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読売20230122「論理と文学 ともに学んでこそ」#国語教育 #教師のバトン

ツイッター上で次の記事告知を目にした。

記事はこのリンクで確認できる(ただし有料)。

記事を読む前の私の感想

(Twitterより)
「文学と論理を共に学んではいけないのか」という見出しは割と同意。今日の朝刊ゆえまだ全文は見ていないが。 新課程登場するまで、どうして国語関係者は無邪気な文学推しに終始してきたのか。どうして今なお「我々は文学で論理を指導をしてきた」と誰も声を挙げないのか。
邪推を許せば、新課程が登場するまで国語関係者の多くは自身の専門である文学を強調するか、文科省・産業界に抗うことばかりを考え、新課程でいう論理的文章に大した関心を寄せてこなかった。学会や教育雑誌等で先行事例が出ていても強調されるのは古文漢文を含めた文学読み実践ばかり。
だが新課程の本格実施が始まり、徐々に文学読み以外の重要性が認知され始めた。過去の経験が活きづらい事態にしばらく現場では混迷は続くだろう。 文学推しの文学国語を断念した高校の多くは受験優先という背景がある様子。そんな現場の判断を尊重する意味でも、ぜひ実践を積み重ねていただきたい。

(やや脱線すると、文学国語より古典探究を削ってほしいというのが個人的な本音。少なくとも理系には。大学入試を見越した結果のようだが、そもそも文理共通に同水準の古文漢文を要求してくる大学側がおかしいし、その対策に4時間を割かせるのも科目バランスを考えると異常に思える)

なお、最近は少なくなってきたが「論理国語では論理教育はできない」と豪語する声もある。その論拠は主に ・指導要領、教科書に「論理」の定義がない ・論理学に長けた国語教師が少ない の2点だが、民間の論理学本、論理的な国語指導書に頼ればある程度は解決するのでは?と思っている。
あと一時期「文学にも論理はある」等、暗に従来の文学推しであたかも論理国語以上の論理指導を行えるかのような発信が目立った。 確かに文学にも論理はある。が、その論理は世間一般的な論理イメージとどこまで整合性を持つのか。何より旧来の実践でその主張を裏付ける事例がなぜ出てこないのか。

閑話休題。紅野氏が新課程国語批判を続けて久しいが、当初は旧来の国語教育にも問題はあるとしながらも新課程、特に論理国語を辛辣に批判してきた。 しかしそんな彼は今、ある出版社で論理国語を紹介する立場にいる。彼なりの批判精神を込めている可能性もあるので目くじらを立てる気はない。
論理国語、新課程国語が今後どう転ぶかは現場の手にかかっている。次の新課程が登場する2030年頃に国語界隈でどういう動きが出るか不明だが、素人ながら発信を続けてきた身として動向を見守りたい。 言いたいことはまだまだあるが、あとは読売の朝刊を見てから。

編集前の私の発信は以下。
https://twitter.com/ozeanschloss/status/1616936609592803330


記事を読んでの感想

冒頭の国語科教育法でテスト問題作成が出てきたのは意外だった。教科教育法のテキストは国語に限らずいろいろ読んできたが、テスト(というより評価全般)の話題が出てくることはまれ。紅野氏は国語科教育法でよい授業をされているなと率直に感じた。
だが、それ以降の主張については賛同しかねる箇所が多い。

まず、前半最大の主張「なぜ今までと違い、論理的な文章と文学作品を一緒に教えてはいけないのか」とあるが、それは

論理国語が評論や学術論文などの読解に特化した科目だから

というしかない。紅野氏に限らず「論理国語」の名称に違和感を覚える関係者は今なお多いが、賛否はどうあれ指導要領の記述にはきちんと当たって論じてほしい。まして新課程の指導要領が公開されて3年が経過しているというのに。
https://www.mext.go.jp/content/20210909-mxt_kyoiku01-100002620_02.pdf

続けて氏は森鷗外の『舞姫』を例に文学鑑賞を通して言葉の習得の在り方を問う。『舞姫』自体の評価は脇に置くが、内容は文学的文章読解に特化した既述であり、論理国語が目指す文章読解とはあまりに大きな隔たりがある点を紅野氏は見過ごしている。
論文やレポート作成系の著書を当たれば自明だが、論説文でも学術論文でも文学的修辞や論理飛躍は本質的に”禁じ手”である。説明を平易にするための比喩、あるいは一部読者向けのリップサービスなどはあり得るかもしれない。しかし、それも補助的なものであり、比喩や修辞を容認する文学的文章読解とは明確に異なる(共通項が皆無とまではいわないが)。

あるいは、論説文や学術論文の読解に文学的文章読解のスキルが有益という主張だろうか?

私はその立場はありだと考える。が、その場合は、文学的文章読解のスキルが論説文・学術論文読解にも有益というその過程を、限られた字数の中でも論ずるべきだろう。今回の氏の新聞記事を読む限り、氏が論説文・学術論文と文学的文章の違いを意識的に区別しているようには思えないし、両者を混在させることを是としているようにも読めるが、これは私の邪推であってほしいと切に願う。

あと、記事終盤で文学国語を選択不可な教員が副教材やカリキュラム調整等で知恵を絞っていることに言及し、以下のように総括する。
「ただでさえ忙しい現場の先生に、苦しい工夫を強いる改革とは何なのか。本当の改革とは、先生が教える喜びを引き出すものであるはずです」
教師の多忙感問題は私も部外者ながら憂慮している。が、論理国語(そして古典探究)を優先して文学国語を断念した主要因が

文学的文章(現代文)が大学入試に出題されなくなったこと(一部除く)

にあることを見落としている。
紅野氏は大学教授の立場にいながら、大学入試で文学的文章が出題されなくなったことをなぜ問題視しないのか。あるいは、入試に出されずとも文学的文章読解が入試(あるいはその他の利点)に有益であるという論をなぜ展開しなかったのか。
『舞姫』を例にした文学的文章読解の論も一定の有効性は担保していたと感じるが、それを多感な現代の高校生が『舞姫』およびその授業を好意的に受け止める保証はない(多く見積もっても50%だと私は見ている)。そして中学国語や高校1年までの学習だけで不足かどうかについての考察もない。

限られた紙面という点を置くにしても、氏の提言は論理的精彩を欠いていると言わざるを得ない。せめて今年2月に出版される新書『ことばの教育』で、その点について丁寧な論が展開されることを願いたい。
『ことばの教育: 日本語を読み、書き、考える』


補足

私は論理国語という科目の中に文学的文章教材が紛れること自体は反対ではない。ただしそれは論理国語が目指す論理的読み書きという趣旨を現場が理解していることが前提であり、紅野氏のように両者の混在を是とする見解(おそらく現場の国語教師の一定数はこの立場だろう)が支持される現状ではやむを得ないと考える。

論理的文章と文学的文章の両者の違いを比較検討するのは教育上きわめて有益(国語関係者が負担でなければぜひ実施してほしい)と考える。が、現状では論理国語批判においてさえ、その両者の論理性を区別せずに議論されている。そんな現状では現場であらぬ混乱を招くか、「従来の現代文教科書と変わらない」という安易な認知を現場に植え付けてしまう危険性が高いと考える。

あと、そもそもの新課程国語の誕生背景にPISAの学力調査や産業界の要請があったことをご存じの方も多いだろう。私はこちらの見解を全面支持するものではないが、新課程国語の議論に限ればPISAや産業界側を支持する。現場にいる先生方の苦悩も部外者ながら理解しているつもりではあるが、それは無条件に自分たちの実践を是とするものでも、無条件に新課程の動向を否とするものでもない。

何より、国語関係者にまま見られる文学愛は、現場が思うほど生徒にとって好意的に受け止められるものではない。私も高校までの文学授業で不満を持った1人であるが、それは文学教材そのものへの興味のなさに加え、関心をもった評論教材の多くが現場の判断で割愛されその経緯もまともに説明されなかったこと、さらに文学教材による評価基準の不明瞭さ(不明瞭であることを是とする風土)などがある。

21世紀の現代ではアニメや漫画も充実し、文学に限ってもライトノベルや海外作品の翻訳が充実しているが、高校国語ではこれらさえ国語の範疇から外されている。そんな中で文学を高校生に強制することを是とするなら、それ相応の大義名分が必要だと考える。
容易に答えが出せる問題ではないかもしれない(私の中で答えは出ている)が、そろそろ関係者なりの答えを出していただきたいものである。

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