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迷ったらBの解答を 第二回『「痴呆老人」は何をみているか』

 高架沿いを併走する風と別れ、緩やかな坂を下ると商店街へ伝う丸い電燈の道へと出る。真っすぐに行くと最寄りのスーパーマーケット。少なく見積もっても週に四度は通るその道の途中、「私」は迷子になっちまいました。
 一人称、どうしていますか?「私」「俺」「僕」「ぼく」「ウチ」「わし」「オイラ」……。そうそう、文章中にのみ「筆者」というのも。(余談になりますが、筆者を拙者と誤読していたクラスメイトはどうしているのだろうかしら。「【問一】傍線部1について、なぜ筆者(せっしゃ)はそのようにいっているのですか?」)
 英語だと「I」の一語で用が足りるものが、日本語にはコンビニのドリンクコーナーみたく定番のものがたくさん存在します。そして、それぞれに人格のようなものが備わっている気がします。「俺」は男性性を強調している気がするし、反対に「ぼく」は優しげで内省的。「オイラ」はSNSのプロフィールで成人しているのに「ギター小僧」とか名乗ってそう。
 「私(仮)」は自身のこれが、固定化されていないことに気付き、背後で黒板を引っ掻かれたのです。文章中では「私(わたくし)」や「自分」を使う気がするし、話しているときは「自分」、反射的に「僕」も使っている気がします。当然、「私」も「自分」も「僕」も人格が違うはずだのに、「私(仮)」ときたら弁当に合うからお茶、ドーナツにはコーヒー、これからビーフシチューを仕込むからバドワイザーを。そんな程度の理由でドリンクを選ぶように、呼称を替えているに過ぎないのです。そんなわけでふうわふわうとした「私(仮)」にとって、「私」「自分」(こっちは呼称ではなく概念の方です。ああ、ややこっしいや……)は、どう定義できるのかという、カーディガンのない真夜中には絶対に考えたくもない哲学的な迷路にやって来たのです。

 大井玄・著『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書)。タイトルから「介護者向けの、対象を理解するための手引書」のようなものかと思い読み進めると、これは「私」自身について書かれている本だと思い改めさせられます。 
 アメリカでの内科臨床医などを経た後、長年終末期医療に携わる著者は、ことに認知症疾患者(本書では「認知症」という語を嫌い、敢えて「痴呆」としている)との触れ合いを通して、痴呆とは人間のどのような状態なのか?という疑問から端を発し、この記憶の病(とされている)を手掛かりにその射程を広げ、「私」という人格にどんどん迫っていきます。
 痴呆の原因は端的に言うと「認知能力の衰え」であり、その際世界はどのように見えているのか。また、認知がズレることで世界から切断された「私」と心を通わすためにはどうすれば良いか?という介護者の心得は多くの方が知っておくべきことだと思います。
 さらに実用にとどまらず、論は「私」をめぐる問題へ。この「私」という人格について丁寧に整理し説明され、さらには「つながり」ということばをキーワードに、現代的な病理としての「ひきこもり」(今日だと「ネオ・リベ的思考と自己責任論、そこから排除させる人」などの説明にも適応できそうです)、果ては文明論に至るまでダイナミックに展開していきます。
 また、本書は疑問を定量化して解き明かすものではなく、認知心理学、生態学、近代記号学、仏教の深層心理学等々、数多の先行研究や実際の症例を引き、帰納法的に問題に迫っていきます。すぐ目の前の問題に対処が迫られている、まさに臨床の現場でこそ生まれた論考と言えるのではないでしょうか。
 さて、通読しますと「私」とは世界の結びつきによって観測される。その私を造るのは過去の記憶と学習で、人格は単一ではなく相手や場面によって変わる。大意のみ、ごくごくごく簡単に要約するとそのように言えるようです。私は晴れて迷路から抜け出すことができ、無事に「」と(仮)もとれました。
 その中でとりわけ、世界と、社会と、他者との「つながり」が切断されることで孤立し、多くの問題や障害が起こるようです。なんだかネット社会みたいですね。ネットワーク上での「つながり」では、果たして画面の向こうに他者や世界を感じることを出来ているのでしょうか?恐らくは多くの方は出来ているのでしょうね。私も多分そうです。「いいね!」とかもらえたら嬉しいし。ですが、枯葉を鳴らす風の音や、陽を受けて昼寝している猫の腹の温もり、シンクに落ちた水滴のかたちもまた、私と世界とを結んでいるように思います。本書には「私」が幽明のみぎわを行き来する終末期の痴呆老人の紹介があります。モニター越しの世界と物を掴める実体のある世界はやっぱり別なものに思えて、もう少し現世に留まりたい私としましては、この世界との関わりをもうちょっと多く記憶にとどめたいと思います。いずれすべてを忘れちまうその時まで。
 今日は窓を全開にしてレモンサワーの味から世界とつながろうかしら。トマトからもつながりたいから冷やしておこう。

『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書)(2009) 
大井玄・著  新潮社刊

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