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ウィキにはまとめられない私について 第一回『ビール・ストリートの恋人たち』

 目薬を差していた時に、「ちょこっと出かけたいな」と思ったのは、陽の光がくすぐったくなったからではなくって、ましてや、前週に贔屓のサッカークラブがようやく今シーズン初勝利を収めたからでも、スピーカーから「夜の隙間にキッス投げてよ」と聴こえてきたからでもなく、この旅心未満の感情は、前触れもなくふうらと現れ、緩慢な頭の中でもって、もっそもっそとぜん動運動をはじめます。
 そんな時に私は、伸び放題の植え込みみたいにでたらめだけど整列している中から、大きさも厚さのバラバラに積み重ねられた建売住宅群の中から、あるいは自分の膝の上から一冊、本を拾い上げることにしているのです。
 実のところ、ここまでの散文はこの後への前振りではなく、長年無粋だと鼻白んでいたストレッチ素材のズボンの穿き心地に感動してまんまと転向したとか、花の名前を七つくらいしか知らないとか書いても良かったし、そもそも本を手にする理由も、靴紐がほどければ結ぶとか、伸びた襟足を指に絡ませちまうとか、もはや習慣化しているものでそれ以上説明のしようもないことです。
 とまあ、私ときたらこんな感じの人間です。自己紹介のつもりなんですね、一応。この時世に古本を売って生活をしていて、飲み屋に行くとよく「そんなん儲かんの?」とか訊かれます。今、ポケットに手を入れたらコンビニのレシートが入っていました。「もっちりつぶあんドーナツ¥108」。
 本当に思うまま「自由」にキーボードを叩いています。つまりはこの文章には目的がないということです。いや、この文章を読んで本を手にして貰いきたいという気持ち、ちょっとはあります。なので、ここからは少し真面目に。

『ビール・ストリートの恋人たち』(原題『If Beale Street Could Talk』)。一九七四年に集英社から『ビール・ストリートに口あらば』として刊行されていましたが、この程今作の映画化に合わせ、早川書房より新訳版が出版。著者のジェイムズ・ボールドウィンは黒人の作家であり六〇年代公民権運動を戦ったアクティビストでもありました。
六〇年代終りから七〇年代初めのニューヨーク。無実の罪で収監された黒人青年ファニーとその恋人ティッシュ。物語の冒頭、テッィシュは面会室のガラス一枚を隔てたファニーに、彼の子を妊娠したことを告げます。彼女の一人称で語られる章立てのない言葉は、これまで彼と重ねた甘やかな記憶と、家族との共に彼を救うべく奔走する様子が連続し、層になり、その堆積を増やしながら事態を思う結末にしようともがきます。そんな中でもお腹の中で時間は成長を続け、とうとうその時限を迎えるのです。
 だけれども、物語は決してお菓子のパッケージに包装されるようものではなく、人々は貧しく、弁護費用や保釈金を工面するために盗みを働き、通りに出るとドラッグ中毒者や野良の娼婦。往来の通行人はそんな光景に目も止めない……。決して清廉ではいられないブラックコミュニティの実像に迫り、物語に苦味を添えます。

 さて、若い二人の愛の無垢、それを守ろうとする家族と人種差別の憎醜を描いた作品というのがこの物語の表層の姿なのですが、よく読むとその内側にはもうひとつテーマがあるのです。私、実は真のテーマは「自由自立とその不安」についてではないかと思ったわけです。
 まず、本書は二部構成になって、その一部と二部を分かつものは、事件の起りとその結末や、語り手が入れ替わるという物語構造上の区切りではなく、ファニーの内面に起こったある変化によってなのです。
 つぎに、本書では奴隷解放宣言以降も黒人は誰かに「所有されるもの」である事実を見透かしていて、このことについては“この国ではだれかのニガーでなければならず、だれものニガーでもなければ悪いニガーとされる”と文中に明記されているし、聖別となり神の「もの」として生きることで安息を求めるミセス・ハント、自立心の強いアーネスティンは“「だれでもときどき、だれかのものになりたくなるってことだけ」”とこぼし、それに“「―だれかのものになるってとても怖いわよ」”と答えるティッシュ、自由になりたいと願い、同時に自由に怯えるダニエル、そして卑劣漢な警官(卑劣官)のベルに「もの」として扱われたと自覚し打ちのめされるティッシュ……。
作中、この「自由に対しての不安や恐れ、反対に、それを奪われる惨めさと怒り」について、人物を替えながら何度も何度も言及されます。
 そう、ファニーは拘置所の中で、自由を奪われた身になり初めてそのことに気づくのです。また、お腹の中から外に出ようとする赤ん坊が、そうした心情を暗示しているかのようにも感じられます。
 
 「自由は不安で恐い、でも、それを奪われると惨めでくさくさする」、とっても難しい命題です。若い時分にはこの「自由」という言葉は風通しがよくって好きな言葉でしたが、今それを口にすると重苦しく感じてしまうのはどうしてでしょう?そのころの私は自分の自由と他人の自由を天秤に掛けていたのでしょうね。で、愚かにも自分の方がちょっとばかし重たいと思っていた。
結局のところ自由とか、ピザを分け合う時にカットされた中で一番小さいのを先に取るくらいが丁度よいのかもしれません。タバスコをかけるのは好きにさせてほしい。


『ビール・ストリートの恋人たち』(2019年) 
ジェイムズ・ボールドウィン・著 川副智子・訳 早川書房・刊

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