2回戦結果とジャッジによる作品評


2回戦結果

A
「あなたと犬と」金子玲介 勝点3 準決勝進出
「森」雛倉さりえ 勝点2 

B
「砂のある風景」北野勇作 勝点4  準決勝進出
「グリーン テキスト」齋藤優 勝点1 

C
「抜ける日々からむいていく」大前粟生 勝点2 
「いっぷう変わったおとむらい」蜂本みさ 勝点3 準決勝進出

D
「天狗の質的研究」吉美駿一郎 勝点1 
「ミドリノオバサンとヒト、およびウマ」齋藤友果 勝点4 準決勝進出

採点詳細

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ジャッジによる作品評

笠井康平

その部屋のものさし

■はじめに
トーナメントが進むごとに、「基礎点」の比率は下げるつもりでいた。地力が拮抗して、添削はさほど要らなくなるからだ。代わりに「技術点」の評価を細かくしようと思っていた。候補作を一読して、考えを改めた。新しく書かれた文章には新しい読みで応えたい。悩んだすえ、採点項目を5つに分けることにした。判断の基礎は字数制限に置いた。評価指標を整理した。けれど、参考に留めた。ものさしの押しつけでも、ある視点からの選り好みでもなく、どんなスタイルの文章でも受け入れられるように。言葉に貴賤はない。長い生涯のある一瞬に、よりふさわしい文章があるだけだ。審判は目安にすぎない。理想は、好きなように書き、好きなように読むこと。じぶんにそう言い聞かせて。

■基本的な考え方
「基礎点」は30点満点とし、添削率に応じて算出した。「技術点」は1項目あたり2点とし、30点満点になるよう調整した。新たに30点満点の「構成点」と、10点満点の「素材点」を設けた。同点に備えて、1点満点の「推奨点」も持った(使わなかった)。
結果として、基礎点はほとんど差がつかなかった。技術点と構成点に差が出た。平均点は69.2点。1位と8位の得点差は8.5点だった。勝者を5点、敗者を4点とした。
前回の採点法では拾えなかったことがある。改善のため、テキストに「やさしさ」「広さ」「深さ」「遠さ」をもたらすものに、より着目できるようにした。4指標はそれぞれ5の特性に分解でき、5の特性はさらに複数の副特性を含み持つ。正副特性には、その昔、ぼくが試作した理論的整理を援用した(なつかしい)。他のジャッジが、評価観点に挙げたものも取り込んだ(助かりました)。ただし、「どの記述がどの特性を満たすか」は厳密に仕分けないようにした。4指標の重みづけは、つまるところ、読み手の経験や能力、体調に左右され、まったく中立的な尺度なんて設定できない。それなら、この方法を他のひとが使うとき、なるべく手間なく、迷わず、自分なりに、「読み心地」を言葉にできるほうがいい。
なお、「制作・編集のしやすさ」「読書体験の薦めやすさ」「宣伝・販売のしやすさ」は、採点項目から外した。マーケットの反応やオーディエンスの感想も、そのテキストがきちんと流通するのに欠かせないけれど、その判断は決勝戦ですればいい。

■採点項目の概要
「基礎点」の採点法は1回戦と変わらない。標準的な執筆作法に照らした巧拙よりも、著者が選んだ語りのモードに基づく判断に努める。試みに、その観点を5つに仕分けて――簡潔性、正確性、理解性、伝達性、流暢性――、「やさしさ」と総称してみた。書きたいことに、どれだけやさしくなれるか。その勝負だ。
もっとも、各特性は迷わないための「見出し」くらいのもので、定式化できたわけじゃない。たとえば、「流暢性」を正しく測りたいなら、テキストデータに加えて、メタデータとして音声・音素や品詞・語順、音数律の情報を与えなければ、妥当な判断は行えない。今後の課題だ。でも、ジャッジが生身の独力で果たせる機能を超えてもいる……。
「構成点」は、テキスト全体を約300字ごと・全8区間に分割して、区間ごとに採点し、30点満点に割り戻した。テキストに「広さ」をもたらす5の特性を意識しながら――娯楽性、充実性、構築性、論理性、戦略性――、区間ごとに何が書かれたかを読んだ。こうすれば、時間をまたがる「溜め」にも「切れ」にも注目できる。第1区間だけは、A.語り手と視点、B.文体と話法、C.登場人物と場面、D.提題と展開の4観点ごとにみた。出だしは、テキストの育ち方の多くを決める、大事な時期だから。
「技術点」も8区間ごとに採点した。満点を超えないように調整して、気に入ったところへ好きなだけ線を引くことにした(そのほうがたのしいと気づいたので)。テキストの「遠さ」に寄与する5の特性に注目した――新規性、独自性、多様性、共感性、没入性。
「素材点」は、テキストの「深さ」を構成するものが見つかれば1点、その扱いに驚くべきところがあれば2点とした。10点満点とし、5の特性ごとに――普遍性、社会性、共同性、普及性、記録性――2点まで加点した。
文章芸術(狭義の「文芸」)のアートマーケットでは、この指標がより強い意味を持ち、大きな価値を与えられるだろう。批評を産み出す源泉であり、編集の腕が試される戦場でもある。だけど、この採点法では比重を大きく下げた。批評は根本的に極私的な営みで、洗練されるほど一回性が高まり、再現性が失われる。編集は時代と世間に相対する文脈の提示で、市場との対話や歴史による淘汰を経ないと、その真価が探りづらい。いずれも経験論に帰着しがちで、誰もがくり返し使える手法作りには向かないのかもしれない。そう思って、いまはまだ、遠ざけた。

■利用上の注意
ご注意いただきたいのは、それぞれの指標・特性はまだ仮ごしらえで、名称も、分類も、定義も、要素の数も、完璧なものとは言いがたい。この世に数えきれない「ものさし」のうち、なんの権威もない無名の個人が、たかだか数年でようやく整理できたいくつかを、数段ほどしかない抽斗にしまってみただけ。「じっくりした読書」をたのしむのに少しは役立つと期待する。書き方の癖を見直すのにも使えそうだ。というか、他でもなく、ぼくが、じぶんのテキストを、情け容赦なく裁定したくて作ったのかもしれない。だからどうか、ある著作やその作者を拒み、裁き、貶めるのには用いないでほしい。
改めて確かめられたこともある。ぼくはテキストを冷たい部屋だと思う。同じように、ふたりの飼い犬であり、他人の森であり、砂のある風景であり、鮫の巣であり、二十本の爪であり、村民広場であり、天狗の声であり、横断歩道である。それはうれしい発見だった。だからこの総評も2400字以内にした。そのほうが公平な気がして。

■総合点と最終点・勝者
Aブロック
金子玲介「あなたと犬と」(72.9点)5点★
雛倉さりえ「森」(71.8点)4点

Bブロック
北野勇作「砂のある風景」(68.0点)4点
齋藤優「グリーン テキスト」(69.4点)5点★

Cブロック
大前粟生「抜ける日々からむいていく」(70.9点)5点★
蜂本みさ「いっぷう変わったおとむらい」(70.0点)4点

Dブロック
吉美駿一郎「天狗の質的研究」(64.4点)4点
齋藤友果「ミドリノオバサンとヒト、およびウマ」(66.2点)5点★

※「天狗の質的研究」のみ、2,644字(筆者試算)とやや字数超過していた。今回の採点法は、たくさん書くほど、得点が上がりやすい。公平のため、2,400字を上限とし、技術点と構成点から、超過字数分に当たる9.2%(=1-2,400/2,644)を減点した。

※評価指標の詳細と個別評は、ぼくのnoteに掲載しておきます。Eブロックも(削除されたものを含めて)一読したのですが、評が間に合いませんでした。すみません。


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橋本 輝幸

ブンゲイファイトクラブ 2回戦選評
白黒つかないファイトの白黒をつける

【全体評】
 見てのとおりの激戦で、面白い小説ぞろいですが、理解を拒むような作品や破綻しかけた作品はありませんでした。むしろ1回戦より、巧さや面白さの性質は素直です。また、対戦相手やジャッジに対して策を講じた作品は見当たりませんでした。せっかく舞台に上がったのですから、ファイターの皆さんはもっと暴れてもよいのではないでしょうか。

【評価方法】
 前回と同じ評価法では点差が開かないため、変えました。作者名を隠して読むのもやめました。以下の基準で8作を相対評価しました。内訳はご想像にお任せします。
技術力(一般的な小説の巧さ)
読者を沸かせる見せ場や決め技があるか
第1回戦と異なるファイトスタイルか
闘志(対戦相手や読者の鼻をあかし、勝ち残る気概がありそうか)
映像化困難性/文芸作品ならではのテクニックを使っているか

 私がこの大会で観たいのは、未知と挑戦です。そこで、スタイルがはっきり確立しているファイターほど不利になる配点にしました。下克上のチャンスとして用意した3や4をプロばかりに獲っていかれたのは想定外です。
 勝敗は点数とは関係なく、対戦ごとに検討しました。必ず両選手が勝ったケースをそれぞれ想定し、試合運びや決定打の流れを考えて、よりしっくり来たほうに勝利を与えました。対戦Bは特に悩ましく、何戦シミュレーションしたかわかりません。
 今回は試合の解説役気分で個別評も書きました。未読の方は先に作品を読むことをおすすめします。

【個別評】
対戦A 勝者:金子玲介「あなたと犬と」
金子玲介「あなたと犬と」
 ユーモアと愛情にあふれたムードは1回戦と共通しますが、本作では読者への揺さぶりも加わっています。語り手、本当にそれでいいんですか? しかし実際、人の主義や考えはしばしば時間と共に変わります。見た目もです。はたして同一性の条件とはなんでしょうか。あるいは空いたポジションさえ代わりに埋めれば、別に同一でなくても構わないのでしょうか。
 オチに向けてやや予定調和ながら、枚数内できっちり攻めきる爽快感がありました。単一技で押し切る戦法を変えるのか、今後にも要注目です。

雛倉さりえ「森」
 学校で森の飼育が流行する。じつに魅力的な設定です。テンポや構成も手堅く、技術にはケチのつけようがありません。「男子受けの良いコマユミの葉」のような言葉選びのセンスの良さ、結末のバランス感覚(あたしたち、という複数形)も見事です。
 問題は、私には二者間に発生する感情の機微を感じとる受容体がないことです。しかし二者の関係が雛倉作品の核で、創作意欲の源泉でもあろうことはわかります。雛倉さんは能力のバランスの取れたファイターです。だからこそ、感度の鈍い読者にも膝をつかせるような強烈なキックがほしかった。私が没入するためにはもう少し登場人物像にヒントが必要でした。

対戦B 勝者:北野勇作「砂のある光景」
北野勇作「砂のある光景」
 最初の段落がまず素晴らしい。開幕即K.O.狙いの一撃です。バラエティーに富んだ各段の波状攻撃、最後1ページ分の畳み掛けラッシュもあざやかです。たとえ規定が100文字でも20枚でも120枚でも、北野さんは危なげなく枚数に応じた砂のある光景をさらさらと書ききるに違いありません。総合格闘技の王者の風格でした。
 ファイトスタイルを切り替え、勝ちに来たのには驚かされました。個人的には1回戦のほうが力強く見ごたえがありましたが、幅広い読者に応援されるのは本作ではと思います。しかし、どうしても既知の巧さを上回る何かを期待してしまいますね。

齋藤優「グリーン テキスト」
 不条理小説と青春恋愛ものの融合です。語り手は、サメを目撃したとうそぶく級友や、サメに食いつかれた女性にやけに冷淡です。起こるはずがなかったイベントの実現が嫉妬を呼び起こし心を乱すから、目をそむけているのでしょうか。ハンカチとページの散乱のイメージが印象的です。想い人を待ちながら相方と茶番を続けるのが、語り手にとってはあるべき日常なのかもしれません。
 齋藤優さんは非日常的な状況と端整な心情描写を両立し、凝った漢字表記や解けない謎で読者を惑わす、酔拳の使い手です。しらふか酩酊状態か、意図的と無意識のバランスはどうなっているのか。見きわめるためにもぜひ勝っていただきたかったのですが、本作で「砂のある光景」から有効打をとるのは困難と判定しました。

対戦C 勝者:大前粟生「抜ける日々からむいていく」
大前粟生「抜ける日々からむいていく」
 この題名は読み上げると十中八九まちがって聞き取られます。成功するのは発話者がゆっくり滑舌よく発声し、聴衆が注意深く耳をすましていた場合だけです。コミュニケーションの成立がいかに奇跡的で尊いものか、象徴的なタイトルです。
 登場人物のあいまいさや配慮はきわめて今日的です。本作の切実さを受けとめるには、読者もうんと目や耳をこらさなくてはいけません。人によっては「これ強いの?」「戦ってるの?」と質問するでしょう。太極拳の"推手"のような作品でした。武器であるとっぴな設定を捨て、基本的な小説スキルのみの徒手空拳で挑んだ点も称えたいです。

蜂本みさ「いっぷう変わったおとむらい」
 予選敗退から復活した注目のファイターの野心作です。災害が多い山村では死者を即身仏(ミイラ)のように弔い、死を割りきるようです。一人称なのに神の視点に近い語りも、語り手が仏であれば納得できます。
 外の世界を知る存在として兄を配置したのは効果的でした。ただし読者に見せたい部分にカメラが寄りすぎている印象です。蜂本さんからは、気兼ねなく自信をもって創作を楽しんでいる雰囲気が感じられます。乗りに乗っている選手でした。

対戦D 勝者:齋藤友果「ミドリノオバサンとヒト、およびウマ」

吉美駿一郎「天狗の質的研究」
 吉美さんは2作続けて、一見対立しそうな要素を同時にこなしています。サスペンスの技法と少し古風で落ちついた文章。論理的な説明と超常的な設定。重心が独特ですが、その姿勢で安定しています。固定ファンがつきそうな選手です。
 情報量の多さ、とくに冒頭の文字起こし部分の長さが読む上で障壁になっているのが惜しいところ。文章に悪い引っかかりがない分、読み流される懸念があります。中盤や最後の一文につながる重要部ですので、ここは丁寧に読者にぶちかましてください。
 欲をいえば、6枚で完結したタイプの作品も見たかったです。連載の次回が読みたくてたまらなくなりました。

齋藤友果「ミドリノオバサンとヒト、およびウマ」
 異常な状況を説得力をもって語るファイターです。読者を不穏な世界に絡めとります。本作は枚数の半ば以上が説明ですが、集中力が途切れそうなあたりで驚きが用意されるので、読むのが苦にはなりません。
 説得力の秘訣のひとつはグルーヴ感です。馬がパカパカ歩き、糞がボタボタ落ちるリズム。頂点で乱れたテンポはまた元に戻ります。いかに奇抜な素材でも、齋藤友果さんなら楽器がわりに音を出せますし、作中人物や読者もそのリズムに取り込まれるでしょう。ダンスのようで実戦にも強い、カポエイラの動きでした。しいていえばテンポの加速に理由を設けるか、クライマックスでもっと乱れたほうが、読者受けは良さそうです。

金子玲介  3 ☆
雛倉さりえ 2
北野勇作  5 ☆
齋藤優   3
大前粟生  4 ☆
蜂本みさ  4
吉見駿一郎 2
齋藤友果  4 ☆


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仲俣暁生

BFC二回戦選考結果

勝利者             採点結果

   「あなたと犬と」金子玲介  2
◎  「森」雛倉さりえ      3
     
◎  「砂のある風景」北野勇作    4
   「グリーン テキスト」斎藤優 2
     
   「抜ける日々からむいていく」大前粟生   4
◎  「いっぷう変わったおとむらい」蜂本みさ  5
     
   「天狗の質的研究」吉美駿一郎           2
◎  「ミドリノオバサンとヒト、およびウマ」齋藤友果  4

[選評]
 二回戦の各対戦結果について述べる。
 「あなたと犬と」と「森」は奇妙な飼育対象という共通点をもつ。〈犬〉と〈森〉はいずれもその言葉が通常意味する具体物からズラされた象徴的な存在なのだが、「あなたと犬と」ではそれは奇妙な対話劇の向こうでいっこうに姿の見えないものであるのに対し、「森」ではあからさまなほど性的なモチーフと結びついている。その上でどちらを勝利者とするか悩んだが、金子・雛倉とも1回戦と同趣向の作品であり、同様の評価となった。雛倉作品の湿度をもった表現はありきたりだが、金子作品の良さが今作を読んでも私にはよく理解できなかった。1点マイナスなのは、これが確固たる手法というよりは、やや安易な手癖に思えたからである。よってこの対戦では「森」を勝利者とする。
 「砂のある風景」と「グリーン テキスト」は〈砂漠と亀〉対〈プランクトンに満ちた池に住む鮫〉という乾燥と湿潤の場の対決。「砂のある風景」は3行ずつの分かち書きで、それぞれが独自の定型詩のような佇まいをもちつつ、続けて読むと掌編小説を構成しているという技巧的な作品であり、「グリーン テキスト」のほうは軽妙な口調で語られるわりとシンプルな怪異譚。限られた文字数のテキストの向こうに立ち上がるまさしく〈風景〉のイメージ喚起力を比べたとき、勝利者はおのずと北野作品となった。
 「抜ける日々からむいていく」と「いっぷう変わったおとむらい」は、二回戦屈指の好カードだった。大前作品のすぐれた叙情性は神宮寺本と呼ばれる少年の「夕陽を目指した色」の爪によってストレートに伝わってくる。泣けてくるほどだ。〈マリメッコ〉による語りは少年同士の友情のもう一枚底にある複雑な感情をうまく伝えており、好きになれる作品だった。しかし、「いっぷう変わったおとむらい」がもつ圧倒的な力、なんというか、すぐれたサッカー選手がボールと一体化したような華麗な動きを見せる、そのような「言葉さばき」と比べたとき、この優れた作品でさえ見劣りがするように思えた。「いっぷう変わったおとむらい」はよくある〈村の奇習〉ものである。語り手の少女〈わたし〉はたんなるナレーターではなく、読者の視点を制約することで作品を成り立たせている一種の「仕掛け」でもあるが、この作品はそうした構造よりも部分、とりわけ「声」と「動き」の魅力にある。大前作品では神宮寺本の「爪」に塗られた「オレンジ色」に作品の重心すべてが掛けられており、ややスタティックな印象を与える。蜂本作品でそれに相当するのは〈兄〉に抱き上げられた〈わたし〉の両手が揺れる場面だ。「左手の親指から順に赤だいだい黄色みどり青、右手の小指に移って紺色むらさき白黒ねずみ色」。ここには単にカラフルなだけでなく音としての快楽があり動きの快楽がある。そこに象徴される圧倒的な魅力ゆえ、「いっぷう変わったおとむらい」を勝利者とした。
 「天狗の質的研究」と「ミドリノオバサンとヒト、およびウマ」は人ならぬ人をどう描くか、すなわち〈天狗〉と〈ミドリノオバサン〉の対決となったが、これはほぼ瞬殺で〈ミドリノオバサン〉の勝ちと判断した。吉美作品の〈天狗〉こと〈椿新一郎〉はむしろその外見を描かれるべきではなかった。「犬頭人身」から「狼のような顔で、頭が小さいため手足が長く見える」まではすべて不要でむしろイマジナリーな存在としての〈天狗〉を浮かび上がらせるべきだった。対する〈ミドリノオバサン〉は、ひたすら糞を投げつけるという非論理性、たんに「みどりの肌を草と間違われ、ウマに顔をかじられたことがある」とのみ描写されることで神話的存在となりえている。しかも齋藤はこの〈ミドリノオバサン〉を最後に「数ヶ月もすれば忘れた」と放り出し、〈糞〉のみを私たちの目の前に残した。その巧みさにおいて吉美作品を凌駕した。よって齋藤作品を勝利者とした。
 二回戦からは一騎打ちの勝ち抜きトーナメント方式となったため、かならずしも全8作のうち上位4作が勝ち抜くのではなく、同点であっても通過した作品と敗退した作品が出たことを残念に思うが、これこそがブンゲイファイトクラブという試みの醍醐味なのであろう。あくまでもバトルであり、品評会ではないのだ。二回戦を通過した作家にはぜひ、三回戦では「勝つ」ことを意識した作品を書いてほしい。同じ技は三度は通じない。仏の顔もサンドバック、である。

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樋口恭介

総評、というかただの愚痴

評価方法は前回同様。ただし評価観点は今や参考情報以上の効果をもたらしてはいない。どの作品もすばらしく、今回僕はほとんどの作品に高得点をつけ、Cグループに至っては(第一回戦でその採点方法の難を指摘されているにもかかわらず)両作品に5点をつけた。選んだ作品には○をつけ、選ばなかった作品には×をつけたが、○と×のあいだに明確な境界があるかと言うとそうでもない。自分の評価が正しいかどうか、全然自信がない。一週間後に読み返してみたら、結果は今とは異なるかもしれない。いい加減にならないように評価観点を考えたはずなのだが、結局僕はいい加減になってしまった。そう、もう正直に言ってしまおう。それぞれの作品について、以下に評価と称していろいろグダグダとそれらしいことを書いてみてはいるものの、僕はこれらの作品を前にして、ぶっちゃけた話、「マジすごい」以外の感情が湧かないのだ。はっきり言ってジャッジとしては失格である。そのため僕はおそらく今回でジャッジを降りることになる。ブンゲイファイトクラブに参加して気づいたが、僕は優劣をつけて作品を評価するという能力が著しく欠けているらしい。第一回戦も第二回戦も、僕は目の前に置かれた文章を、ただ愚直に読んでいくことしかできなかった。しかしまあ、愚痴を言っていても仕方がない。そういうわけで、早速、それらしく書かれた評価の内容に移りたい。

【A1】金子玲介/あなたと犬と ×
・評価:4
・理由:新規性や実験性には唸らされた。また、読み手を良い意味で裏切っていく論理の組み立て方も面白い。一方で構築性という観点では粗が目立った。その言葉選びで本当によいのか、読み手として信頼できる第三者に相談しながら、何度も改稿を重ねるとよいと思われた。そのため1点減点した。
・感想:読み始めてまず、「これはすごいのがきた!」と思ったが、残念ながらその印象は尻すぼみで終わったというのが正直なところである。この小説は、普通の小説とは別の仕方で書かれているが、そうであるがゆえに、普通の仕方で書かれた場合への想像を喚起させてしまい、そしてその姿が容易に想像できてしまうがために、この姿であることの必然性を帯びていないと読み手に思わせてしまうという難点がある。
読み手の認識に対し、分裂と統合を同時にはたらきかける本作の文体上の戦略は、(書き手が知ってか知らずか定かではないが)鈴木一平のルビ詩を想起させる(というか僕は想起した。的外れなアナロジーであれば申し訳ないが、想起したのはしょうがないのでこのまま話を続けさせていただく)。しかしながらその分裂-統合の戦略は、鈴木のそれほど洗練されたものではなく、成功しているとは言いがたい。鈴木の詩が、音律の近さと意味の遠さがルビに圧縮されて同時に置かれることで、読者に対して強烈な異化作用=認識のねじれをもたらし、読めるのに読めない/読めないのに読めるというたいへんスリリングな異常事態を引き起こすのに対し、金子の文体は音律における遊びはなく、地の文と会話文の間の意味の距離も近いために、企図する実験性がそれほど効果を発揮しているとは思えなかった。そこには、読むという営みによって小説と読者のあいだで起動され駆動される、目には見えない機械のメカニカルな運動はなく、要するにぱっと見の「ツカミ」、あるいは「カマシ」としての異化作用しか生んでないように、僕には思われたのだ。
『遊星からの物体X』より反復されるSFホラーのマスイメージを、現代日本の日常描写によって再描画を試みるプロット面での試みは、『団地』や『散歩する侵略者』のような優れたSF作品への挑戦とも読めて好ましいが、「xxxxx」といった会話文にはまだ、洗練の余地があるように思われた。6枚の中に日常と侵略とファーストコンタクトの描写を入れるのは、少し詰めこみすぎなのかもしれない。この作品は全体的にプロトタイプといった印象で、前述の先行作品と比較すると、完成度という点で疑問が残る。ただ、プロットはとてもいいので、より推敲が練られ、より長めに書かれた別バージョンを読んでみたい。
先ほど成功していると言いがたいとは書いたものの、困難な試みをしている作品であり、その蛮勇は評価したい。しかし後述する「森」の徹底して構築された世界に比して、新規性や実験性や、そうしたものへの志向性だけで「次に進むべきだ」と判断するのは、少し難しいように思われた。

【A2】雛倉さりえ/森 ○
・評価:5
・理由:完璧だったため。
・感想:完璧な小説だった。思春期のねじれた自意識、自分でコントロールしているはずの自分が、まるで自分ではないように動いてしまう性質や、子供と大人のあわいにおける、コミュニケーションに性的なものが入り混じることの喜びととまどい、その頃の男女間の不安定な権力のやりとりを、森の描写が的確に表現しているように思った。全体を通して、情報の過不足があまりにもなさすぎて驚いた。ビジョンは大きく、かつ鮮明で、描写と存在の感覚と主題が、分かちがたく結びついている。この長さでこれだけのものを書くのは相当な力量である。このまま海外のフラッシュフィクションの傑作選に入っていても、まったく違和感がない。この青春の感覚は普遍的なものだと思うので、世界で勝負できると思う。この小説が勝ち上がることに文句をつけられる書き手はいないだろう。少なくとも、僕は文句をつけられない。

【B1】北野勇作/砂のある風景 ○
・評価:5
・理由:書き手は何より自分を信じており、小説を通して書きたいこと(それはあくまで「書きたいこと」であり、「言いたいこと」ではないことを強調しておきたい)が明確で、その狙いに対して的確な表現形式が採用されていると思われた。そのため僕から特に言えることはなく、5点をつけた。
・感想:構造も内容も文体も、そこに描かれた砂のようにつねに流れ続け、その形状は定まらない。「砂しかないように見えるし、事実その通りなのだが、そんな砂漠の砂の中から砂の城を掘り出すことができる者がいるらしい」という冒頭の一文は、ボルヘス「砂の本」はむろんのこと、円城塔『Self-Reference ENGINE』の冒頭や、グレッグ・イーガン『順列都市』における「塵理論」と並び、無限のあり方の中の便宜的な形としての小説そのものを表象している。さらに、一行空けで展開される段落の一つひとつは、北野がTwitter上で展開する「(ほぼ)100字小説」の形式をとる。
SNSのアーキテクチャが生み出す〈フィルターバブル〉や〈エコーチェンバー〉など、情報の限定化によって認知が歪められる〈ポストトゥルース〉と総称される現象が現代社会全体を大いに揺るがしている中で、北野はフェイクがうずまくTwitterにおいて、小説――〈フェイク〉ではなく〈フィクション〉であるもの――を書くことで、Twitterにおける情報の限定性を逆手にとり、小説の無限を喚起させる。現実を志向し現実を書き換え現実のふりをする物語を選ぶのではなく、現実の一部に小さな穴を開け、現実を相対化し、夢としての別様の現実を見せるための物語を志向すること。物語を読むことで、穴からのぞく、無限の可能世界に思いをはせながら、この現実を生き抜くということ。誰しもが閉じたインターネットでつぶやきを続け、有限性の中で有限性に拘う中で、有限の砂から無限の砂の城を立ち上げる、フィクションの原理的な可能性を提示する北野のその方法は、きわめて現代的できわめて批評的であると言える。

【B2】齋藤優/グリーン テキスト ×
・評価:4
・理由:とてもうまいし面白い小説なのだが、象徴効果と実際に描写されたもののあいだの意味の緊密性(アナロジーの強度)には疑問を持った。グリーン テキストを表象するにあたり、鮫はなぜ鮫でなければならなく、スプーンはなぜスプーンでなければならなかったのか、僕はちゃんと読み取れているのか自信がない。もちろんこれは僕の読み手としての力量不足でもあるのだが、読者の解釈に作品の構築性の一端をゆだねるために、作品を読み解くヒントを散りばめるには、6枚では足りていないようにも思われた。そのため1点減点した。
・感想:齋藤優の作品は「その愛の卵の」に続き、たいへん重層的で、さまざまな読みの可能性がうめこまれており、読むのがとても楽しい。
本作は「グリーン テキスト」を繰り込むことで、虚実の表裏が読みによって反転する可能性を繰り込んでいる。
「グリーンテキスト」とは匿名掲示板「4chan」で語られるネットロア、コピペによって拡散されるミーム的性質を持つショートストーリーを指す。鮫が出る池に纏わるティーンエイジャーの物語とちういかにもネットロアらしい舞台に、「ストーカー」や「うわさ話」、伝聞による設定やメールによる回覧など、ミームを彷彿とさせるモチーフが反復される。
本作において、鮫はミームの中心に置かれている。「渦を巻き、弧を描いて泳ぐ狭い範囲の中心に、バラバラにほどけたみどり色のページが、十枚も二十枚も浮きあがってくる」という一文は、生成されてはコピペの過程で改変され続ける数多の既存のネットロアを指しており、本作がその系譜に連なることを描写によって示している。「すっげえ」「本当にいるんだ」という言葉は鮫に向けられたものであると同時に、鮫が担う「グリーンテキスト」という総体としてのミームに対して向けられている。本作のタイトルは「グリーン テキスト」という。元来の「グリーンテキスト」とは異なり、そこには単語を隔てる半角スペースが挿入されている。嘘であることが前提の「グリーンテキスト」とは距離を置こうとする意志がある。「グリーン テキスト」は「グリーンテキスト」を内包しつつも独立しつつ、固有の、実在の手触りを残す。ここにあって、ミームは一つの固有の作品に結実している。
そう、鮫の形をとり、小説の形をとり、変幻自在に、ミームは実体化するのだ。それはときに誰もが目撃可能な形で噴出する。「どうせ嘘だけどね」と言っているうちに、取り返しのつかない仕方で。
それは鮫の形にも見えるがそうではないようにも見える。見え方は人によって異なる。それは原因ではなく帰結であるに過ぎず、「殺魚剤」を撒いても殺すことなどできはしない。ミームの帰結をなかったことにはできても、ミームの育つ場所が残されるのなら、ふたたび鮫は帰ってくるだろう。僕たちはネットという底の見えない池に張りそう付き、その様子を眺めている。アイスを食べ、スプーンをかじりながら。

【C1】大前粟生/抜ける日々からむいていく ×
・評価:5
・理由:読んで泣いたから。一番感動したから。
・感想:優しい小説だった。これに限らず大前粟生の小説は優しいのだが、この小説は大前粟生の作品の中でもかなり優しい部類に属する。
大前粟生の小説は、人間が、論理ではなく感覚によってこの世界を認識し、体験を構成し、思い出を蓄積する生き物なのだということを僕たちに思い出させてくれる。
たとえば「空に電線が泣きそうに並んでいてきれいなのを、いつもうまく写真に撮れない」という印象的なフレーズは、僕らが写真を撮るとき、写真におさめたいのは被写体そのものなのではなく、そのときの気持ち、被写体が湧き起こす感情なのだということを、とてもリアルに浮き彫りにしている。そしてその直後に書かれる「俺はいま神宮寺本としている会話を将来も覚えているかもと思った」というフレーズ。これは突拍子もない一文であり、一般的に言って論理的に飛躍しているが、たとえばとても強い印象を持つ情動や思考が働いたとき、僕たちの脳は文脈を無視して思考を開始する機能を持つという事実を、端的に表現していると言える。感情は写真におさめることはできず、時間は記録することはできないが、僕らの身体はシナプスの結節点やインパルスが流れる経路を学習することで、思考するという仕方で、感情や時間、あるいはそれらを超えた何かを、この身体に焼きつけることができるのだ。
思考は本来単線的ではなく複線的な構造を持つ複雑系であるがため、単線的な論理によっては再現されえない。複線的な思考を記述し喚起させる外部装置、それを直観的に示すことのできる最も効率的なモデルは、今のところフィクションしかない。フィクションだけが、論理を超えて、複線的な思考の記録と表象を可能にする。そして、大前粟生の小説の持つ、一見ショートカットのように見える優しさの感覚は、フィクションだけが担いうる、複雑な人間の思考の再現前化を、高い精度で実現している。ここには一般的な意味での論理はないが、小説固有の内在的な論理とも呼びうるオルタナティヴな論理の体系が、類似の構造を持つフレーズの反復によって強く描き出されている。そこに本作のすごみがある。
小説は読み捨てられる。小説はむろん読み捨てられるが、そこには小説ではない姿の何かが残る。それは読み手によって異なる。もはや「爪は特別ではな」いが、「海岸のかたちとして残」るのだ。
小説は消費財である。しかし、最後に残る情動そのものは消費財ではない。最後には優しさが残る。爪の跡の、海岸のかたちとして。ここにあるのは人類の希望としての小説なのだ。

【C2】蜂本みさ/いっぷう変わったおとむらい ○
・評価:5
・理由:構築性においては群を抜いていたように思う。二重に読めるロジックの設計と、それを矛盾なく下支えするレトリックの妙には唸らされた。Cグループは甲乙つけがたく、最後は好みになってしまうのだが、次の作品はどんなのが出てくるのかわからないという期待もあり、断腸の思いで蜂本みさを推したい。
・感想:マジックリアリズムと読むかホラーと読むか、いずれの読み方でも楽しめるよう練られた設計が素晴らしい。果たして語り手は生者なのか死者なのか、語っているのは誰なのか? そうした謎を解き明かすために、読み手は分岐の起源を辿り直し、何度も細部を点検させられる。そういう意味では優れたミステリでもある。
僕は初読時は語り手を生者と思い込んで読み進め、ある種の口減らしの風習の残る村落を舞台にしたホラー小説として読んだ。最後の一文によって語り手の少女は殺されるのだと。
しかしよく読んでいくとどうもそうではないことに気づく。兄の貧乏ゆすりとともに「ぴょこぴょこ跳ねる」膝や、「陽の光にあたためられた喪服」といった描写、「兄がわたしを軽々と抱き上げて舞台に走った。わたしの両手がぶらぶら揺れる。指が絵の具できれいに塗り分けられている」といった、自分の身体に対する客体的で他律的な視線。「わたしの口からうなるような音がこぼれた。とてもかすかな。虫の羽音のようにかすかな。誰に聞こえるはずもなかった」という奇妙な(反自然主義的な)文章。語り手は既に死んでおり、これから死んだ語り手の弔いの儀式が始まるのだ。そう読むと最後の一文はまるで違って読める。そこからは、ホラー的な口減らしの物語ではなく、弔いを祭りとして位置づける村落の、マジックリアリズム的な物語が立ち上がってくる。
プロットの構築性もさることながら、生きることと死ぬことのあわいを揺れる語り口もすばらしい。生きているということは、別の仕方で死んでいるということであり、死ぬということは、別の仕方で生きるということなのかもしれない。生死のあわいは解釈にすぎないのかもしれないという強烈なイメージを、大小さまざまなレベルで緻密に構築し提示したとてつもない作品であり、人間が人間の認知限界をもってしか読めない文学として、その可能性と限界を示していると考え、その意味で、本作は時空を超えた普遍性を獲得している作品であると評価した。

【D1】吉美駿一郎/天狗の質的研究 ×
・評価:3
・理由:構築性に難があるように思われた。また、伏線のようなものはそこらじゅうに撒かれており、回収するための論点のようなものも書かれていないわけではないのだが、それが大きな驚きへとつながっているわけではない。論理性と構築性において改善の余地があり、そのため2点減点した。陳腐な比喩を許していただきたいのだが、あたかもフルコースの料理を一つの茶碗に盛り付けようとした作品であるようかのような印象を受けた。シリーズものの一つとしてなら評価できるものの、単体で評価するとこうなってしまう。ただ、逆に言えば、シリーズ化するとすごい作品になりそうな素材は、出揃っているように思う。
・感想:長編、あるいは連作短編集の冒頭のように読めた。強烈な印象を残す設定や人物造形、謎を残す最後の一文は魅力的だが、魅力的であるがゆえにそこで閉じ切られておらず、掌編としての完成度は高いとは言えないように思われた。小説は必ずしも物語を必要としているわけではないが、ここに描かれた設定や登場人物たちは、物語を求めているように思えた。謎多き天狗の来歴を自称天狗自身が語り、それを脳内で直接聞いた聞き手が聞き手の口を以て発話し、聞き手は発話した自分の声を記録し、その記録に関する日誌を書くことで聞き手は書き手にもなっているという、あたかもソクラテスとプラトンのような関係性を思わせる構図を置き、書くこと/考えることの起源が辿り直されるかのように試みられる、重層化された騙りの運動はすばらしい。しかしやはり長編向きの設定だと思われるため、長編として改稿することを推奨したい。

【D2】齋藤友果/ミドリノオバサンとヒト、およびウマ ○
・評価:4
・理由:すごく面白い小説だし、このままでも完成しているとも言えるのだけど、重箱の隅をつつくような目で見れば、瑕疵がないとも言い切れない。作品世界の構築性を守りながら、娯楽性をより高めるための言葉選びができると思うので、信頼できる第三者と相談しながら、改稿を重ねるとよいと思った。そのため1点減点した。
・感想:中盤までのカフカ的世界観の描き込みは端正で素晴らしい。また、後半に起こる小さな事件とその収束を描くことにもサービス精神が感じられてとても好感が持てた。異様な世界観を描きつつも娯楽性のある構成を展開するのは難しいが、この作品はある程度までそれを達成している。強いて言えば盛り上がるべきシーンでイマイチ盛り上げ切らないところか。糞拾い係とオバサンのタイマンで終わるのではなく、街全体を巻き込んだ大乱闘にまで発展させても面白かったかもしれない(しかし一方で、盛り上がるシーンのしょぼさもまた本作の魅力ではある)。また、ミドリノオバサンが警察官(という異化しきれていない権威と暴力の象徴)に逮捕されて事態が収まる点には、多少の改稿の余地があるように思われた(ただ、繰り返すが、このままでも全然完成度は高い。我が身をふりかえると、推敲以前に、僕はここまで書けない)。

最後となったが、僕自身、長篇小説を一作しか書いたことのない、デビューしたばかりの新人作家の身分であり、このような――おそらく今の自分の技量では書けるはずもない――優れた小説たちを読め、また畏れ多くも評価できて、とても良い経験になった。主催の西崎憲さんはじめ運営にかかわった方々、また他のジャッジの方々、そして何よりもまず、作品を書いて寄稿していただいた作家のみなさまに、この場を借りて感謝の意を表したい。すばらしい小説を読ませていただき、本当にありがとうございます。僕に言われるまでもないと思いますが、ぜひともこれからも書き続けてください。それではまた、どこかでお会いしましょう(あ、たとえジャッジを降りたとしても、次の試合以降も作品は読み続けます。もちろん。言うまでもなく)。


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元文芸誌編集長 ブルー

「ブンゲイファイトクラブ」2回戦、ジャッジにあたって。

■今回提出された作品のみで判断するように努力します。つまり、1回戦の作品、または既作、既存の評価は出来る限り判断基準には入れないようにしました。
■○○という作品/作家に似ている、という方向の評価も避けたく思います。
■私は批評家ではなく編集者なので、その立場での評価となります。
■未知なる才能、作品との出会いを楽しみに読ませていただきます。


第二回戦 A

個別評
金子玲介「あなたと犬と」4点

 単に地の文と会話文を混ぜているだけでなく、読者に伝わるギリギリの部分を見極めて、「人間の会話と行動」を「小説にする」ことに挑戦し成功しています(おそらくそれは、「リアルさ」の追求でもあります)。もちろんそれは、金子さんのベーシックな文章力の高さによって支えられています(同時に、気の遠くなるほど文章を練っている)。シンプルな言葉の積み重ねで紡がれる物語は、幻想でも奇想でもなくおそらく純文学です。信じさせるための絶妙なバランスのギミック(仕掛け・技術)と、書き手が「彼ら」がいる世界の存在を当たり前に確信することにより、これだけの小説的強度が生まれるのです。(転記者註 原文の赤字部分はゴシック体、傍点部分はアンダーラインに変換しています)
 では「×××××」は何なのでしょうか。これ以前、原稿用紙400字×5枚程度で立ち上げられた世界で、私たちは「君」と「あなた」と「犬」の最低限の関係を、身体的に理解します(「最低限」の情報で「理解」させる金子さんの技術が光ります)。「彼ら(+犬)」の情報をこれほど抑えて書かれているにもかかわらず、私たちは彼らの関係がわかる。これはすごいことです。その上で「×××××」を見ると、著者である金子さんが読者に「いま、この小説を読んでいる瞬間のあなたの気分で、好きな会話を入れて遊んで下さい」と言っている気がしてならないのは、私の思い込みでしょうか。
 とはいえ、少々ハイブロウです。掌篇だからこその手法ではありますが、もう少し肩の力を抜いた、登場人物に身を委ねた金子さんの作品と出会いたいとも思いました。


個別評
雛倉さりえ「森」4点

 通常、「私(作中=あたし)」を描く場合、そこには対抗すべき「社会」があります(あることが多いです)。雛倉さんの作品も読み始めた時、「森」というメタファーを使った「私」の苦しさを描く作品なのかな、と思いました。しかし読み進めていくうちにむしろどんどん「個人」の(資質の)問題に落とし込まれて行く。誰にも見せたくない「私だけの森」ではなく、「誰かに見せるための森」という視点の面白さもありますが、自分の「森」を他人に取込まれて失った先に生まれたのが絶望ではなく「スカートの下の官能」だったこと、そしてその言葉の強さに、ゾクッとさせられました(ナナオが「あなたのために育てた森」と言いますが、この使い方もよかった)。
 小説においても批評においても、仮想敵を「(現代)社会」とするのは、実はすごく書きやすい手法です。伝わりやすく、大きな小説に見えるからです。しかし雛倉さんは、シンプルに「個人」を描き切った。「物語」をしっかりと紡ぎながらも(コントロールしながらも)少女の「感性」に徹底的に寄り添い、素晴らしいラストの言葉を主人公に言わせました。さらに「ナナオが綺麗にほほえんでいる」は、書けそうで書けない一文で、雛倉さんの言語感覚の高さを感じます。この一文に出会えたことは、編集者として幸せでした。
 些細なことですが、「闇がざらつき」「森が響動む」などの表現は、この小説内では少し背伸びをしている印象を受けます。もちろん雰囲気・空気を言葉にするのは大切なのですが。


ジャッジ
金子玲介「あなたと犬と」を推します。

 広く受け入れられるのはおそらく雛倉さんですが、今回は僅差で金子玲介さんを推します。金子さんは「掌篇(短篇)」でしか読めないものに挑戦しているからです。雛倉さんの作品は、是非、中篇として読みたいと思いました。この作品には、ジェンダーを超えた新しい「性=欲望」の萌芽があります。是非、花開かせてあげて下さい。


第二回戦 B

個別評
北野勇作「砂のある風景」4点

 100字の世界×20本の、あまりに見事な作品群に圧倒されます。個々で成立しながらも、(砂の)イメージや単語で縦横に繋がり、無数の掌掌や短篇がその瞬間瞬間に生まれるのです。さらに注目したいのは、二本目の「〜あるいはここが砂漠化する前に棲んでいた虫の幽霊なのか」に続く「いずれにせよ、もう秋だ」(傍点評者)という文章です。これを当たり前に使えてしまう北野さんの圧倒的な技術と小説家的身体性(信じる力と信じさせる力)に感服します(おそらく、ここに書かれていることはすべて北野さんにとって当たり前の事=「リアル」なのでしょう……そのことに恐ろしさすら感じます)。
 この、小説家の身体から零れ出た個々の作品(掌篇)について、ひとつひとつ私の感想を述べたいくらいなのですが、とりわけラストの掌篇の一文、「長いあいだそれは、蜃気楼あるいは砂が見せる幻覚だと思われていた」は、「砂のある風景」全体のイメージを支えると同時に(つまり「砂のある風景」という作品が完結する)、個々の作品のコンセプトともなっています。この一文を読んだ時、溜め息が出ました。
 最後に。「砂のある風景」を通じて私は、北野勇作さんの「(小説という)芸術に対する祈り」を感じました(同時に、小説と遊ぶことをホントにわかっていらっしゃるなあ、とも)。


個別評
齋藤優「グリーン テキスト」3・5点

 もう一歩で花開きそうな空気を纏った小説です。編集者としては気になる作品であり書き手であることをまずお伝えします。
 400字6枚の中に、とても沢山のことが詰め込まれています。放課後の男女、鮫らしき謎の生物が出る池(「二匹」とあるのもポイント)、寮でのストーカー騒動(と面倒な少女たち)、語り手の片思いの相手(との関係と「二年」の意味)、鮫に襲われた女性は果たして(なぜ鮫は「人間を襲うことはないはず」と言われていたのか?)……ざっと挙げるだけでもこれだけの素材が使われ、ひとつの作品として成立している。それは齋藤さんが「独特」ではありますが「独自」の文体を持ち、この小説世界を支えているからです。
 また、鮫に襲われる女性、ひどい悪臭、最悪が襲う中で「バラバラにほどけたみどり色のページが、十枚も二十枚も浮きあがってくる」みどりの花が美しく咲く風景を描いてしまう所に、齋藤さんの才気を感じました。そしてその「みどり色(グリーン)」のページに書かれていたものが、この「雨水池」を巡る「物語(テキスト)」なのではないでしょうか。だから、前出のような、描かれることのない「謎(シーン)」が、この小説には残されているのでは……(深読みしすぎですかね)。
 先ほど、齋藤さんの文体を「独特」ではあるが「独自」と書きましたが……
「記録的な暴風雨を受けた名残でものすごい温風が吹きすさび、指を挟ませた本を顔の前でひさしにしたまま、彼女もじっと視線を雨水池へと落としている」
 左記の文章のように、時々「独特」すぎる部分もあります(少々伝わりにくい)。シンプルながらも独特な言語感、リズムをお持ちなので、是非、音読をしてみるといいかもしれません。


ジャッジ
北野勇作「砂のある風景」を推します。

 齋藤さんには新しい書き手としての可能性を感じました。しかし今回は、短篇(掌篇)の可能性を広げてくれ、小説に対する「祈り」を感じた北野さんを選びます。5点ではなく4点なのは、さらに新しい風景を見せてもらいたい、という編集者としての勝手な希望です(すいません)。


第二回戦 C

個別評
大前粟生「抜ける日々からむいていく」3・5点

 どの作品も感想を述べる(評価をする)ときは緊張しますし、難しいと感じます。その中でも、とりわけ悩ましい作品でした。文体は平仮名、漢字、「、」に到るまで細部にまで意識が行き届いています。その上で、いっけんぎこちなく唐突に感じる語り手の思考が、同時にすごくリアルに飛び込んでくる……これはいったい何なのだろう、と考えました。現段階での「(理)解」としては、(Aブロックの金子さんへの評価と近いのですが)「リアルさへの追求」なのかな、と思っております。
「きのうやおとといのことが記憶に残らない、喪失感ってこういうことなんかな」というストレートに刺さるリアリティがある一方、「去年、部活をやめたいという考えが〜そんなことを突然思い出した体が不気味だった」からは、人間が実際に感じていることを極限まで再現しているすごみ、を感じます。
 そのふたつを融合したのが「慣れると、剥がれていくと、日が経ち、爪は特別ではなくなっていった」という一文です。ここで、小説の、主人公の空気が変わります。それは断絶ではなく前後を自然に繋ぎ、ラストの「俺のいやしさなんかばれている」と響き合います。切なく、胸が締め付けられました。
 この登場人物たちは、これから出ていく(であろう)社会のなかで、どう生きていくのでしょうか? 6枚の中に閉じ込められた「瞬間」の先を知りたい、そう思わせる作品です。


個別評
蜂本みさ「いっぷう変わったおとむらい」4点

 この小説の一番の美点は、6枚という短い中で、数十年、数百年という時間の積み重ねを感じさせるコミュニティを立ち上げたところにあります。語り手の問題(生者なのか死者なのか)は、読者をこの小説に惹き込む手段として大正解ですし面白かったのですが、私は二次的な魅力と感じました。
 冒頭の「山鳴りの音がする」と書いた時点で存在する、この「村」の圧倒的な確かさ……6枚の原稿の裏に潜む数多の「書かれなかったこと」が、小説世界をしっかりと支えています(=数多の「書かれなかったこと」の存在を感じさせる)。登場人物が多いにもかかわらず、各々の「声」が聞こえてくることもこの作品の特徴です。このことは、蜂本さんの書き手としての地肩の強さを示しています。
 小説の作法、技術も必要ですし才能です。同じく小説家が自ら生み出す世界を信じる力も才能です。「技術」の上に存在する「才能」は文章の強度を生みます。蜂本さんは、自ら立ち上げた小説世界に全身で浸り、五感を駆使してその世界を小説に落とし込むことで「時間」を小説の中に閉じ込めることに成功しました。
 後半、読者に対して「さあ、どう読みますか?」という意識が文間から微妙に滲み出ている気がしました。そのことにより、ラストに向かうにつれて少し難解になっていきます。外連は実は、小説を外に開く大切な要素です。ただそこを、あと10%ぐらい抑えるといいかもしれません。
 最後に。蜂本さんの溢れる喜びが、文章から伝わってきます。蜂本さん、小説って楽しいですよね。


ジャッジ
蜂本みさ「いっぷう変わったおとむらい」を推します。

 言い方が難しいのですが、私はCブロックの2作を、「理性」と「野性」の戦いと感じました(少しベタですが、姫川亜弓VS北島マヤ)。大前さんは「新しいリアリティの再現方法」を模索し成功しています。大前さんのような書き手が、これからの文学を支えるのかもしれません。一方で蜂本さんのような身体的な書き手が描き出す「リアリティ」は、時に理屈を超えて魅力的なのです。今回は、6枚という枚数の「物語」の中に、「コミュニティ」と「時間」を閉じ込めた蜂本さんを選びました。


第二回戦 D

個別評
吉美駿一郎「天狗の質的研究」4点

 絶妙な小説だなあ、というのがまず出た感想です。「物語」としての抜群な面白さはもちろんなのですが、一行がどう伝わるか、そこを驚くほど丁寧に考えられています。たとえば「人間は音だ」で始まる文章に読者は疑問を持ちながらも惹き付けられるわけですが、その「理由」と「音」についての記述・思考は後半に向かいしっかり深まり、重要なポイントとなります。また、中盤の「すぐさま声が聞こえた」は、一瞬「?」となりますが、その数行後の「虚ろの声」(造語でしょうか。素敵です)で明確に、しかし説明的でなく自然と読者に伝わる。この筆運びに(意識的にしろ無意識的にしろ)苦悩の跡が見えないのはすごいことで、吉美さんの書き手としてのポテンシャルの高さを感じます。そして気になるのは、やはり次の一文です。
「どんなに懸命に走っても逃げられないとは考えもしなかった。世界を甘く見ていたのだ」(傍点評者)
 カリカック家を例に挙げ「(質的心理学者として)好奇心からは逃げられない」と書き、「椿(天狗)」をこれほど魅力的(魅惑的)に描写しながらも、この一文により小説世界に不穏が満ちる。読者は決して安心することは出来ません。さらにラストに提示されたように「椿が言いそうな言葉を、(私が)彼の声で再生しているだけ」なのだとすれば、「(天狗の)質的研究」という前提すらも怪しくなる。
 他にもきっと私には気付かない沢山の秘密が、この小説には隠されているのでしょう。何度も読み返したくなる作品でした。


個別評
齋藤友果「ミドリノオバサンとヒト、およびウマ」3点

 なんて評価が難しい小説なのでしょうか。寓話的でありながらまったく教育的でなく、しかし読後、身体の芯に残るのは、鋭利ではない、「太い丸太」で撃ち抜かれたようなリアリティです。
 小学校の校門の前、という「日常」を舞台に、この小説世界は徹底的に語り手の視点で描かれます。
「ミドリノオバサン」「ウマ」「騎手」「糞拾い」――彼らの信じられない行動がわずか6枚の中で存分に語られますが、ふとTVを観たとき(私たちの日常を振り返ったとき)、それ以上に信じられないような出来事が世の中には溢れていることに私たちは気付きます。つまり(深読みかもしれませんが)この小説は、現実で起きている異常さを私たちに認識させてくれる力を持っているのです(その意味では、これほど教育的な小説はないかもしれません)。
 このことは、「ミドリノオバサンとヒト、およびウマ」が現実を超えていないということではなく、おそらく世界はこのような出来事に満ちていて、それに気付かせる事も小説の重要な役割です。小説の語り手がそうであるように、私たちはその多くの出来事に「観察者(視聴者)」としての立場をとらざるを得ません。そして「数ヶ月もすれば忘れ」るのです(そのことを「無常」として描かないことが、齋藤友果という書き手の魅力です)。枚数的に難しいかもしれませんが、とりわけこのような作品の場合「笑い」をもう少し意識すると、より(寓話的で)広がりのある作品になることを最後に付け加えます。


ジャッジ
吉美駿一郎「天狗の質的研究」を推します。

 なかなか比較しづらい組み合わせでした。両作とも、かなり私の個人的な感想(読み)を書いてしまった気がします。今回は、物語性の強さ、作品的な重層さ、そして「不穏さ」において一歩抜けた吉美さんを推します。齋藤さんはこのスタイル(太い丸太で読者を撃ち抜く、芯に響く作風)を貫きながら、是非「笑い」を意識した作品を書いて欲しいと思います。



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