見出し画像

猫、上から見るか?横から見るか? 第三回『タピシエール 椅子張り職人ツバメさん』

 IKEAで二万くらいした背もたれの大きなアームチェアは、ここに腰を掛けて、起き抜けにフローリングに反射した光を眺めながら温かいコーヒーを飲んだり、カーテンを揺らして入るベランダからの冷涼な風を感じながら本を読んだり、そのまま舟を漕いだりできればどんなかしら?と思い購入したものでした。
 しかし今、その場所に身を沈めているのは肉食目ネコ科ネコ属のイエネコ、つまりは猫だ。搬入から半日も経たずして玉座を猫に奪われた私は、傍らにある座面の高いクッションに落ち延び、そこに陣を構える格好となったのです。しばらくは再び王座に返り咲く算段を考えましたが、シートに身を寄せて寝息を立てている姿を見ていると、もう少し野営地に甘んじておいてやっても良いと思うようになり、そのうちに私は民草として生きる道を選んだのでした。そうして、座面高の二〇センチほどが私のプライドとして残った格好になりました。
 庶民の暮らしも案外悪くはなく、身体を折った屈葬スタイルで飲むコーヒーはカップが常に鼻先にあるので香りを楽しめるし、湯気越しに見るフローリングに反射した光はぼやけて見えて柔らかいし、膝の傾斜に本を置いて読むと楽だし、くたびれたのならいつだって横になれるのだ。さらに、気まぐれな王が城を抜け出し、わが膝の上に遊びにやって来ます。すっかり庶民に身を窶(やつ)した私には、空き家となった城を狙おうという野心はもうありません。それは同時に膝の上の至福を手放すということに他ならないのですから。

 関根美有・著『タピシエール 椅子張り職人ツバメさん』。“布や革を使ったインテリアを作ったり直したりする職人をタピシエといいます 椅子張りは主な仕事のひとつ あ ツバメさんは女性なのでタピシエールです”椅子を愛し椅子と会話をするけれど、人と話すのが苦手で、何でも手作りして、ネコ派で、しょうが派。そんなタピシエールのツバメさんと、唯一の人間の友だちで幼なじみの小泉氏、大人びた小学生たくみくん、ツバメさんにひそかに思いを寄せる木工職人の夏木さん、さらに一癖ある、あるいは一癖ないお客さんとのほんわかとした日常を描いた五ページの連作漫画です。
 著者の関根美有さんは帯に「知られざる天才」との惹句があります通り、天才です。天才は観測者が見つけないと存在しないものです。ですが多くの場合、荒々しく原始的な形のそれらの宝石は、誰も形を知らないので目に留まることは少ないし、始めて見たものをそれと判別できる人も少ないことでしょう。今作において、この天才の野生は商品として磨き出され、製品化されてとっても読みやすく天才性が伝わる作品になっています。
 漫画もデジタル化が進み、背景など描き込みが細密化してゆく中で、最低限の背景描写に緩やかな線で描かれる人物は、それでも身に着けているモノや服装、仕草などからキャラクターの性格や趣向が確かに見える。面白いことに、漫画でありながら漫画の核となる絵の情報を極限までそぎ落としていることで作劇的な作為が立ち消え、反対に無為が立ち上がるのです。
 この作品は美麗なキャラクターも出てこないし、巨悪を打倒したり、医療の現実に悩んだり、部活に精を出したり、シュールもなく、努力して勝利したりしない。しかし、どのフィクションにもない空気を纏った実体を感じるのです。作中人物は物語をけん引する役目を追うことで、どうしても作品上に都合の良い存在として役割を与えられていることが多くって、それは何だか読者の眼を意識して演じている俳優のように映ってしまうと思うのです。(キメ顔で決めゼリフを言う時とか)それが最小限の情報しか与えられていない書き込みの少ない人物だとアノニマスな存在となって、そこに不思議と親しみを感じてしまうのです。
 “堂々と迷子になってやる”“カーテンはね!くるまるものなんだよ!”“「未来の自分に投資」はできるし、「今の自分にごほうび」もできる、だけど、「昔の自分におこづかい」はあげられないんだわ”……。登場人物がポロっと口にした印象的な言葉は、もちろん著者のものなのでしょう。しかし、テーマパークのキャストではない、私たちに近い存在からの言葉は、押し付けがましくも、説教臭くも感じることなく自然に受け入れることができるのです。
 実生活でも言葉が生まれる瞬間なんて、ふいと唐突にやってきて、そでは換気扇が廻っているのを見た時だったり、役目を終えたメモ紙を丸めた時だったり、少し傾いた「新台入替え」ののぼりが風を受けてそよいだ時だったりするのだと思います。 
 少しだけ座面の高いクッションからの風景を手に入れた私は、背もたれに身を預けたり、足なんか組んじゃったりは出来ないけれども、ベランダから運ばれてくるタンポポの綿毛を見つけることが出来るし、階下の住人が慌てて出かける足音を聴くこともできる。この二〇センチほど浮かんだ場所から生まれる言葉だってきっと。

『タピシエール 椅子張り職人ツバメさん』(2019)
関根美有・著 秋田書店刊

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?