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アビィに首ったけ 第四回『レコード越しの戦後史』

 どんぶり鉢の中で肉うどんの出汁に浮く油、それを箸に引っ掛けて一カ所に集める。しばらく形を変えたりして弄んで、油膜が白く変わるのを待つまでもなく、そのはしたない遊戯にもすぐにシラケちゃって出汁ごとシンクに捨てる。私は「集める」ということに生来向かない性格らしく、ヤマザキ春のパンまつりのポイントシールすら満足に集めたことがありません。ですが、数年前からコツコツと、その数を増やしているものがあるのです。
 『アビィ・ロード』(Abbey Road)は一九六九年にリリースされたザ・ビートルズの十二枚目のオリジナルアルバム。ロンドン・EMIスタジオ前の横断歩道をメンバーの四人が一列で渡っているジャケットが余りにも有名ですね。その場所は、ピサの斜塔やさっぽろ羊ヶ丘展望台のクラーク博士像同様に、今や写真映えのする観光地として広く知られています。
 私が集めているのはこの『アビィ・ロード』のジャケットを真似している人たちの画像で、すでに手元に3GBほど保存しています。時折スライドショーにして鑑賞しています。この「アビィ」の面白いところは、必ずしも現地で撮影されたものでなくても良いということです。要するに「横断歩道で」、「数人が」、「一列で歩いている」という条件を満たしてさえいれば、お手軽に真似をすることができる遊戯的なコンポジションなのです。さらに多く人がオリジナルを参照しないまま撮影するもので、間隔が狭すぎたり、カメラ目線でキメちゃったり、本家とは逆に上手から下手へ歩いちゃったりと、そのクオリティが低っ…、バラつきがあって楽しいのです。この、オリジナル楽曲を忠実にカバーするのではなく、カラオケスナックで朗々と自分なりのアビィを歌い上げている様こそがこの画像群の魅力なのだと思っています。撮影時の楽しげな空気がそのまま封じ込められたような。

 とみさわ昭仁・著『レコード越しの戦後史』は「ヒットさせることを前提としてつくられた大衆向けの音楽」である歌謡曲を手掛かりに、考現学的なアプローチで戦後日本の歴史のふり返りを試みた一冊です。作り手は「ヒットさせる」ために、大衆が関心を寄せていた物や出来事や流行などを歌に詠み込んだレコードを幾つも制作してきました。そんな作品群は明け透けな邪(よこしま)さがチャームになっていて何とも憎めないし、そうした大衆の関心事を歌として扱ったものなのに、その多くは現代では珍盤という扱いを受けているのも愛くるしさを感じます。しかし、そのようなネタ的な徒花の側面だけではなく、沖縄の本土復帰にダウン・タウン・ブギウギ・バンドは『沖縄ベイ・ブルース』で、日本政府の不誠実な対応を男女の情交に例え「アーン/アーン/勘違いなの 教えてよ/アーン/アーン/忘れた顔して/青い鳥が逃げた」と歌い、沖縄県民の心情を代弁してみせ、三島由紀夫割腹自決に遠藤賢司は『カレーライス』で「ふ~ん 痛いだろうにね」と歌い、当時の若者の熱を失い残った空虚を現しました。このように時代と添い寝したことで大衆の心情を映し出してもいるのです。さらに、郷里に家族を残し上京した出稼ぎ労働者を歌った『チャンチキおけさ』、都会で職にあぶれ黒部ダム建設に従事する労働者を歌った『あゝダムの町』、集団就職の若者たちを歌った『あゝ上野駅』。こうした名もない誰かに向けられた楽曲は、きっと誰かが「これは自分の歌だ」と思ったことでしょう。
 ある事柄があって、次に歌ができる。事柄は時流の表皮で、その匂いを纏っている。このように歌謡曲にはそうした時代の空気が掬い上げ閉じ込められているのです。そして、これらの歌は誰かが拾い集めないと時代を越えることなく置き去りにされて行ってしまいます。時計は針が動くことで時を前へ進める。レコードは針を落として刻まれた時間を呼び起こす。止まっている針は二度と動くことなく、いつでも変わらず何度でも同じ時間を現してくれる。

 さて、いつの頃からか「断捨離」という言葉が一般語のように使われるようになりました。その行為にはどのような意味があるのでしょう?「不要なものを捨てる」はイコール「過去を清算する」と捉えることが出来そうです。つまり、自身を縛る過去を断ち切るというのが、この行為の本質なのだと思います。拘束具を脱ぎ去った後は涼やかな風を肌で感じ、存分に手足を伸ばせて気持ちの良いことでしょう。
 貯め込んだものが重すぎて前に進めないのなら手放せば良いと思います。だけれども、なかったことにはしないで欲しいのです。捨て去ったものはこれまでの足あとで、足あとを消してしまうとどこを歩いてきたかが分からなくなってしまいます。そうして、これまでどんな道を辿って来たか、思い出しくたくなったらうちのような場所に探しに来てほしい。レコードだけではなく、人の手を渡って来た古いものにはその時代の空気が閉じ込められている。
 一度捨て去ったものを、まったく変わらず同じ気持ちで手にすることはもうないのかも知れないけれど、今度は何か新しいものとして出会えるのならうれしいな、なんてね。

『レコード越しの戦後史』(2019)
とみさわ昭仁・著 P・ヴァイン

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