「おれら」当事者のアイドル~ZOC~ 後編

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こちらは前後編の後編部分となっています。
こちらだけでもOZZYの伝えたい意図はある程度伝わるかと思いますが、未読の方はまず、前編をお読みいただいてから読んでいただけると、より理解が深まるかと思います。また、本稿は、読者が「おれら」という概念を理解していることを前提に書かれています。まずはコチラ↓をお読みいただき、「おれら」という概念についてのご理解をいただければと思います。

平成最後のデビュー曲”family name”

前回長々とメンバーのプロフィールを綴ってきたのは、このデビュー曲、”family name”が、彼女たちのプロフィール抜きには語れない曲だからです。
この曲は、様々な理由で「はみだして」しまった少女たちが、失われた自己肯定感を取り戻していく物語です。
MVが公開されてからこれまで、少なく見積もっても100回以上は聴いていますが、短期間にこれだけ繰り返し聴いても「聴き減り」しない極めて耐摩耗性の高い一曲です。

“family name”の歌詞を、OZZYなりの解釈で紐解いていきます。

わけわかんないことでママが怒ってる 安定の不安定に鍵をしめる
こんなのおかしいね なんで産んだの 手に届くもの全部投げ飛ばした
私と同じくらい壊れろよ 大切なドールもハラワタ掻き出して

このあたりはもう、母親からの虐待を受けていた戦慄かなのの心象風景そのままではないでしょうか。
「安定の不安定」というワードに、大森靖子の強い「おれら感」を感じます。

これじゃ誰のことも愛せない でもそんなのつまんないし厄介だ

現在の自分の状況を「このままでは誰も愛することができない」と受け入れつつ、「でもそんなのはやっぱり嫌だ」と、現状を変えたい気持ちの芽生えを感じさせます。

察して その名前は二度ともう聞かずに生きていきたい
かわいそう抜きでもかわいいし 私を ぎゅってしないなんておかしい

家庭環境であったりそれまでのプロフィールであったり、その属性が独り歩きして「かわいそうな子」というカテゴライズをされることも、彼女たちにはきっとあったと思います。

私は「かわいそう」じゃなくて「かわいい」んだ。
そんな私が抱きしめられないなんておかしいんだ。

と、自分の幸福の追求を肯定するプロセスに入ってきています。
関係ありませんが、MVのこの部分のさやぴ(兎凪さやか)の表情が好きです。
さやぴ尊(ry

family name 同じ呪いで だからって光を諦めないよ

「親があんなだから子どもも……」
「少年院あがりだから……」
「ひきこもりだったから……」

さまざまな理由で何らかのレッテルを貼られる経験は、誰しも持っていると思います。
彼女たちは特にそういったことが多かったでしょうし、戦慄かなのや香椎かてぃについては、それこそ「family name=姓」に纏わるものであったかもしれない。
ただその家に生まれたというだけでそう見られてしまうというのは、それこそ「呪い」のようなものだと思います。
虐待を受けて育ってきた人は、自分も虐待をしてしまうことも多いという説もあり、「同じ呪い」というのは、そういう意味なのかな、とも読み取れます。
しかし、それでも「光を諦めない」、という強さを感じる一節です。そして、それまで自分を苛みつづけた親や家族、自分自身のコンプレックスや消えない過去の傷や過ち、それら全てを超えて幸福を掴むのだという決意を表明しています。

family name お構いなしだ 治安悪いままバグらせてこ

この部分は、香椎かてぃの↓のツイートが元と思われます。

言葉の意味はよくわかりませんが、不思議なパワーを感じます。
そして彼女たちは

”クッソ生きてやる”

と、彼女たちにとって冷淡であっただろう世界・世間に対し、啖呵を切ります。
その強い決意に、「おれら」は心を揺さぶられます。
「こんだけしんどかったら、死んじゃっても仕方ないよね」という状況で、それでも「生きてやる!」「死んでなんかやるもんか!」というエネルギッシュな声明です。

平成も十代も余裕で捨てて その先の狂気に値札つけて
いらない感情しか売らないから 消費されたって消えはしない

彼女たちは年齢19歳〜21歳のユニットですが、彼女たちが生まれた今から20年前、平成10〜11(1998〜1999)年頃は、地滑りを起こしていた日本経済が徐々に深刻化し「これはだめかもわからんね」という状況になりはじめた時期であり、ある意味「終わりの始まり」のような時期でした。
彼女たちは、日本経済の衰退とともに成長してきた世代で、ある意味「平成という時代の犠牲者」ともいえます。
そしてZOCのデビュー曲であるこの曲は、平成の終わりの日にリリースされました。
彼女たちはまさに、呪いのように纏わりついていた平成という時代を捨て、十代を卒業したのです。

「いらない感情」とは、まさに彼女たちのコンプレックスやプロフィールではないでしょうか? そういった、自分自身にとっては「いらない」ものを「売り」としているので、いくら「消費」されようが自分が消えることはない、と読み取りました。

察して 全部伝わらないよ もどかしい 矛盾してない
生き抜いたその先を見てくれ 私とこの世の果てまで

そんな彼女たちの在り方は、おそらくまだまだ理解できる人間が少ないものだと思います。そのもどかしさと葛藤を抱きつつ、世界に対して、サヴァイヴしていく私達を見てくれと強く訴えます。

family name 詰んだ語彙力で 悲しみも映えてる 問題ないよ
family name なんも気にすんな 正論も正義も全部邪魔なだけ
ブチかましてこ

悲しみさえも「映え(インスタ映え)」にしてしまう強さを、彼女たちは持っています。
正しいだけの言葉や自己満足の正義を振りかざす人達が、オリジナルな在り方で生きようとする彼女たちを苛むであろうことは、容易に想像できます。彼女たちにとって、正論も正義も、自分たちの眼の前に立ちはだかる障害でしかありません。
そんな障害に一発お見舞いしながら、強く強く生きていく彼女たちが目にうかぶようです。

生まれたばかりの頃のジャズが、かつてのロックが担っていた、現状をよしとせぬ反骨の精神をもって、時代のアジテーター役を担うのは、もしかしたらアイドルなのかもしれません。

大森靖子による「かわいい」の再定義

女性アイドルグループでありながら「7割は女性ファン」といわれる女性支持率の高さも、ZOCの特徴です。
これは、「共犯者」である大森靖子自身がデビュー時から「かわいい」にこだわり続けてきた人であり、メンバーそれぞれが、個々の「かわいい」をそれぞれに自由に追っているからかもしれません。
整形をオープンにしていたり、メイクや髪型も「想定顧客層」を意識しているというより、自分たちが「そうありたい」姿(少なくとも、そうであるように見える)であったり、ピアスがバッチバチに大量についていたり、喫煙者だったりと、既存の「アイドル」であればマイナスにしかならない要素が、「共感」というプラスの要素に変化しています。

「共犯者」大森靖子は、↑のツイートで、「顔面評価差別をかわいいのど真ん中から消したい」と語っています。

OZZYも、単純に顔立ちが整っているとか、最大公約数の人が好ましいとするルックスであることを盲目的に「かわいい」とするのは少し違うかな、と考えていて、「かわいい」は、もっと多様であり、それこそ一人ひとり個々人に、それぞれの「かわいい」があると思っています。
「かわいい」は、もっと広くとらえることのできる概念だと思います。
ZOCは、大森靖子による「かわいいの再定義」のように思えるのです。

大森靖子の楽曲、”GIRL’S GIRL”では、「かわいい」についての彼女のこだわりとスタンスが強烈なまでに表明されています。
ZOC名義の曲ではありませんが、この曲は、特にお子さんをお持ちの女性に聴いていただきたい一曲です。

他人の承認欲求否定して てめえの平穏守ってんなよ
私は私が認めた私を認めさせたい 何が悪い
可愛いまま子育てして何が悪い
子供産んだら女は母親って生き物になるとでも思ってんの?
私のかわいいと こどものかわいい
それぞれ尊くて何が悪い
全てを犠牲にする美徳なんて今すぐ終われ
かわいく生きたい

という叫びは、とてもリアルな現代の日本の女性の声なのではないかと思います。

そして皆さんに、ぜひ、ぜひ一度、”family name”のMVを見て欲しい。
できればカップリング曲の”チュープリ”のMVも見て欲しい。
これこそ「これからのかわいい」だと、OZZYは思うのです。

「多様性を認めなければいけない」と言われ始めてから、どれだけ経ったでしょう?
僕には、未だにこの国で多様性が認められているとは、到底思えません。

多様な在り方に、多様な「かわいい」に、そろそろみんな、本気でジョインするべき時期だと思います。
ZOCは、その時代の到来を示す存在であると、僕は信じています。


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