見出し画像

人間関係は交換で成り立っているか

 どこかの本に、人間関係は物々交換から始まったというようなくだりがあったのを覚えているが、果たしてそれだけで成立するか、私は疑問だ。例えば強制的に交換を強いてくる人と関係を結べるとはとても思えない。
 やはり、交換をする前に、信頼関係を結ばないといけないだろう。互いに信頼できる人間だということがわかって初めて、互いのものを渡し、思い出とともに利益を得るのが妥当なところだと僕は思う。
 交換をしても、信頼関係は育めると思っている人もいるかもしれないが、信頼関係と言うのは交換と切り離して考える必要はないだろうか。私はそう思う。
 ところで信頼関係と言うのは何だろうか。わたしは、「自分に危害を加えない人だと信じること」とここでは定義する。これは誰から見ても妥当な考えだろう。
 では、信じるとは何だろうか。信じるというのは、私の考えでは、「仮定としてその真を証明するように考え続ける」ことだと思う。ここで重要なのは、うのみにするということではなく、とりあえず正しいとしたらどんな矛盾が起きたり起きなかったりするだろうか、と考え続けるということだ。それは本来の信じるの形であると私は思う。
 しかし、真かどうか見定めようとすることは、わからないことを相手にしている以上、偽かどうか見定めようとすることと相違ないのだ。つまり、信じるということは、疑うということと一緒にセットでやらないといけないのだ。信じあっている人と、あるきっかけで急に関係が解消されるのは、信じている裏側に疑っている自分が存在しているからに違いないだろう。
 しかしそれでは我々は根無し草で生きていかなければいけない。だから、途中からかあるいは最初からそうであるのか、「信じるということだけをして、疑うをしない、それで構わない」と言う段階をどこかで経験するのが大抵であろう。
 それはつまりどう言うことかと言うと、確定しない損を確定したとみなすことにつながる。損してもいいと言っているということだ。そう、我々は人をうのみに信じるためには貯金が必要なのだ。そして最高の貯金とは、決して自分から離れて行かない、技術や技巧、つまり自分の腕なのである。
 ということは、僕たちは人を信じるためには、自立した人間にならないといけないということだ。依存をするために自立をするのであって、依存をしないために自立をするのではないのだ。
 しかし、我々は依存から物事を進めるのが常である。先生然り両親然り、我々は依存から始まって自立にたどり着き、そこからまた依存を求める。もう何が何だかわからない。
 結局、信頼関係はやはり信頼関係からしか始まらないのだ。
 だからこそ、我々は隣にいる見ず知らずの人を信じてあげなければいけないのではないだろうか。あるいは身寄りのない子供を。あるいは……。
 それを成すための方法は、もう今までの考えで、すでに申し上げていると思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?