものに代替などないのだ。
 手元の本の奥付には二〇一八年四月十九日刊行とある。それから約一年後の四月二十四日。すなわち事故から十四年を迎える前日、私は何だか一日中そわそわとして落ち着きなく過しました。
恐らく本書を読んだことで、それまで名もなき個人だった人物が人格を持った個人になったのだと思います。とても自分に関係のない事故に思えなくなり、本を読んだことでちょっとだけ当事者になったような気がした。

 さて、本書には二枚だけ写真が印象的に挿入されている。最終頁に挿入されている写真は「中央に軌道上を行く列車」を配したシンプルな構図である。読み始める前、奥付を確認した際に目に入ったその写真はMさんのこともあり、こちらに向かってくるように見えていた。しかし、読了後に再び目にした時には列車は後方へ過ぎ去って行く様にみえた。
大きな事故を分岐に、列車は方向を変えた。終着駅はどこにもない。もう二度と軌道を外れることなく走り続けることを祈る。

『軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』(2018)
松本創・著 東洋経済新報社

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