ティプトリー賞改称に関して

以下に橋本輝幸氏のnote記事を受けたジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞の改称動議への私の理解および意見を述べます。
誤りがあれば訂正を謹んでお受けします。
基本的に私は対話の積み重ねによる相互の理解を望みますが、結論への同意は求めません。

まず事実整理から入ります。
アリス・シェルドンによる夫の殺害は同意の立証ができない以上、一方的なものの可能性があり、要介護者にとっての不安たりえることは認めます。
そのティプトリーの名を冠した賞がアリス・シェルドンの行為を暗黙に容認するものと解釈されるのも、そこを否定することはできません。
そこにある苦痛を我慢せず改称要求を行ない、問題や苦痛を可視化することは意義があることです。
個人的には賞の取り扱う範囲であるジェンダー理解という枠を超えた、マイノリティの理解のテキストとなりうるとも感じました。

以上のように要求の妥当性は確かに存在していて、
運営は賞名を改めるか残すかの選択を迫られました。
どちらにも背景の理解を促す対話の余地はありうると一見思われますが、ゼロトレランスがルールとして適用されるなら、ひとつの割れた窓を教訓とするような態度は否定されるもので、苦痛を生みうるティプトリーの名を残す妥協の余地を許しません。
ですので運営としてはこの名称のまま続けることはできない、という判断に至るのは至極妥当です。
改称を受け入れることで橋本さんが2項で示したようなメッセージを発する効用も間違いなくあるでしょう。

ですが、そのメッセージは賞の改称をもって示すことはあまりに危険だと思います。
メッセージそのものが問題なのではなく、ゼロトレランスに裏打ちされた、苦痛を訴えることによる改称要求があまりに広域な影響を及ぼしうるものだからです。
少なくとも何らかの個人名を冠したアメリカの賞に限ってはほぼすべて降ろさせることができます。彼らも人間ですから、その思想や著作がすべての人々に不快感を与えないことなど不可能です。功績もいつ評価の軸が反転するかわかりません。

別に賞の名前ぐらい改めればいいじゃないか、個人名を使うこと自体をやめる変革のいい機会だ、という考えもありますが、賞に名を冠せられる作家にはファンや同業者からのリスペクトがあり、それゆえに冠されるものだという点は同意いただけるものと思います。
そういった想いの象徴が今日的な価値観による正しさで消し去られることもまた苦痛を生みます。
ひとつひとつの苦痛に寄り添う姿勢の正しさは一面に過ぎず、それらが積み重なってあらゆる賞から作家の名が消え去った光景はあまりにグロテスクです。

一旦ティプトリーに話を戻すと、彼女の最期に不透明さがある以上、彼女の著作が出版されていること自体にも追認と苦痛を認めうるという理路は否定しがたいです。今回はそこまで求められないかもしれない。しかし、いつか誰かが求めたとき、ティプトリーの作品が燃えるかどうかに本件が大きく寄与するものと思います。

最初の動議の当事者に見える風景を想像するのであれば、ティプトリーには一旦下がってもらうだけのこと、という譲歩が今日においてはここまで広がりうることも想像させることも重要ではないでしょうか。
だから私は苦痛は理解する、
寄り添いたい方々が寄り添うことも否定しない、
だがこのティプトリー賞の改称でそれを示すことには断固反対するという態度を取ります。

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