ティプトリー賞改称に関して 2

橋本さんとのコメント欄でのやりとりを受け考えた私信めいたものです。

橋本さんのnoteの(7)の見出しである
“時代によって受け取り方は変わる⇒時代と共に変わってもいい”
という文言をティプトリーやスタージョンら作家への評価ではなく、賞のありかたそのものに対して問いたいです。
ざっくり言うといっそ個人名つきの賞の名前全部をコミュニティが自発的に変えないかという提案です。

賞は原則的に与えられた対象を表彰する目的を持つが、その賞名に個人名を使用した場合、その個人を顕彰する性質(≠目的)をも備えてしまうため、賞騒動のようなコンフリクトが発生しうる。
主に人種差別という点で改称を求められたこれまでの賞と違い、ティプトリー賞は介護殺人への疑惑を根拠として改称要求がなされた。

これらの流れで認識したのは、個人の名を冠した賞は根本的にリスクを抱えており、創立当初には意識されなかった要素で常に改称要求を受ける可能性があること。
これまでも本当は賞名への疑義は呈されえた。たまたまされなかっただけで、ワイルダーを皮切りにティプトリーの番が来ただけだ。
今後受け身で改称要求がなされるのを待つときに、その要求の根底になにがあるのか判別のつかない疑心暗鬼も起きうる。

おそらく大抵の人は「アリス・シェルドンは同意のない介護殺人を行なった可能性があるため、私は彼女に悪感情がある」という意見単体であればそのまま受け入れたはず。あくまで疑惑止まりの段階であるが、判然としない状況でもそこに苦痛を感じうるのはわかる。
こじれたのはその疑惑を以て賞名を降ろす提議が持ち込まれたからで、改称を受け入れることが疑惑どまりのそれを事実に近づけるような印象を受け引っかかりを覚えた人もいるのでは。
キャンベル賞の改称がほぼ確信に基づいて行われたであろうことも影響があると思われます。

そういった点をふまえて、あらゆる人名を冠した賞名の先んじた改称を提案したいです。
誰もが無意識に矮小化していた認めにくいものを認めることと、作家の毀誉褒貶、改称の是非すべて同時に考えようとして、踏み絵のような構図ができてしまうのは皆に不幸で禍根を残してしまう。
個人の名前を冠した賞はもはや成立しないとの自覚のもとに、コミュニティ全体で自主的な改称を行えばよい。
作家の顕彰は他者を表彰するための賞の名前を以って行なわなくてもいい。賞の担う役割はシンプルに、改称は危機管理による切り分けに過ぎない。
改称反対派も冠された作家への想いを変える必要はない。その気持ちはそのままに、彼らの功績を別の形で伝えていくことに注ぎましょう。
かつてのティプトリーショックの折にも最初は混乱があったはずで、そこを経て現在のティプトリー受容があるのだから、この騒動をきっかけによい変化に導くことこそがティプトリーに対するけじめとなりうるはず。

これはティプトリー賞の改称を完全に肯定しつつ、なおかつ今後の賞名改称の動きに先回りするためのもので、ここから作品や作家の糾弾に繋がることを絶対に阻止するという合意形成もなされるべきと思います。

といった旨の提案は英語圏ですでに議論されてますか?

でもこれは議論当事者の頭越しに飛んでいくような提案で、センシティブな対話に真剣に取り組んでいるであろう状況で受け入れられるものなんでしょうかね。
まあもっとラディカルな意見があったりするかもしれませんが。

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