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1回戦ファイターをジャッジ

BFCホーム



Aグループ


鞍馬アリス


 ジャッジとして評価をする時には、読んでいて内容が面白かったかどうか、次の対戦で別の作品を読んでみたくなったかどうかという点を主眼として点数をつけました。
 参加作の質は非常に高く、5点と1点の差は僅かです。非常に悩ましいジャッジとなりましたが、以下に、付けた点数が高い作品から順に取り上げて感想を述べて行きたいと思いますので、ご覧いただければ幸いです。

・「ミジンコをミンジコと言い探すM」草野理恵子(5点)
 六つの短歌と六つの詩によって構成されています。短歌と詩は、それぞれがそれぞれのキャプションとなっているようにも見えますが、むしろ、両者を一組のセットとして読む、鑑賞することによって、単体では得られない世界の広がりを感じることができるようになっています。六組の作品の多くには「死」というものが織り込まれているように感じられます。ただし、それは作品自体が死に満ちていることを必ずしも意味しません。表題作は正に、Mという女性に出会うことによって死を一時かも知れませんが脇へ追いやることができた主人公の物語と読めますし、最後の作品は「666」という不吉とされる数字の羅列を使って「生」を逆に浮かび上がらせているように感じます。「死」という題材を扱うことの可能性を拡張し、丁寧に提示している点、短歌と詩のマリアージュを成功されている点が非常に見事であり、勝ちぬけに相応しいと考え、5点としました。

・藤崎まつほ「柱のきず」(4点)
 このお話の面白さは二点あると考えます。つまり、一人称を三人称に擬態させている点と、時間経過の異常さです。特に二つ目の時間経過については、最初から丁寧に違和感が散りばめられて行くのですが、物語が進むに連れて早送りのように時の経過が進んで行き、人々が集っていた場所がいつしか取り壊しの対象となり、小さかった「私」の孫が、すっかり自分よりも大きくなってその家を見渡します。それは正に、古い家の柱に、成長の証として傷をつけるように、人々の営みが家族の歴史として積み重ねられて行く様とも言えます。「私」の一人称を三人称に擬態させ、時間経過を少しずつ早めて行くという技術を駆使することによって、質の高い幻想小説を成立させているのですが、「ミジンコをミンジコと言い探すM」の方が技術や内容的にレベルが高いと感じたため、4点としました。

・古川桃流「ファクトリー・リセット」(3点)
 社会からいかに弱者が合法的に排除されるのか、という点が大きなテーマと思われます。ホームレスと金がないと直せないアンドロイド。彼らをスタンドの店員は「社会の代表」として糾弾し、合法的に排除しようとします。そのような強制力が働く中で、主人公はスマートスピーカーのメモリに宿した「オカン」、これまで一緒に暮らして来た母親の記憶とアリスとを天秤にかけていく、そこに社会が弱者に強いる残酷さをつい見てしまいます。その意味で、ファクトリー・リセットを開始するという最後の選択をしっかりと選んでいる点は、物語に重みを付加することに成功しています。ただ、上位二作に比べてやや予定調和の感が否めず、三点としました。

・日比野心労「小僧の死神」(3点)
 怪異を全く出さずに怪談的なお話を上手く成立させています。主人公である洋太の焦り、恐怖といったものを、疾走感あふれる場面転換や、刻一刻と変わる洋太の焦りや恐怖といった心情面の描写によって上手く表現しているように感じます。また、最後の部分で怪異の正体を示唆し、洋太に父親だけでなく、怪異に対しても手を振らせることによって、恐怖以外の感情を読者に引き起こす力をも同時に持っています。怪談やホラーは恐怖だけではないという側面を上手く導きだしているように感じます。ただし、物語の内容としては東雅夫いうところの「優霊物語」の優等生といった趣きがあり、上位二作に比べて面白味に欠けると感じ、三点としました。

・野本泰地「タートル・トーク」(2点)
 長年付き合っていた人に突然振られた挙句、その翌日には長年付き合い続けた果てに結婚というゴールを迎えた二人の人間を寿ぐ場に出席しなければならないというヨシノの状況は、正に間の悪さ、タイミングの悪さを象徴しているのかも知れません。「長年付き合っていた」という要素がヨシノと新郎新婦の共通項として設定されている点も、ヨシノの悲哀を一層強めています。中盤で繰り広げられる亀に関するお話も、ヨシノの「今、どうしたらいいのか分からない」という途方に暮れた心情が吐露された結果とも言えそうです。ヨシノの境遇に共感する人は大勢いると思うのですが、安定しているが故に淡白な印象を免れず、本作の現実が他作品の幻想や奇想に勝てていない気がしてしまい、2点としました。

・池谷和浩「現着」(1点)
待ち合わせ場所の勘違いというテーマをSF的な設定を巧みに活かして結末へと導いています。無政府家政婦が本人を特定されてはならず、雑踏に紛れて仕事をするという設定が、最後の待ち合わせ場所の勘違いの理由として上手く機能しているように感じました。世界観の重要な設定が、物語を動かすための大切な鍵ともなっている点にはある種の美しさがあります。ただ、「ひくいこ」の「時空を超えた勘違い」の発生するロジック、そのSF的な説明が不足しているように感じてしまい、1点としました。

【採点結果】

5点:草野理恵子「ミジンコをミンジコと言い探すM」
4点:藤崎ほつま「柱のきず」
3点:古川桃流「ファクトリー・リセット」
3点:日々野心労「小僧の死神」
2点:野本泰地「タートル・トーク」
1点:池谷和浩「現着」


糖屋糖丞



※◎をつけたものを勝ち抜け作品として選ばせていただきました。

◎古川桃流「ファクトリー・リセット」 5点

 先ず「僕」にとって「アリス」というアンドロイドがどれほど重要な位置を占める存在なのか、二人は何処で出会いどのような経験を共にしたかといった背景や関係性を「僕」は明かしてくれない。バッテリー切れすれすれで自立さえかなわない「アリス」もまた語らない存在であるため、「僕」にとっての「アリス」の重要性はいよいよわからなくなります。一方で冒頭から登場する「オカン」については、結末部分でその正体がスマートスピーカーに内的環境を移植された母、という特異“そう”な存在であることが明らかになります。即ち作品の結末部分で行われているのは、機械の肉体と人間の内的領域を持ち合わせた二者を対象とした命の選択であり、ここで提示された「息子によって実母と天秤にかけられている」という事実によってはじめて我々は「僕」にとっての「アリス」の価値を推量することが可能になる。これを踏まえてテクストを読みなおすと、「雑居ビルの隙間に、いつもどおりアリスがいた。」という文は、「僕」にとって「アリス」が少ない財産をはたいてまで充電してやらなければならないような、彼の「いつも」に、日常に欠かせない存在であるという推測を可能にしていることがわかります。しかし「僕」にとってはスマートスピーカーに内蔵された「オカン」との生活もまたまごうことなき日常であり、「ファクトリー・リセット」によって僕が引き受けるものが実はこうした日常を引き裂かれる経験なのだということを、読者もまた引き受けなければなりません。
人間が死してなおも死者の意識を仮想空間に残すことが出来るのが一般的であるような作品世界において、「僕」もおそらく僕と同世代の人間たちも、皆、我々の知る“他者の死“の実感を知らない。その同時代的感覚というか彼らの”センス“めいたものが語りの中に非常によく描き出されているテクストであると思います。我々は全体の文脈から「ファクトリー・リセット」という行為がいかなる重さをもって在るかを推し量ることしかできませんが、彼らにとってその行為はその機械の内部を殺すことでありながら、殺した先の”死“に対する実感は備わっていないのです。こんなにも悲劇的な出来事が目の前に広がっているのに、「僕」の語りはどうして貫徹してこれほどまでに冷たいのでしょうか。どうしてテクストから「僕」の体温が感じられないのでしょうか。それは先に述べたような、あまりに我々と異なる生死にまつわる実感を持った「僕」が語るからです。本作の温度感を語り手の性質が裏付けている、それも説得的に。
最後に。この作品のかなしさは、貧しきホームレスであるがゆえに命の選択を迫られる「僕」にあるのではなく、むしろ我々と同様の“感覚”を持ちながら、生きる者のことを想う「オカン」の姿にこそあるという点を挙げておきたいと思います。同時に本作中における殆ど唯一のぬくもりこそ「オカン」のあり方であり、彼女の「もうええわ」という台詞にそうした感覚の差異や悲しみとぬくもりの全てが集約されている。美しい結末部分でした。美しい人間の姿を見ました。ありがとうございます。

日比野心労「小僧の死神」 3点

 タイトルから志賀直哉の某作を典拠として想像しましたが、どうもそうした必然的接続が見られなかったので、表面的オマージュというか遊びの範囲として把握しました。
 さて、話の展開については大変面白かったと思います。物語後半部分になって初めて背後を振り返った「洋太」が、教室に置かれた花瓶を“見る”場面、もう帰ってこない「広史」のことを文字通り振り返る。振り返ってはじめて、今まで前を向いて走り続けてきたことが分かる描写になっている。振り返ってはじめて、この話がモーニング・ワークの最中にある一人の少年を描いたものであることがわかります。誰かを巻き込むわけにはいかない、という語りも“喪”についてのものでしょうが、一人で誰かの死・喪失と向き合う覚悟を背負うのが小学生であるという点が本作の悲しき魅力を保証しているように思われます。
 全体として、「洋太」の切迫についてはアキレスと亀をなぞる「洋太」の意識だけでなく、語りの仕方を利用してさらに前面へ押し出すことが出来るのではないかと思いました。ありがとうございます。

藤崎ほつま「柱のきず」 3点

 語りの性質上かなり複雑な構造をとっているテクストですが、どんでん返し小説としては非常に高く評価できます。しかもその“どんでん”は劇的なはずなのに、とても静かで、これが物言わぬ「柱のきず」を語らせるということなのか、と分からせられるような。
 一つ申し上げたいのは、登場人物同士の血縁関係の複雑さが語りによってさらに複雑にされてしまっているのではないかということです。「大叔母」「またいとこ」などの呼び方は「ゆあん」を中心としたものである場合とゆかりを中心とした場合があるように見え、語り手も誰を何と呼ぶかが不明な部分があるようで、その曖昧さもまた作中に漂う雰囲気を強調するものになっていないと言えば◯になりますが、ここまで過剰にせずともよいという感も否めません。
 ここで述べるのも無粋とわかりつつ無粋をやりますと、同じ「縁」という字の読みを名とする者同士の集合の奇妙さを感じます。また「ふち」を厭いながらまなざす「ゆかり」もまた、「縁」の字のもとに連関しているといった気味の悪さ、血の束縛といったものについて空間的領域をうまく使い分けながら描き出していたと思います。ありがとうございます。

草野理恵子「ミジンコをミンジコと言い探すM」 4点

 ここには、詩と短歌の力がある。光があり、生活があり、現実の温度がある。
 申し上げたいことはこれだけで、本作については申し上げるべきこともこれだけであるような気がしてなりません。とにかく、どの作品よりも“力”があったようにおもいます。構成についても、“黄緑色の制服”にはじまって“レシート”に着地する過程の各章のなかにある色彩が、強力な太陽に照らされた白鳥の白ではなく、レシートという日常の白に回収されていくさまが暖かさを演出しているようにみえます。いや、何にも回収されていないから素敵なのかもしれない。生きてゆく者たちのまなざしと生活について、6枚のレイヤーを見せて頂きました。ありがとうございます。

池谷和浩「現着」 4点

 冒頭で掴みにきましたね。「無政府家政婦」なる語を一目見たときから、この衝撃に負けないぞという気になりました。だから申し訳ないのですが、このテクストについては厳し目に見てしまっていると思います。勿論、テクストがそうさせるままに任せて、です。
 さて、ある程度進歩したテクノロジーが描かれている点から、これはまた近未来の設定なのだろうかと想像するとさらに一枚上をいかれる。即ちここには「ひくいこ」にとっての未来(一年後)にいる「たかいこ」と「私」という、まるまる一年の時間の差異が描かれているわけです。冒頭からこれ見よがしに「今に何かが起こるぞ」という不穏さと期待が募るなか、音声の同時間的(に見える)やり取り自体に幻想を宿すという発想は良い意味での裏切りを生んでいて、これは肯定的に評価されるべき点でしょう。
最終場面で、ないしは一年前に。何が起きたのかということについては、テクストからはわかりませんね。ただ「安全地帯」などという語が出る以上“安全じゃない地帯”が「私」における現在にもあるわけで、そうした政府側やその他敵対勢力との間にはしる緊迫が伝わってきます。「無政府家政婦」は個人を名指しするものではなく、任意の主婦(風の女性?)の集団であり、組織なんですよね。即ちアナキストのセクト、党が描かれていると見てよいのでしょうが、登場人物の話ぶりの“主婦っぽさ”とか、生活のレベルにいる感じがまた“党”やら「無政府」といった立場のイメージとのギャップを醸していて面白い。セクトでありながら構成員が相互を特定しないというきまりの元で活動するがゆえに「無政府家政婦」同士の直接交流がない、という設定が素朴な孤独を描き出しています。本来セクトはセクトであるということを原因として連帯するものです。ここではその連帯が「ちょっと会ってみたいよね」くらいのレベルに落とし込まれていつつもきちんと描かれ、射止められているので違和感が生じていないのが素敵です。
一つ疑問なのは最終場面において「私」はなぜ「一発目の破裂音」が聞こえる前に「ひくいこ」がちょうど一年前にいることがわかったのか、という点です。「ひくいこ」は「私」たちからみて一年前の「あんなこと」を知らないということで一年以上前にいる可能性がある、そのことは最後から一つ前の段落で判明していてよい事柄(推測)でしょう。しかし、なぜ丁度一年前であることがわかったのでしょうか。この点に関しては他のジャッジの評や“ジャッジのジャッジ”等に照らして明かされるものであったら嬉しいです。個人的な見解として、「いまあなた、何年にいるの?」という台詞の中に、年単位での時間のズレという事象が今回のケース以外にも広く確認されている可能性が包含されているのではないかと考えます。
設定の面白さに甘えず「無政府家政婦」の心情や孤独を語る営みに感心というより、もはや助けられさえしました。ありがとうございます。

野本泰地「タートル・トーク」 4点

 終盤までヨシノがなぜ「常時飲酒」にはしったのか、その行動の理由がいまいちわからないつくりになっているおかげで、読者も語り手と同じようにヨシノの事情を聴いていくことができます。また結婚式のムードからの疎外が式場での空間的な疎外によって描出されている点や、過去の回想と夢の話をすることでとにかくいま・ここから離れようとするもの、簡単に割り切って忘れて諦めてしまうことはできないといったヨシノの心理が語り手の少しだけ優しいまなざし――友人としてのまなざしを通して痛いほど伝わる点は、このテクストの類まれなる繊細さを表現してくれる。つい読者を共感ベースの読みに引き込む様な語りの魅力があるように思います。
 ヨシノの夢の話については、現実の亀の失踪と夢の中における小さな亀の動きが符合しているようで、これが現実のヨシノ自身についてもまた幼少期の、少年のか弱さや頼りなさと符合するイメージを想起させます。また大きな亀の台詞には、典拠としてイェイツの詩が確認され、この台詞と「常時飲酒」が接続されるわけですが、大きなショックを受け心理的に弱弱しくなったヨシノが「目より入る」「恋」の現実を拒絶するように並列して書かれる「口から入る」「酒」を摂取するさまにはリアルな物悲しさがあります。
 友人同士の領域に相応しい温度のある語りが展開されていました。ありがとうございます。

総評として、6作品とも内容でいえば「過去」をめぐって物語が開陳されており、それ以外のところでいえば「語りの温度」への意識があったといえるのではないでしょうか、勿論この二点のほかにも種々の様相を見せてくれたように思いますが。
こうして点数を付けたは良いものの、最高点を付した「ファクトリー・リセット」を読んで心が決まってしまったかと言えばそうでもなく。誰に配慮するわけでもなくほんとうに傑作揃いでした。最後に、各作品について最も評価したい点を一言ずつ述べさせていただき、僕からの講評とさせていただきます。

・「ファクトリー・リセット」:作中と現実における感覚senseの把握の的確さ
・「小僧の死神」:少年と喪、という語る対象の面白さ
・「柱のきず」:結末の面白さ、複雑な設定の有効性
・「ミジンコをミンジコと言い探すM」:色の有効性、生命力の自然な表出
・「現着」:語りの軽妙さ、作中における同時代的感覚の描出
・「タートル・トーク」:語りの温度、共感によって読ませる語り方

以上、各位ご査収くださいませ。とうじょう。


寒竹泉美


◎が勝ち抜け

ファクトリー・リセット 3点
小僧の死神 3点
柱のきず 4点
ミジンコをミンジコと言い探すM 5点◎
現着 2点
タートル・トーク 1点

ジャッジ評

ファクトリー・リセット
文字だけのブンゲイだから見せられる世界だと思った。とても面白かったし、グループAの中では一番好きな物語と世界観だけど、ジャッジをするにあたって読み返したら、「オカン」が人間の体をもっていないということを隠すために、前半部分で読者に不誠実な語り方をしていると思った。一人称の「僕」は、はたして、オカンの認知モデルが保存されたスマートスピーカーを、少しもオカン味を感じずに、完全に中立的に「スマートスピーカー」と心の中で呼べるのだろうか。つい直前までオカンとしゃべっていたはずなのに、「スマートスピーカーのディスプレイで時刻を確認してから」と思えるのだろうか。わたしには、読者に意図的に隠し事をしているように感じる。三人称なら成立しただろうか。騙すなら、誠実に騙しきってほしいと思った。3点。

小僧の死神
「自分に追いついて、且つ、自分に追い付けなかった何か」という最後から3番目の文のフレーズを見た瞬間、この小説のことを好きになった。好きになるとあれこれ注文したくなる。洋太は「死」から逃げているのだと思いながら読んだ。その解釈があっているかどうかわからないけれど、「死」という概念から逃げているということを、ちゃんと、わたし自身に発見させてほしかった。タイトルも、このタイトルじゃなかったらよかったのに。教室の机の上の花瓶も、「広史くんは帰ってこない。広史くんは帰ってこれない。」も、いらない。人の書いたものに、いらないとか言っちゃダメだけど。だって、自分なりに自分で答えを見つける快感って、たとえその答えが間違っていたとしても、読書の楽しみの一つだから。もっと、ぎりぎりまで、もっと、読者を信じていいのにと思った。そうしたら勝ち抜けだった。3点。

柱のきず
姿を見せない語り手がいる。ゆかりを「大叔母」、えにしを「またいとこ」と呼ぶ何かがいる。絵を描き図を描き、クロスワードパズルを解くように、読んだ。図解の結果、「私」の祖父はよすがであり、ゆかりの母の再婚相手であり、ふちは自分の息子をいとこの再婚相手に薦めたとわたしなりに理解した。「私」には孫のゆあんがいて、随分成長している。それなら曾祖母の寿命は尽きているだろう。語りの中で時間は進んでいるのか。自分なりに読み解いてみたけれど、それによって何かが始まる気配は自分の中になかった。
本当にこの物語はこのように書かれることがベストだったのか。作者に対する不信感がつのった。だけど、複数人の審査員の審理を経てここにあるのだから、わたしに、この作品を受け取るための何かが欠けているのだろう。日本語で書かれているものなら読めばわかると驕っていた自分を反省した。読み終わったあと、読者の目に映る世界を変えるのが良いブンゲイではないかといつも思っている。そういう意味では、これはわたしの世界を変えた、良いブンゲイである。わかる人たちのジャッジによって、勝ち抜けてほしいと思う。4点。

ミジンコをミンジコと言い探すM
「わかる」と「わからない」は何を境にして決まるのだろう。この作品は、「わかる」の縁をつつつとなぞってくる。ときどき「わからない」に落っこちそうになるくせに、あああと思ったら、ひょっこりと「わかる」に戻ってくる。もうはみだして、ほとんど「わからない」なのに、足の裏だけでつながっていて、そんな状態もなかなか心地よくて、そうして、最終的には「わかる」と感じ、そのことを誇らしく嬉しく思わせられてしまう。だから、何度もリピート再生したくなる。たぶん、この世界では、仲良かった誰かがある日突然おかしな理由で殺されたり、消滅したりするんだろうなと妄想した。ときどき世界の裂け目が見える。彼女たちは、捕獲の目印を身にまとうことを強制され、突き落とされた崖をよじのぼり、檻の中から太陽を欲し、星の死を目撃する。けれど、小さなふたつの目を閉じれば裂け目はもう見えない。そんなふうに自分勝手に妄想して、脳がたくさん運動した。物語に耽溺した。快楽に弱いわたしは、この作品を勝ち抜けに決めた。5点。

現着
SFとか戦争とか異常な社会状態の中における、人々の普通の日常の話が好きだ。非常事態でも、個にこだわり、見つめ続けることが小説の態度だと思うからだ。無政府家政婦という、なんだか只事ではない職名が出てくるけれど、現代の派遣バイトとよく似た日常の小さな喜びが書かれていく。少し未来の話のような気がする。でも、エアポッツプロとアイフォーンとマックアドレスが想像力の羽を折る。描写も世界も心地よいのに、最後はわからない。ひくいこは去年の同じ場所にいた。この世界では1年という時間差を超えて会話できるのか。それともタイムマシンがあるのか。たかいこはなぜ別の場所にいたのか。シフト表を見て喜んだのは何だったのか。地名が言えないのに現場に行く前から、なぜ同じところで出会えると思ったのか。危険そうな清掃業なのに靴紐がある靴を履くのか。シュレッダーと蛍光ペンのある世界。ここはどこだろう。迷子のまま終わった。2点。

タートル・トーク
ヨシノが亀の話をしはじめて、そこで初めて、物語が始まった気がした。ヨシノのセリフ以外は空間を埋めるために書かれているような気がした。タートル・トークを書けばよかったのに。6枚全部使って。全力で。会話じゃなくて、現場を目撃させてほしかった。だってこのヨシノのセリフ部分の内容はものすごく面白いじゃないか。1点。


サクラクロニクル


 ここにイグナイトファングマンの遺書が3通ある。だがイグナイトファング! かみはバラバラになった。私たちに過去は必要ない。いくぞ、我がこころに住まう自殺する直前のK! 精神的に向上心のないものは馬鹿だ。

【イグナイト】
【ファング】
 ふたりでひとりのジャッジ!
 サクラクロニクルa.k.aイグナイトファングマン!
 私は無学者だ。ソシャゲのシナリオすらスキップする短気であり、文芸のことなどなにもわからない。だが素人としてジャッジに選ばれたからには、素人だからこそできるジャッジというものをやりきらなくては嘘になる。私は私のためにジャッジする。この自分本位さえやりきれないなら、私は人生の主役たる資格を永遠にうしなってしまう。
 だから評価基準は単純明快だ。読んでおもしろいと感じること。何度も読みたくなること。生きる希望が見出せること。自分も文芸がやりたくなること。自分も同じように書いてみたくなること。これらの最低条件をクリアしたうえで、闘争心を感じさせる作品を勝ち抜けさせる。
 いいか。もう一度いっておく。私は運営を始め、ファイターや他のジャッジ、観客どものために判定をくだすのではない。私自身のためにジャッジをやる。私の人生に存在する価値のある作品、それを作るところの作者に対し次の一作を書かせるために勝ちを与える。読者が主であり作品が従であるという構造をひっくり返す強度あってこそ文芸だ。私がそう判断した。

 結論から言う。本戦にそういう作品は不在だ。だからほぼ消去法で選んだ。【草野理恵子「ミジンコをミンジコと言い探すM】1点として勝ち抜けを決定する。

 この時点で怒りによりイグナイトゲージがMAX。だから闘争心さえ感じられなかった4作品に順次イグナイトファングしていく。これらは「精神的に向上心のない作品」であり、私が許さないだけでなくKも許さない。もちろん、勝ち抜けさせたところで次の一戦がおもしろくなることもない。選者どもにイグナイトファング!

【野本泰地「タートル・トーク】は一読した時点でイグナイトファング! 読むだけでもかったるい、日常を切り取ったにすぎない掌編だ。タートル・トークとある通り、亀のように遅い展開とだらだらした会話を読まされる。私はこの作品をリングにあげたことそのものを許さない。選者どもにふたたびイグナイトファング! 生きてるのか、これ。気持ち悪い。

【池谷和浩「現着」】は文芸しようとして文芸している典型。許せん! イグナイトファング! 展開の遅さ、おしゃれ製品の名称を使う媚び、地の文で音と音とを混合させ意図的に読みづらくしていく手法。文章技術を披露するばかりで主題が見えてこない。意味不明を理由に二周三周させるのは引力でなくただの手間だ。文芸に従するものが見えずして誰を作品に呼び込むつもりだ。イグナイトファング! 選者の読解力に寄りかかり気の利いたものを作るだけで満足してるような態度が透けて見える。そんなことを素人に感じさせるようなやつが勝負に出られると思うか? 失格。ついげきのイグナイトファング!

【藤崎ほつま「柱のきず」】は暇つぶし作品。幽霊視点で家庭の様子を描く。固有名詞をやたらと増やしたうえで狙い済ましたラストを置く。選者どもにイグナイトファング! 読者全員が暇なわけではない。こういう文芸しようとして文芸して文芸テクニックすごいよねみたいな、文芸やってるやつだけがニコニコするような作品でオルタナティブると精神的に向上することなどない。いくぞK! ダブルイグナイトファング! 慰謝料欲しい。一億円くらい。

【古川桃流「ファクトリー・リセット」】は未来に向けて過去を切り捨てるという主人公の選択に胸を打たれる。だがアリスもオカンも書けていない。この作品は読むたびに評価が下がっていく。未来と過去との等価交換は記号的にしか成立していない。アリスには内面(オカンと引き換えにできる未来)、オカンは外面(主人公の持つ思い出の重みを物質的に描くこと)が欠けている。どちらも舞台装置の域から出ていない。だから周回するとがっかりさせられるのだ。物語に溺れてディテールのバランスが狂っている。覚悟はいいな? 真のイグナイトファング! 真のイグナイトファングは通常のイグナイトファングの5倍の威力がある。ぱっと見の物語がいいということが必ずしも文芸としての力を担保するわけではない。自分にできる範囲の物語を自分にできる範囲で破綻なく作るというのは勇なき行為だ。この先には何もない。もう何も残されてはいない。

 勝負はこうして【日比野心労「小僧の死神」】と【草野理恵子「ミジンコをミンジコと言い探すM】の一騎打ちとなった。そして私は「よくわからんが、ま、ありじゃないか」という方を選ぶことに決めた。直感だ。他人に直感を使わせる。それは優れた芸術作品が等しく持っている引力だ。【草野理恵子「ミジンコをミンジコと言い探すM】にはそれがあった。

 ファイトして敗れた作品にねぎらいの言葉をかけさせてもらう。
【日比野心労「小僧の死神」】は同級生の死をきっかけにして焦燥感に囚われた少年がひたすらに走っていく。この作品はテーマを前面に出してファイトする気概を見せている。スマブラを貸しているという事実も重要だ。これは対戦ゲームであり、自分が強くなりたいなら現行の作品を他人に貸したりしない。然るに、友達に貸すということはそれだけ友達に依存している子供だと伝わってくる。だから走るという行為に説得力がうまれる。だがアキレスと亀については安易だ。意味のわからないものを意味のわからないものとしてそのまま書いてしまっており、あまつさえ文章表現のための道具にまで貶めた。それが半分の連呼だ。そして物語が終わったあとにあるのは安心のみで、死神の本質を抉り出したとまではいえない。この作品はタイトル負けしている。神を描きたくば神に挑め! 腕に唸りをつけてイグナイトファング!
 なお、私は修羅の門もツインゴッデスも遊んでいない。むろん他人の提案する戦場でバトルしてやるほどのお人好しでもない。戦うからには勝ちを目指す。イグおじの酒代をかけて私とカニノケンカで勝負しろ。

 では改めて勝者の紹介をしよう。
【草野理恵子「ミジンコをミンジコと言い探すM】は短歌めいたものを詠むという行為から始まり、数々の風景を連作的に書き出すことで過去現在未来を混ぜ合わせ、独自の読書体験を生み出している。人間の生に関する問題が補助線として引かれており、その執着心の強さが多様な形で示される。短歌めいた部分と本文が連動して感じられるというのは、この作品が自分から読者にアプローチしていることの証明だ。読むものによってSFでありファンタジーであり幻想小説であり短歌とキャプションであり現代詩であり散文なのだ。これだけの多面性を保ちながらテーマである生と死の方が前に出ている。ここまでくれば選者どもがオルタナティブを気取るにたる作品として成立している。ただし、いいものを読ませてもらったという気分にはなったが真似したいという域には達していない。この作品は浮世離れしており、ミジンコですら遠く感じる。自分より遠い場所にある作品を称賛できるほど私はまだ成長できていない。そのお高く止まった感じにイグナイトファング!
 だが、だからこそこの作品は勝者になる必然を持っている。この作品を書いた者が次にどんな作品を繰り出してくるのか。まるで予想ができん。私の未来にもっと心に迫る作品が飛んでくるのか。それともとんでもない駄作をお出しされてデッドリーイグナイトファングされるのか。どうなるのかまったくわからない。もしこの作者に可能性があるというのなら、生き延びるがいい。そして次の一作を書いてみろ。おまえにはその権利と義務がある。

 最後に。
 私はBFC4のほぼすべての作品を読んできた。落選展を含めてだ。
 そして鮭さんの「泳いだトイレットペーパー」に衝撃を受け、作者の世界に耽溺している。それに比べれば本戦作品などみなたいしたことはない。だから点数評価は1点に留まる。私はBFCの選者ではない。おまえたちは私が選者ならリングにすら上がれなかったということを忘れるな。
 ではこれでリングから降ろさせてもらう。本戦に私の居場所はない。文芸玄人を気取ってせいぜい死なない程度の戦いをやっていろ。それでももしおまえたちが私を欲するというのなら、こころの中でこう叫べ。わたしとKが現れて、ふたりでひとつの炎を与える。文芸の炎。おまえはもう、その燃え盛る牙を知っている。

 イグナイトファング!


冬木草華


 ジャッジをするにあたって、グループ内での統一された基準は作らず、各作品がどのような形を作品として求めていたのかを中心に考え、それぞれの良さを見て判断しています。採点と勝ち抜けに関しては、各作品をグループ内において相対的に見て点数を割り振り、次作でどんな一手を打ってくるのかが読めない作品を勝ち抜け作品として選びました。

・個別評

「ファクトリー・リセット」 古川桃流 4点
 本作は、社会の技術力によって死がほとんど透明化した近未来の世界において、ホームレスである語り手の「僕」が貧困によって剥き出しの死に迫られるという形をとっている。「僕」の大切な人として登場する「アリス」と「オカン」の死は「ファクトリー・リセット」と表現される。「アリス」の記憶や人格が入ったメモリを取り出せないこと、「オカン」をスマートスピーカーのメモリに保存したこと、すべては「僕」自身の貧しさに起因する。クラウドに「アリス」のメモリを保存できれば、「オカン」を「バーチャルリアリティ」にアップロードできれば、ハード (物理的な肉体)よりもソフト (人格や記憶)が本質とされる世界で「僕」はこんな現実と向かい合う必要はなかった。貧困。それが、技術によって社会が克服したはずの死を顕在させる。それらは情報操作が適切なタイミングでなされることで、読者にも「僕」同様に現実を見せることになる。また、「僕」自身の描写に関しても、感情や気持ちの表現は「僕」の行動によって示されることで、過不足なく伝わってくる。そして結末部、夜から薄明に時が移る。そのあいだの時間は、「オカン」が「僕」に自らの死を選択させる時間であり、「僕」が「オカン」の死を受け入れるまでに経過した時間だ。書くことと書かないことの選択は完璧と言えるが、他作品と比較した際にパンチがいまひとつ弱いように思えてしまったとして、4点に留まった。

「小僧の死神」 日比野心労 2点
 何かに追われ続ける「洋太」の下校を短文で、あるいは語尾を繰り返すことを行う文体で切迫感が表現されている。タイトル「小僧の死神」から「洋太」が追われているのは「死神」のようにも思える。が、作品内では、振り返った際に現れるのは「教室の~おいてある。」という一文で、「死神」とは言及されない。この一文において肝となるのは、「おいてある」という記述をすることでそれが事実になるということであり、「花の刺さった花瓶」のイメージではないのだ。続く中で「広史くんは~」の二文があり、その「広史くん」の死が暗示される。海に手を振った描写から、「広史くん」は海で亡くなったとも考えられる。
 「洋太」が逃げていたのは、死そのものではないだろうか。そこに「アキレスと亀」の寓話が追いつかれることはない安心感と同時に家へ辿り着けない絶望を「洋太」に与える効果もじゅうぶんあげている。「追いついて、且つ、追いつけなかった」それは、いまはまだ、「洋太」を死に追いやることはなかった、ただそれだけで、死の予感を初めて知った「洋太」はそれらの事実を知り、いずれくる「死=広史くん」に向かって、また逢う日までのさよならという意味をこめて手を振った。と、仮定することもできるのだが、その場合、「広史くん」の死に対して、ほかのクラスメイトが公園で遊んでいて、「洋太」に明るく声を掛ける場面にいささかの違和感がある。また、下校時の子供の遊びとして本作を捉えることもできるが、その場合は花の刺さった花瓶の根拠が担保されえず、子供の幼さに作品内での死を仮借させているなら、その点が疑問として残り、2点とさせてもらった。

「柱のきず」 藤崎ほつま 5点
 本作は「息を止めて横たわる」という冒頭から始まるように、ある家の血族が死者としてしがらみを持ちながら正月や盆を思わせる状況の中で集まっている様子をシームレスに視点が変化していく中で語っている。「手首に巻きついた赤黒い痣」が暗喩として、血族としての縛りを感じさせ、続く「紅い唇」「紅葉」が赤や紅のイメージがさらに血を想起させることで不穏さを増していく。ほかにも「首吊り屋敷」の「お妾さんの幽霊」、「屋根裏部屋の三面鏡」「オフィーリア」と死を前面に押し出していくように、配置された言葉はそれぞれにおいて、作品のイメージに寄与する形になっている。主な登場人物は「大叔母」「またいとこ」「いとこちがい」の父母などよりは遠い親族関係となっていて、それらを明示することがこの血族の多さ、複雑さを示しており、またそれを名指すことが関係を明確化している。そんな呼称をしなければ、親族、親戚と簡素に済ますこともできるのに。それらの言葉自体が彼らに関係性を生み出し縛りつけることになる。仔猫を川に捨てる曾祖母「ふち」や彼女の後押しもあり再婚した「よすが」を「お義父さん」と呼ぶことになった「ゆかり」を見送り家を出て以来帰省をしなかった「えにし」が一堂に会しているこの「家」。タイトル「柱のきず」は、柱に刻まれた傷が、個人や家の時間の経過を示すとともに、そこに人がいたことの証明にもなる。彼らを否応なしに呼び戻しているのは「家」自身であり、その家に住まった血族自身の縛りなのだ。本作後半に登場する「私」は誰とも言葉を交わさず、彼らをただ「視」ている。血族の関係を規定するその起点として、その「家」に最後に住んでいた「ゆあん」の祖母である「私」が、最後のこの「家」としての役割を果たし、この家に縛られた死者と家を看取る存在としているのだろう。卓抜した技術と余裕すらも感じさせる作品の安定感から5点をつけた。

「ミジンコをミンジコと言い探すM」 草野理恵子 5点
 本作は形式として、()でくくられた箇所に短歌を、そして次の()までの間にその()内の短歌に対応した詩が六つ書かれる。便宜上、本稿においてはそれらを掲載順に①から⑥とする。
 そこにおいて起きるのは、まず短歌という三十一字に圧縮された詩の世界が見せる隣に並ぶことの少ない単語の接合が見せる奇異なイメージ喚起力と余白の広さが見せる解釈性の自由さ。そして次に、()が元になった詩がさらなるイメージの接続と余白の広さを見せる。読者が探す安易な法則性を拒絶するように自由闊達な筆の動きは、自由でありながら読者をはぐらかすような思わせぶりな手つきを感じさせない。意味の拒否ではなく、解放に近いものが行われている。意味がわからないままその作品の言語感覚に身をゆだねることで覚える快感。と思えば、刺すようなフレーズが読み手の気を引き締める。①では、黄緑色のバスガイドの制服を着た「私たち」と捕獲対象とされる胡瓜とカマキリが同じように黄緑色という共通項でくくられる。色彩の言葉が目立つ①では、赤茶けた星がベースになることで、黄緑色がさらにイメージとして際立つようになる。②では、まず()内における語りの変化があり、それは詩でも対応するように「髪の毛が~」と「髪の毛は~」で明らかな違いを見せる。「双子」と「私」と「彼女」。視点が行き来する中で、「彼女」の「胸」と「双子」とが接合される。③では、「森」でのピクニックが音の似ているだけで「檻」の狭苦しさが脳裏をちらつき始め、「首」が「折」れることで不穏さをさらに◯き立てる。そして決め手は「約束させられたから」。約束とは能動的に交わすものであるのに、それを受動態とするだけで一気に恐ろしさが増す。これも最初の「檻」という言葉によるもので、それは言葉一つがもたらす影響の強さを示している。続く④は、本作のタイトルにもなっているもので、少し変わった「M」と「R」の対話。「M」が「ミジンコ」を「ミンジコ」と言うことやそもそもの「M」自身のことが、「R」の思考を加速させ、「死ぬのが追いやられる」。本作の白眉であるこの一文が端的に示す、言葉が思考させること、思考している間は死が遠のいていくこと。言葉を読むこと自体の効果を本作は示している。残り⑤と⑥についても、「大根」と「宇宙」の組み合わせの妙、「二つの星」が「一個の大きな星」になる「世紀の瞬間」かもしれないものをわからないまま、「それでも生きて行ける」とてらいなく語る手腕。たしかな意味として全体を捉えられずとも、言葉がそこにある間、自由であることを示しており、なによりも言葉を読むことの楽しみを再確認させてくれる作品として、5点をつけた。

「現着」 池谷和浩 3点
 物語として大きな起伏があるわけでもないが、明らかに読ませる力があるのは、本作の中で行われていることが「私」の聞いた音(声)と一人称としての「私」自身の心の内も含めた声になっているからだろう。「」も地の文も同等のものとしていて、音(声)を聴くという形で物語は進んでいく。そして最後も爆発音で終わる。物語は耳で聞くように読むことになる。それを可能としている語りによる力は、すなわち文体の力となる。その文体の中で選ばれた言葉それぞれにもいくつか特徴がある。「家政婦」に「無政府」と冠することで、一気に不穏さが際立つ。「安全地帯」は逆説的に安全でない場所があることを語る。「無政府家政婦」の仕事が一見、家政婦になぞらえられたように、「清掃」とだけあれば違和感も少ないが、「安全地帯の清掃」では決してただのお掃除には思えない、なんらかの処理を思い浮かばせる。加えて「調達」「情報処理」とくればただものではないことはうかがい知れるだろう。本作は最後、急転直下の展開を見せる。「私」と「たかいこ」「ひくいこ」は違う年にいることが判明する。「いまあなた、何年にいるの?」という科白から、違う年にいることはこの世界の常識から大きく外れていないことがわかる。つまり、彼らは時間を飛び越えることも含めて業務での「移動」と言っているのだ。本作は、言葉がそれぞれその言葉以上のものを語ることに成功している。それによって世界の拡大と、解釈性の広さを担保する。それは読者に想像を強いるものだが、言葉それ自体がそうした性質を持っているのだから、それは当然といえば当然のことをしているに過ぎないのかもしれない。作品単体として見たときに瑕疵は見当たらないが、こちらも他作品に比べて爆発力が欠けるように映り、3点とした。

「タートル・トーク」 野本泰地 3点
 本作は、同級生の結婚式に参加した語り手と同級生「ヨシノ」の結婚式に参加する経緯から始まり、その式場でのこと、そして「ヨシノ」の転倒と叫びにて幕を閉じる。一人称のような語りであるが、一人称それ自体は登場することなく終える本作において、語り手は観察者に徹している。同級生の結婚式に参加した語り手は、一緒に参加している「ヨシノ」の様子がいつもと違うことに気づく。「ヨシノ」は式の最中、ずっと酒を飲んでいる。BGMさながらにテンプレート的な結婚式が進行していく中、「ヨシノ」はずっと酒を飲んでいる。結婚式がつつがなく(盛り上がりもして)進行していけばいくほどに酒を飲み続けるだけの「ヨシノ」の不自然さ、というか異質さが際立っていく。その対比がじわじわと笑いを誘う。注目が俄然「ヨシノ」へ向かうような仕組みになっているのも、語り手の人称すら見せない効果によるものが大きい。そして「ヨシノ」がする「亀」の話。イェイツの「酒のうた」から引用された「酒は口より~」が印象的だ。結婚式の際はだんまり決め込んで酒を飲み続けていた「ヨシノ」がする長尺の「亀」の話は、「付き合っていた人に突然振られた」ことのショックが大きく、そうさせたのだろう。「酒は口より入り」を実践していた「ヨシノ」。「恋は目より入る」を実践しているのは、語り手なのかもしれない。語り手は最後までその存在が詳らかにされることはないが、ずっと結婚式で酒を飲み続けるだけの「ヨシノ」を見続ける語り手は「何かあった?」と心配しているように、「ヨシノ」に対し心を傾けている様子がうかがえる。「ヨシノ」を見続ける語り手のやさしさは、最後においてもみられる。転んで噴出した「ヨシノ」の叫び(しかも関西弁)を、ツッコミもせずにいる語り手。これが友人でも、恋焦がれる相手でも、スルーしてあげるのは、なによりものやさしさのように思える。「ヨシノ」の「亀」の話を万全の状態でするためのストロークとはいえ、いささか結婚式の描写に紙幅を割きすぎているきらいもあるように感じられ、そこから3点とした。

・勝ち抜け評
 5点は「柱のきず」と「ミジンコをミンジコと言い探すM」。5点となった時点でどちらも準決勝に進むに足る作品だとは思うが、次作にて準決勝ファイター・ジャッジを蹂躙できる底力と余裕のたたずまいを見せた藤崎ほつま「柱のきず」を推す。


紅坂紫


古川桃流「ファクトリー・リセット」 1点
日比野心労「小僧の死神」 2点
藤崎ほつま「柱のきず」 4点
草野理恵子「ミジンコをミンジコと言い探すM」 5点(★勝ち抜け)
池谷和浩「現着」 3点
野本泰地「タートル・トーク」 3点

【評】筆者がブンゲイファイトクラブに惹かれた理由は異種混合試合という点につきる。ほんらい文芸のもっともおもしろい部分も、文芸発展の歴史もこの形式やジャンルのあわい、そしてそれを跳躍してゆくちからにあると考えているからである。よって評価軸も「既存の文芸を跳躍しうるか」に留める。この方法では技術点を付けることがかなわないため、勝ち残りを支持する作品に5点、支持しない作品に1点を配したうえで、あいだを相対評価で埋めた。評点はその作品の絶対評価ではない。
・「ミジンコをミンジコと言い探すM」
破調もふくめた広義の短歌を軸に構成した詩。しかし筆者が本作を評価するのは、その形式の融合という跳躍による安易な理由ではない。短歌は性格上、背景をすべて盛りこむことが難しい。古典的な歌物語であれば歌の意味を説明するために地の文が費やされるが、本作ではむしろ、歌に凝縮された物語が詩で詳細にえがかれるにしたがって歌は意味ではない何ごとかを帯びてゆく。それを乱暴に詩情と呼んでしまってもかまわない。理解できるものとして読みたがる先入観を捨て去ったさきに詩情はある。舞台は地球であることをすて、登場人物は人であることをすてる。読み取られることを拒否するかのように、appleと言われて赤くまるい果物ではなく「りんご」というかな文字を想起する人はすくないように、詩は、詩情は、解釈を介することなくなめらかに読み手のうちに滑りこんでくる。
解釈や意味、読み取られるということをゆうゆうと超えてゆく本作は今後の詩のありかた、文芸のありかたすらも楽々と超えてゆくだろうことを期待して、5点とした。
・「柱のきず」
 晩夏にもかかわらず手首の痣を隠すことのできるセーラー服、いつも何かに視られていること、「口々にお礼」を言う子どもたち。ヒントが縦横無尽に張り巡らされ、題という最初の一滴がめぐり最後の一行としてしたたり落ちる瞬間までが愛おしい。それでいて視点の操作や登場人物の名づけの恣意性(すべて「縁」という漢字)などの様々な仕掛けによって、読みは無限にひらかれているとも感じた。4点。
本作が5点にわずかに届かなかったのは、読みをひらくことまですべてが作者の手のうちで行われているような気がしてならなかったからだ。計算されすぎている。もうすこし、ほんのすこしだけ作品をたかく放って、どこに飛んでゆくかを眺めてほしい。もっと暴れてほしい。その行く末が見てみたい。
・「タートル・トーク」
何ということのない結婚式の進行はヨシノと亀によって破壊される。『恋は目より入る』という言葉で、ヨシノしか見ていない語り手の視線に気づかされる。ノイズのようにも思われた前半部と亀の重ならなさは、ふいに張りつめた一筋の痛み、ヨシノと語り手のかかえる痛みへと繋がり調和する。それゆえに、雑味があるのに不味くない。肩のちからは抜けていて、意味や解釈をかろやかにかわし、とても身軽で、いつでも跳べそうな輝きを放っている。しかしどうしても「柱のきず」がその計算から外れた瞬間最大風速への、今後の「柱のきず」への期待にはわずかに及ばなかった。3点。
・「現着」
 たかいこ、ひくいことの会話、句点のすくない語り手の声がどこまでもここちよい一作だった。無政府家政婦という言葉におそらくふかい意味はない。エアポッツプロであることにもふかい意味はないだろう。音の響きがいい、それだけでいい。それでいいからこそしかし、出オチになってしまわないよう注意ぶかくなる必要がある。空間を別にした三人の登場人物がであう時点で、時間を別にしている可能性もあるのだろうという検討はつく。六枚のうちで説明されすぎてしまっているのだ。3点。
・「小僧の死神」
 小説において多く用いられる過去形の語りでは、語り手が物語全体をすでに把握しすでにある種の評価を下していることを感じさせる。そのことを逆手に取ったピュアな疾走部と、利用したアキレス部で構成されており、緩急の妙はすさまじい。小説というより最早走ることそのものだ。ただ、それだけ、のように感じてしまった。読みがひらかれていることもなく、美しい雑味もない。また少年を追うものを明示していること、不要な先行作品像が見えてしまうことから題は作品を閉ざしてしまっている一因と感じた。2点。
・「ファクトリー・リセット」
 ひとつの言葉に新旧ふたつの意味を重ね合わせる発想、モノ化する女性とそれを所有する男性のグロテスクなジェンダー構造など魅力的な部分はいくつもある。いっぽうアリスとは何者かがすぐに判明することから「同じことを話すことがある」老いた母に重ねられたふたつの意味も早々に読める。古典的で捻りのないラストとなり、巧いSF、の域を出ない。1点。

 以上より、草野理恵子「ミジンコをミンジコと言い探すM」を勝ち抜けにえらぶ。



Bグループ


千里塚


ジャッジの千里塚です。
以下にジャッジ評と採点をお送りします。

 『ファイト・クラブ』のルールでは、どちらかが「降参を宣言する」か「気絶した場合」「ファイトは終了する」ということになっている。そこでは勝敗や優劣の決着にそれほど重きは置かれていないが、どちらがより魅力的ファイターだったかは傍目には明らかだ。
 「ブンゲイ」を「書くこと・読むこと」の総称であるとすれば「ブンゲイファイト」は「書くこと・読むこと」のファイトということになる。しかし考えてみれば当り前のことだ。書き手が差し出した「作品」に読み手が「解釈」で反応する。その衝突が「ブンゲイ」であり文学であり、そもそも読書というものだろう。
 ジャッジは作品に点数をつけて勝ち抜けを推選する。だがそれ以前にジャッジもまた読み手である。脇からあれこれ言うのでなく真正面に立ち、あくまで読み手として作品に応じたい。その結果提出することになる私のジャッジが幾分主観的・感覚的なものであったとしても、そこに至るまでの読みにそれなりの妥当性が認められたなら、私の判断もある程度妥当なものとして受け入れられるはずだ。

 『メアリー・ベル団』
 メアリーによると「一二歳まで」に「殺す」ことが入団の条件という。だが、おそらく「それだけではない」だろう。「ぼく」が「失格」を言い渡されたのは、妹の「半開きの目に涙が浮かんでいる」ことに気がついたからだ。
 「生理現象かもしれないが、それだけではない」と「ぼく」は思う。「寝返りも打て」ない妹ではあるが、少なくとも音は聞こえていたと、「ぼく」の「死んじゃえばいいのに」やメアリーの「殺すんでしょ」は妹にちゃんと届いていたのだと「ぼく」は考える。
 それこそが「ぼく」が「失格」した理由だろう。結果的に妹を殺せなかったことではない。妹が「ぼく」とメアリーのやりとりを聞いていて、だから「目に涙が浮かんでいる」のだと、事実はどうあれ考えたこと。想像し慮ることしかできない他者の内面を、そう解っていながら想像し、慮ったこと。それがメアリーや彼女の団員と「ぼく」との違いであり、彼女が言う「一二歳」と「一三歳」の差なのだ。妹の涙に気付いた瞬間に「ぼく」はその境界を越えた。メアリーが去ったあと「子供の歌声」が「遠くから」聞こえてくるのは、「ぼく」がすでにそこを離れてしまったからだ。メアリーや団員たちはそうではなかった。
 「ぼく」は荒野の「自由の風」を感じているが、メアリーは「どこへも行かない」「永遠に一一歳」と笑っていて、そこには決定的な認識のずれがある。それが「荒野」から「ぼく」が追い出された理由であり、「殺した」メアリーが「一三歳」になれない理由である。彼女は自身がその荒野に留まり続けなければならないことを知っている。

 『或る男の一日』
 退屈な小説である。この小説そのもののことではない。この小説の中心に据えられているのが「退屈」であるということだ。
 近々結婚する同期の「なんかないの」の問いに「ない」と即答する男の周囲には、しかし本当に何もないわけではない。出来事の萌芽や片鱗は見え隠れしているのだが、男にそれを感知する能力がないのだ。安物の布団で背中に痛みを感じながらも、最後までそれをどうしようともしない男には、チューハイをハイボールに変えるのがせいぜいだ。
 最後に一度だけ「なんか」が前景化される。それに対する反応によって、この男の退屈さが明確に示されるわけだが、正直この程度では少し物足りなかった。その結果、演出として配置された退屈さがただ退屈のまま残されたような、この作品が捉えようとした「退屈」に、逆にこの作品が搦め捕られてしまったような感がある。
 「177cm、85kg」の髭親父が「やりませんか?」というのも、あまりにいかにもでコケそうになった。実際そういうタイプが多いのかもしれないが、それまでの描写が精密で見事であった分、ここだけがより安っぽく感じられた。

 『滝沢』
 よくある迷惑メールの文体を下敷きにしていながら、冒頭からすでに支離滅裂である。「滝沢君」の携帯に「タッキー&翼」について相談の連絡を入れてくるタッキー。タッキー&滝沢君? 翼は? 
 まあでもそれくらいの強引さは普通の迷惑メールでも見られるか、と思っていると、さらに出てくる「滝沢」。タッキー&滝沢君&滝沢。「タッキーの母です」以降は畳みかけるように状況が上書きされて、もはや理解を放棄して笑うしかない。
 最初はずっと無視を貫いていたらしいメールの受信者だが、少しずつ何らかの反応をするようになり、最終的には口座や暗証番号を教えてしまうところにまで至っている。メールの送り手は「タッキー」と「タッキーの母」と「滝沢」を足がかりに通路をこじ開け、結果として受信者をこの茶番劇の舞台に引き上げることに成功している。それがこの作品のペースに徐々に飲み込まれていく読書体験と呼応しているようでもあり、最終的に理解を放棄して笑っていた私(千里塚)は、『ファイト・クラブ』でいう「気絶」の状態にあったと言っていい。

 『踏みしだく』
 「エネルギーを足裏から取り入れる」「踏んで味わう」「感謝してる」など、食い物を「踏みしめ」、その上でヨガをするという一連の行為を「私」はなんとか正当化しようとする。しかし「蹂躙」や「背徳感」といった言葉が出てくるように、心底からそれを正当なものであると思っているわけではない。「私」自身にとっても、それは説明できないものであり、理解不能なものなのだ。しかしその理解不能性はさておき、食い物を踏む対象として見ながら「私」がデパ地下を歩く部分は実に生き生き楽しそうで、実際自分でもケーキとかを踏んでみたくなったほどだ。
 それが後半「美奈」によって次々に説明される。幼児期の経験や家庭環境への反動だということにされ、既存の枠組みに分類されてゆく。「私」もそれに協力的で、最終的に全ては性的嗜好のひとつであるというところに落とし込まれる。理解不能だったものが理解不能という形式で理解できたことにされるのに伴い、作品世界もまた急速に萎んでいくようで、冒頭であれほど鮮やかに描写されていた「踏みしだく」行為が、結末では単なる性的遊戯として片付けられてしまったのは残念だった。そういう区分の遥か外側に投げ捨てられるような決着が欲しかった。

 『十円』
 いうまでもなく貨幣の価値は交換可能性だ。貨幣そのものではなく、他の価値あるものと交換できるという約束が貨幣の価値であり意味である。
 娘によって磨き上げられ、ただの銅の円盤という物質になった時から、十円玉は呪術的な力を帯びはじめる。通貨としての約束事が剥ぎ落とされ、錆を蓄積させた時間経過が無効化されたことで逆行が起こる。後に「素焼きの人形」を配された墳丘墓を造らされているところからも、これが古代の銅鏡のイメージと重ねられていることは明らかで、祭祀的・呪術的力を帯びた銅の円盤はその持ち主である「リカちゃん」の権力や神性を示すものとなる。
 娘を通してその呪いを広めたのは他でもない「私」だった。通貨の約束事を削ぎ落とし、時代を逆行させ、古代の権力構造を復活させたのは「私」のちょっとした助言だった。だが「一斉にかしずいた」周囲に「つられて跪」いてしまう「私」には、もはやこの状況をどうすることもできないだろう。
 結末で「私」は「ほんのりとした安寧」を感じている。作業の合間に「談笑して」いる「男たち」も、おそらく同じものを感じているはずだ。たとえそれが不条理で前時代的なものにせよ、「私」たちは新たな約束事の中に居場所を見つけられた安心感に包まれている。

 『軽作業』
 「倉庫」で行われるのは「ダンボール」を開封して中身を「種類ごとに別の箱に入れ」るという作業らしいが、それが具体的に何の仕事なのかは読み取れない。おそらく作業員たちにも解っていないのだろう。労働作業と作業が持つ意味や役割というものがここでは分断されている。作業員たちはひたすら与えられた役目をこなすだけで、それがどういう仕事であるかには考えを向けようとすらしない。
 分断は作業員の間にも起こっている。「運搬音が常時鳴っている」倉庫の中では「まともに相手の声が聞こえない」。言葉は交わされるものの致命的に食い違っており、傍から見ると会話の体をなしていない。届くのは単語レベルの「短い言葉」だけで、その単語ですら「希梨」の中では「ギョウ」という「破片」に分断されている。
 その分断が結合されたのは、箱を開封し、その中身をバラバラに分解する時に用いる「カッターナイフ」によってである。「使い慣れたカッター」ではなく「新しいものの輝き」を持った「いつもと違う」カッターで。しかしその結合も一時的なもので、また元通り分断されるが、「希梨」は「親の再婚でこうなった」だけの名前の代わりに「ギョウコウの人」という自分と地続きの名前を手に入れる。
 
 読み味にやや物足りなさを感じた『ある男の一日』『踏みしだく』が2、『軽作業』3、『十円』を4、『メアリー・ベル団』『滝沢』は5とする。『十円』『軽作業』もそれぞれに良作だったが、このBグループにおいて『メアリー・ベル団』と『滝沢』が傑出していたことは疑いようがないだろう。
 両作ともにかなりのファイターだった。『滝沢』には気絶させられたし『メアリー・ベル団』にもかなり殴られた。どちらも勝ち抜けにふさわしく、できることなら両方推したい。だが私は読み手であると同時にジャッジである。的確かつ厳格に結論を出す必要がある。
 やや変則的な作品であった分、作者の他の作品を読んでみたいという意味では『滝沢』を推したいところだ。しかし一回戦Bリーグでのファイトのみをジャッジするなら、『メアリー・ベル団』に票を投じざるを得ない。作品そのものの完成度は言うまでもなく、読み手の力量を試してくるかのような奥行きは、否応なしに読者をファイトの土俵へ引きずり出すという点においても優れたファイターであったと判断する。
 よって、タケゾー『メアリー・ベル団』を勝ち抜け作に推す。


田島一五


●一読して、いずれも面白いと感じた。面白いとは何か。逆説的だが、退屈にならず最後まで読み通せることと考える。ジャッジはこの中で一作を選んで「勝ち」としなければならない。つらい。個別評を書きながら考える。
●「メアリー・ベル団」
障害を持つ妹の介護をする「いい子」のぼくの心に巣食う澱を描く。ストーリーが秀逸で、イベントを詰め込んでいるのにあらすじ感が薄い。語り手が十二歳時の話でジュヴナイル風だから短くても違和感がないのか。実在のメアリー・ベルを知らなくても読めるなど、作者の筆が親切でリーダビリティが高い。言い換えるとテーマが明確でわかりやすい。特にラスト2行はかっこよく決まっているが、いわゆる純文学なら、ここまではっきり書かず感じさせるだけに留めて、多様な読みを担保しただろう。それを選ばない作者の個性が切れ味を生んだが、倫理的な疑義を呈されていたので補足したい。言うまでもなく、この作品が描くのは弱者排除の欲望ではなく、「正しさ」の抑圧と、そこからの解放だ。その倫理的な当否はここでは問わない。どんな物語にも暴力と救済の両方が内包されている。無論、それを嫌うのは自由だ。ヤングケアラーという流行の題材を軽々に用いたか、当事者への配慮が十分にあったかについては賛否両論あるだろうが、そのような「正しさ」の押しつけもまた暴力と感じる。家族にすべてを負わせてよいのかなど社会的な問題提起にもなるので、むしろ多くの人に読んでほしい。
●「或る男の一日」
メーカー勤務の独身サラリーマンの平凡な一日を描いて、人生の機微を感じさせる。「午前七時」から始まる記述は無機質なレポートのようでありながら、要所で男の性格をイメージさせる。それが「ちょっと嫌な奴」に仕立ててあるのだが、そうなった理由が会社で自分を隠して生きる男の抱える孤独にあると気づくと、もう共感せざるを得なくなる。うまい。オチがあって、伏線も多く張ってある。いまどきゲイだと明かされてもオチないという感想を見たので補足したい。ゲイであるという事実だけでなく、それを隠して生きる男の仄暗さがラストで一気に照らし出されるので、オチとして成立するのだ。マッチングアプリのメッセ―ジがただ一言『やりませんか?』のゲイライフもリアル。好きな作品。
●「滝沢」
どこかで見たことがある詐欺メールの連続が、いつしか物語をかたちづくっていく。疾走感がありながら、常におかしみも出ていて、熟読してしまう。タッキーと滝沢と滝沢君と滝沢社長の使い分けなど、たぶん作者は詐欺メールをよく読んで、この適当さを演出するのに細心の注意を払っている。中盤「死にました」の転換が予想外で、さらに「童貞」のこすりで腹筋が崩壊する。笑える。文芸をしかつめらしいだけのものにしたくないので、こういうのは積極的に推していきたい。詐欺メールとジャニーズに詳しくなければ読めないノリの狭さが唯一の欠点か。
●「踏みしだく」
食べ物を踏む性癖を持つ主人公が、それを受け入れてくれるパートナーと出会う。キャッチーな書き出しで、すぐ物語にひきこまれた。官能的でイメージ喚起力がある作品。使われるモチーフは斬新で、現代的で売れそうな空気感を持つ。その反面、旧弊な常識や男性性への違和とか、母と娘の間の葛藤とか、性的多様性とか、扱われるテーマには既視感があった。それだけ普遍的な主題なのだろう。食べ物を踏む行為に対して生理的に嫌悪感を抱く読者もいるかもしれないが、すべての物語は暴力と救済を孕むと繰り返しておく。すべての書き手はあなたの物語を待つ誰かのために、萎縮せずに書き続けてほしい。
●「十円」
娘の自由研究で十円を磨くことになったが、いつしか磨かれた十円が権威となっていく。冒頭からラストまでが遠くて充実感がある。6枚なのに、序盤、中盤、終盤でまったく違う様相を見せてくれる。すごい。語りがリアルで物語にひきこまれるが、いったいどこに連れていかれるのか最後までわからなかった。わからないのに名状しがたい不穏さが残る。
●「軽作業」
バイトの途中、ラジオで聞こえた「ぎょう」の音にとらわれた主人公の顛末を描く。書き出しでうまく謎を提出するが、実際に描かれるのは現代の蟹工船かどうかはわからない倉庫での軽作業で、しかし格差社会をテーマにした仰々しさはない。徹底して内面描写がなされない主人公のキリキリはおそらく何らかの発達障害の持ち主で、それがこのバイトに従事している理由なのだろうけど、いっさい明示されない。ときどき無生物が主語になる文章には奇妙な味があるが、常に何かがはぐらかされる不気味さを持つ。理解したと思えないけれど、無視できない魅力があった。
●さて正直なところどれが「勝ち」でもおかしくはない。が、やはり最も異彩を放つのは「十円」だ。他の作品は多かれ少なかれオチを持っているのに対し、「十円」にはオチらしいオチがない。そこだけに着目するとむしろ欠点であるようにも思えるが、逆にオチがなくても読ませる力があると考える。
●小説のテクニックとしてオチはむしろ常套手段だ。きれいにオトして伏線を回収すれば、読者は物語の全体像を理解したと感じてすっきりする。だが実際の読む時間のほとんどはオチ以外の部分に費やされるため、オチの力だけで読み続けさせることはできない。より大切なのは語りの力だ。と、さんざん「十円」を持ち上げたが、そもそもどの作品にも良いところがあって、いずれも勝るとも劣らない。
●悩む。そもそもBFCの判断基準は何であったか。改めてBFC要項を読み直して、ひとつわかったことがある。勝ち抜けた者は新作で次に臨むらしい。では次の作品を読みたいのはどれだろうか。その観点で「或る男の一日」を勝ちとした。この作品は、リアルなだけに私小説っぽく感じる。だからこそ、次にどのようなものを書けるのか見てみたい。
●点数については全作品を5点としても良かったのだが、それも無責任な気がするので、相対評価で基本を4点として、好きな3作品に偏愛点として1点を追加した。

「メアリー・ベル団」4点
「或る男の一日」5点(勝ち点)
「滝沢」5点
「踏みしだく」4点
「十円」5点
「軽作業」4点


小山内 豊


この文章は担当の六作品を読み、全作品が小説の体裁をとっていることを確認してから書いています。

ブンゲイファイトクラブ4というイベントの存在を知ったとき、私にはまだファイターとして掌編を出すだけの時間があった。でも、六枚という制限で納得できる作品をイメージができなかった。

難しいのはネタではなくて構造と奥行きだった。ここでいう構造はパラグラフの配置そのものでもあるし、人物の関係、文脈のことでもある。後者は奥行きに影響を与えていて、歴史や社会的な背景、作者の論理的課題が加えられると思う。つまり作品の外側に広がっているものだ。
六枚で両ほうを物語の中に効果的に落とし込むのは難しい。冒険するのはもっと難しい。そして、挑戦がない、どちらかがうまくいっていない、あるいは考えられていない場合でも、「いま」発表される作品としてはなまくらなんだと思う。

ファイターとして作品を提出された皆さんはそれぞれの方法でこの条件と戦っている。すごいことだと思う。どうやったんだろうかと興味があります。だから、作品を評価するにあたっては、この構造と奥行きに主眼を据えさせてもらいます。
ただし、それらを一つずつ抜き出したとして、加減点で評価してしまうと文芸のもつ本質的な価値を見失うので、それはやらない。

「メアリー・ベル団」タケゾー 4点
この作品におけるパラグラフの構造は、生い立ちを語る回顧から事件の時へと移り、夢の世界、そして後日談、ということになる。基本的には時系列だ。いわゆるヤングケアラーの問題が背景にある。おぼろな幼少期から次第に色彩が見えてきて、ついに自分が何者であるかを知るという筋立ては読後感がいい。すごくまっとうな作品で完成度は高い。逆に言えば、時系列+夢の中の事件という構造は安定感がありすぎて目新しさがないかもしれない。

気になる点もある。それは「ぼく」の心に巣くっているメアリー・ベルとの関係性だ。私はこれが弱いと感じた。たしかに妹の面倒を見なければいけないというストレスの代償として、血なまぐさい本を読むという行為は説明できるかもしれない。大きいガラスの目を持ち年少者を絞殺したメアリーは特別かもしれない。しかし、事件の時、おそらくは夢の中だけど、「ぼく」はメアリーにまったく支配されていない。むしろ彼女は外部の理解不能な領域にいて、「ぼく」が腑に落ちるような台詞を一つも言わない。メアリーはいったい「ぼく」の心のどこに住んでいるんだろうか?
妹を殺める可能性の領域にいるなら、そこから誘惑してくるのではないか。そのあたりがしっくりこない。両者の関係が弱いと、この話は浅くなってしまう。丁寧に書かれていれば重みが増す。心に残る。

「或る男の一日」佐古瑞樹 3点
空白。タイトル通りメーカーに勤める男の一日を書いている。男の一日にはほとんど変化らしいものがない。それは小説として構造を持たないと同時に、語りの外部に構造を想起させる。男の一日は起伏の少ない連続の中の一点で、お話の外には似たような一日がわずかな変化で積み重なっている。全景の1/100だか1/1000を見ていることになる。読者としてはそのあたりに人物のルーツや物語の将来を考えることになる。紙幅の制限を逆手にとったうまいやり方だ。

奥行きの部分に注目する。男の精神は弛緩していて、業務上の些事以外にはなにかを考えることさえない。気持ちの部分で掘り下げる手がかりは提示されていない。
性欲が同姓を対象にしているという部分が同僚の結婚と関わりがあるのだとしたら、もうワンセンテンス欲しい。その情報に男が痛みかなにかを感じなければならないし、誰かしらの無理解が出てくるというのが日本社会の現状だ。関わりがないのだとしたら、これもまた職場環境のわずかな変化の積み重ねの一つということで、背景としては希薄だ。
あるいは会社と家の往復だけしかない生活に人間性の危機みたいなものをみることができるかもしれない。ただ踏み込みは浅いし目新しさに欠ける。
全体として、連続・重ね合わせのなかに奥行きを出すには六枚はきついんだと思う。

「滝沢」見坂卓郎 3点
この作品は刻々と事態が悪化していくエスカレートの構造を持っている。それから、誰がいつ受け取っているかの情報を廃して、送られてくる詐欺メールだけを提示することで、リアクションそのものを外部に従えている。おもしろいアイデアだ。
その企みはうまくいっている。メールで語られる展開の雑さ加減にしても、こういうメールあるよな、っていう読者の経験を喚起している。と同時に、必然的にそれ以外がない。どこかで見た詐欺メール、そのもので物語がない。
この作品が十五枚くらいの制限で書かれていたら、受信した人間の物語がはいったかもしれない。それは作品世界を彩ったことだろう。

「踏みしだく」雨田はな 4点
本作は拒絶と受容の二面で構成されている。
奥行きについては明確な形をもっていない。あえてあげるとすれば二点、一つはいわゆるマンスプレイニング。拒絶し良識をとく男性。二つ目は抑圧と代償行為、母親からの抑圧であって、世代間の価値観のちがいが溝をつくっている。どちらも背景としては弱い。本文中に「私」が両者を深刻に捉えていないことが暗示されているからだ。

本作の魅力は文体にあるのかもしれない。足先の肌感覚と踏みしだくものに対する想像力、具体的で精彩なイメージだ(直喩が多いがリズムはいい)。場面切り替えの潔さや会話のテンポもいい。

ところで、この作品において、特異な欲求を受容できるのが同世代の同性である、という点に、アポリアを読み取ることができる。作者の所在と作品の所在とにどれくらいの距離があるのかは窺い知れないけども、つきつめていけば、受容と拒絶、包摂と排除の社会的課題に一つの論点を加えられる気がする。そんなことを考えさせる手応えのある作品といるんじゃないか。

「十円」宮月中 5点、勝ち点
本作は構造が重ね合わさっている。順番に説明してみる。
1、エスカレートの構造。硬貨を磨くという小学生らしいブームが、だんだんと拡大・激化していく流れ。
2、「私」の心境の変化。母親である「私」は娘の学校でのブームを見守る。当初、保護者らしい娘を慈しむ視線であったのが、ブームの激化に戸惑って不安にとらわれる。終盤には娘の教室から始まった流れの中に身を置いて「安寧」を得る。この安寧はある種の危険をはらんでいて、それが冒頭の所在とはちがう。表→裏→表、という構造とはいいきれない。スパイラルアップか、ダウンしている。
3、常識から非常識に転換する。小学生のブームであったものが、ペットのための墳丘を築造する、というかたちで身に及んでくる。それまで起こりえる話であったのが、常識を踏み外し未経験の領域へ展開していく。

これらの構造がうまく組み合わさっている。作者の力量の高さを感じる。とくに「私」の心境の変化は背景を窺わせて巧みだ。
背景とはもちろん時事的な話題である国葬のことであって、これに迎合していく姿を想起させる。
まぁ、作者としてその点に特別な思い入れがある感じではない。

よく公募の檄文に見かけるフレーズに「その人にしか書けない作品を期待」というのがあると思う。本作に期待したいのはその独自色と、それから同じことかもしれないけど挑戦の部分だ。時事的背景を持ち出すときの提起だ。それがなくてはいかに技術を注いでも、小手先で書き上げたものになってしまうんじゃないか。最後の二文は鋭さのある言葉だ。その鋭さゆえに、物語が全体として支えていない浮いた印象を受けた。六枚の作品にそこまで期待するのも、一定の完成度を見たからなのはまちがいない。

「軽作業」鈴木林 3点
空白からの落下、といったらいいだろうか。尻切れトンボになったラジオの音声「ぎょう」をあたまに回転させている希梨が相棒の谷と会話し、バイトの風景が展開する。両者が微妙に影響を及ぼしあいながら、それでいて合わさることなくらせんを描き、最後に衝突する、落下する。ちょっと独特な構造じゃないか。作風はユーモアのほうに傾いている。
特筆すべき奥行きはなく、六枚がさらりと読めてしまう。あわい空気感があとに残る。
舞台の空気を描くには枚数の制限が厳しい。無理に取り入れようと思えば空気だけで終わってしまう。本作では構造を作りながらぎりぎりの文字数を割いている印象だ。空気を原動力にして作品を動かせないかとかいろいろ考えることがあって、本作の作風をぐっと自己に引き寄せて考えてしまったかもしれない。
意図があるのかわかりませんが、段落の頭であっても「」が付いているときは字下げしないと思う。

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いぜんに、といっても十年くらい前だけど、ウェブ上に投稿された小説で、社会性のないストーリー、ハンディを笑う表現の作品に感想をつけたことがある。そういう作品は人を傷つけるからいい作品だとは評価できない主旨のことを書いた。それにたいして、社会性のない話に仕立てあげて笑ってくれるぐらいじゃないとやりきれない、といった反論をもらった。
ある読者にとってセンシティブな内容が書かれていたとき、その感覚はその作品の一断面を作ると思う。と同時に、それを問題にしない読者も鑑賞したい点をそれぞれ提示する。お互いに滅ぼそうとするよりもお互いに広く価値を検討するくらいがちょうどいい気がします。止揚という言葉に頼るのもいいかもしれない。

なんの実績もない人間がえらそうに評してみせた感がありますが、得点をつけ一作を選ぶという都合上避けられませんでした。ご容赦ください。
また追加募集の言葉に誘われて脈絡なく応募したにもかかわらず、貴重な機会をいただいたことにあらためてお礼を申し上げたい。

「メアリー・ベル団」タケゾー 4点
「或る男の一日」佐古瑞樹   3点
「滝沢」見坂卓郎       3点
「踏みしだく」雨田はな    4点
「十円」宮月中        5点 勝ち点
「軽作業」鈴木林       3点


夏川大空


傾向:厳しい、という意見もあると思いますが、時世、時流に乗っているかどうか、あるいは先だっているか、を主に見ました。
 ここに応募する方はプロ作家、もしくは全てプロ作家を目指している方という前提で読んでいます。
 技術や面白さより込められた思いや視点を注視するジャッジとなりました。
総評:踏みしだくを推す。読後感です。

メアリー・ベル団
 ヤングケアラー、重い障害のある妹、責任能力のない殺人、思い浮かぶ結末は、ただ一つ。
 元ネタというか事件があるんですね、ググったら出てきました。障害児の書かれ方には少し敏感なのですが、いやな結末の暗い予想をいい意味で裏切ってくれました。
 それでも、ふと考える。ものですかね……。

或る男の一日
 作者さんの情報を何も知らないので、私小説かな?と流し読みしてて、あぁ、と読み進めたところでの男性とのマッチングアプリ。
意外性を狙っているならマイナス、何か主人公のセクシュアリティに対するスタンスが書かれていなくちょっと不明確で、そこのところがちょっと、惜しかったです。
没個性、透明性を狙っているのかもしれない、とは思った。

滝沢
 詐欺だ!!!
 あはは、タッキーって滝沢くんのことだよねって一瞬思っちゃったよ。
 こういうのにメールしちゃダメよ、メ。
 ちょっとイグ的かなとは思った。多分、タッキーから滝沢にタッキー&翼のことでメールは……ないかな?でも関係者に滝沢さんってスタッフがいる可能性は……?
 お金くれる詐欺?って思うかもだけど特殊詐欺の受け子にされちゃうとかあるからね。

踏みしだく
 食べものを踏む、という意味のたぶんあるんだけどどう取ったらいいものかなぁっていう私の苦手な作品かなと思ったらそのまんまの意味でした。
 こういう主義主張の人はいそうかなぁ、でももったいないよ。
 この作品も当たり前みたいに同性『とも』付き合うんですが、『或る男の一日』と読後感が違うのはなぜだろう、食べものを使うエロスかな、たぶん。

十円
 あるあるやった、って、なんか世にも奇妙なことになってますよ。
 変なものが力関係を象徴するものに、これはまぁ子供世界あるある、香り玉どのくらい持ってる?とかね、でも大人の世界にも進出……これは怖くて面白い、誰も疑問に思っていない所も。
 児童漫画、いわゆるコロコロ風に寄るんじゃなしに大人の視点で書いているのが薄気味の悪さに影響しているのかな。なるほど。
この価値観のまま続くのかな、日常。

軽作業
 わりとよくある引っ掛かりからの、ヒヤリハット問題、ご安全に!
 結局なんで『ぎょう』だったのかわからないままなのはいい、業界とかな?
 いや本当危ないからね、作業用の服に刃物入れたまま別の作業しちゃダメよ、やっちゃいがちだけど。
 ぎょうこうの意味をググってしまった、そんな悪口でもなくない?


岡田麻沙


採点のしくみ

 六作品どれも魅力的な企みに満ちており、素朴な直感に従うことは不可能だった。採点方法を用意した。
 まず、対象作品の強みを測れそうな軸を全て書き出し、それらを六項目にまで絞り込んだ。項目ごとに一位から六位までの順位をつけ、各作品の順位の和を算出。これを百から差し引いた後の値が大きいほど高得点となる。最後に五点満点となるよう割合を調整した。
 グループBの作品から抽出した項目は以下の通り。

①語られることと文体との緊張関係
②主題に対する構成の必然性
③情報提示の手際
④異化作用(オブジェクトとの再会)
⑤外部性(外の世界を感じさせる)
⑥展開の逸脱性(予定調和からの脱却)

 採点の内訳は以下。

 採点の弱点にも触れておく。六項目は、その分割的なアプローチゆえに大きな山を評価できない。たとえば「エンターテインメントとしての勢い」は見落とされるだろう。文芸において才能や感性を神聖視する立場を支持しないという個人的な理由から、緻密な試行錯誤について評価できる可能性の高い、このやりかたでいくことにした。
 結果は横並びとなったが、勝ち抜けを有効にするための得点傾斜はつけない。合成の誤謬への目配りは作品との距離を遠ざける、という原理主義者の立場をとる。

個別評

タケゾー「メアリー・ベル団」 5点
 本の回想から「ぼく」の環境に移行し、メアリーのシーンへと至る手腕が鮮やか。「ひらめくように思った」の一文は後半を引き立てる楔として機能する。語り手の殺意と呼応するような風の描写も印象的。「あらゆる方向から」「体の中を突き抜けて」いく不条理さは、非常にドラマチックに見えるメアリーとの邂逅が、その実、蓋然性の問題にすぎないことを仄めかす。殺意の方から呼びかけられる経験は、「ぼく」の性格に起因しない。終盤、主人公を恐れさせた風を「自由」と呼んでしまうくだりには、少なくとも二重の意味がありそうだ。「自由な風」は障害者支援事業を担うNPO法人の名称でもある。大人になった「ぼく」は、かつて触れた殺意の感触に遠く呼びかけられながら、同時に、妹を支え、ともにあった日々を「忘れられない」のではないか。行動療法士となり妹の最後までつき添った事実からも、その感情はじゅうぶんに推測できる。葛藤の中で過去を抱きしめる「ぼく」の姿が浮き上がってくる、見事な反転だと思う。

佐古瑞樹「或る男の一日」 5点
 様式とテーマが必然性をもって絡み合う野心作。硬質な筆致や温度の低い描写でも読者を退屈させないのは緻密な設計があるから。「そんな不健康な(中略)誤魔化している」など、脱臼させたような文が作品に効果的な変調を与えている。「上手く行くかな」で予感を植え付け、マッチングアプリのくだりで結実させる筆の運びが絶妙。読み落としそうなほど何気ない扱いであることに本懐がある、と読んだ。「男」のセクシュアリティは生活に織り込まれており、物語を展開させる便利な道具としては機能しない。この点において、私は一読者として本作品に救済された。淡々と綴られる日常を読み進めるうち、読み手としてのいやらしさを突きつけられる思いがした。物語らしい盛り上がりを期待する心には、他者の人生にわかりやすさを求める覗き趣味が潜んではいまいか。「クエンさん」からマイノリティという意味を剥ぎ取る(あるいは、再び手渡す)手つきも冴えている。抑制の効いた結びには説得力があり、この一文でしか終われないだろうと思わされた。

見坂卓郎「滝沢」 4点
 素材と文体を限定しつつ物語を展開させていく手腕が巧み。「タッキー」「滝沢」「メール」など、ミニマムな要素を重ね合わせることで不穏な空白を提示し、読み手を疑心暗鬼に陥らせる構成は洒脱。滑らかな口語は、信頼できない語り手の獰猛さを引き立てている。金額の全てに挿入される「少ない」「ささやか」といった謙遜の表現、この共通点が手がかりとなり、延々と深読みを続けてしまう。読むほどに不安になるスルメ作品。送信ー受信という関係性を超えた広がりを感じにくかったのが私にとっては心残りだった。書簡形式やミニマリズムを用いるならば、時間や空間において、読者を認知の外側に連れ出そうとする試みを期待する。

雨田はな「踏みしだく」 4点
 食べ物と素足、ともに身体性の高いモチーフの組み合わせであるにも拘らず、綴られる物語が非凡であることに感動を覚えた。素足の詳細な描写、ランウェイに喩えられる食物のスケッチ、白い綿の靴下、蒸れる肌、と、彩度の高い情景はどれも強烈な魅力を放ち、読者を惹きつける。会話の埋め込みが巧みで、「私」の意識の流れにスムーズに乗ることができた。クリアな筆致だけに、対比される「壮太」の提示のしかたに、やや不用意さを感じた。この身近な他者に、より微妙な陰影を与える/一切与えないことで、「私」と「美奈」の肉体は出会いなおすのではないか。

宮月中「十円」 4点
 物語の円環から逸脱していく力量が凄まじい。十円玉の自由研究から造墓へ跳躍するとは誰も予想できまい。場面転換も巧妙で、快い驚きと共に読了した。異化作用は強烈。研磨された十円玉の質感は、通貨という意味を脱ぎ捨て、モノとして読者の前に姿を現す。モノはすぐさま日付になり、新たなゲーム性を帯び、ヒエラルキーを形成する。六枚の分量で、これほどの意味の移ろいを書き切るのは離れ業。「娘」という語の多さにだけ、ややもたつきを感じた。自明の語を省略する処理が全ての作品にとっての正解ではないが、本作においては「私」の意識の流れから読者を遠ざけてしまう要因になったように思う。

鈴木林「軽作業」 5点 ★勝ち抜け
 非常に高度な不親切さによって組み立てられている。冒頭の「ぎょう」で空白を手渡された読者は答えを求め読み急ごうとするが、いたるところに仕込まれた死角に気付き、立ち止まる。耳に残された破片、汎用的な応答を繰り返す谷さん、声が届かぬ作業場、意味を剥奪されたアルファベット。これらのモチーフは、わからなさ/わかりあえなさへの諦めが作中に織り込まれていることを予感させる。床に降り積もる細かなゴミは、物語、あるいは生そのものの見通しの悪さを暗示する。断片化された作業場でカッターナイフが刺さるシーンは、受肉の聖性すら帯びる。個人を「セット」で束ねる「桐谷」の符号を受け入れていた主人公が、異名によって個人へと還元されていくラストは、救いのようにも読める。情報の折り畳み方が図抜けているにも拘らず、読みが開かれている、という理由から、勝ち作品に指定する。



吉美駿一郎


タケゾー 「メアリー・ベル団」

 弟が自殺したときのことだ。弟の上司はぼくにこう言った。社内調査したがいじめはなかった、調査結果は渡さない、自殺の原因は会社ではなく家庭にあったんじゃないですか、と。ぼくはそいつを殺してやりたかったし、一人のときにそう口にした。もしもそれを聞きつけて「殺すんでしょう」と言うやつがいたら「強い怒りの表現に決まってんだろ、文脈読めねえのか、殺すぞ」と怒鳴るよ。

 だから作中で最も気になったのは「死んじゃえばいいのに」だ。それは文字通りの意味ではなく、「ぼく」の逃避であり、苦痛であり、誰にもぶつけられない苛立ちのようなものだったはずだ。しかしメアリー・ベルの幻はそれを殺意へとすり替える。他者によって決めつけられ、あたかもそれが望みだったかのように解釈されてしまうことを「自由な風」だと信じるのはとても危険だ。内心を勝手に解釈させるのも、それを鵜呑みにするのも、どちらも自由とは程遠い。

 津久井やまゆり園事件で、犯人の言葉に、多くの被害者が心を痛めたと聞きます。自分も犯人のように、心の底では死を願ったことがあるのではないかと、自分自身に問いかけてしまったから。ですが、あの犯人やメアリー・ベルの言葉と、「ぼく」の言葉は違う。全く違うのだということをブンゲイなら表現できると、善意バカであるぼくは、心の底から信じているんです。

「殺すんでしょう」であって「殺したかったんでしょう」でないところに作者の誠意はあると感じました。2点。

佐古瑞樹 「或る男の一日」

 性的マイノリティの男性が主人公。問題はその情報を伏せた構成の狙いだ。男はかなり感じ悪い。監視ソフトをパソコンに仕込み優越感を抱く。結婚と聞いて上手くいくかなとつぶやく。メールのリンクを踏む人間を馬鹿にする。外国人労働者の名前をこじつけて笑う。これらの情報と構成に意味があるのだとするならば「ちょっと嫌なタイプだと思っていたかもしれませんが、そう考えたのがマイノリティだったらどうしますか」という読者への問いかけが狙いなのだろう。しかし、ある場面でマイノリティである人間が、ある場面ではマジョリティとなるのは当たり前で、ことさら問いかける批判的価値はない。

「秘めた恋」解釈も考えられるが、伏せた情報を明かした後にそれらしき記述は見当たらなかった。苦心の跡が感じられるのは、監視ソフトを仕込んだけれど相手は部下ではないからハラスメントには問われないとか、コンビニの場面は口に出してないからヘイトスピーチではないとか、そういう部分なんですよね。これらを総合的に勘案すると「秘めた恋」は考えられませんでした。1点。

見坂卓郎 「滝沢」

 笑ってしまった。後半の展開がうまい。とにかくタッキーと滝沢が別人となっているのが頭の隅にはりついて、何かをくすぐってくる。もしかしてこのメールはAIによるもので、名前はランダムにつけられていて、文面もインターネットから学習したものかもしれない。返信もまたAIによって文面を作っていて、一種の「やぎさんゆうびん」なのかも、と二周目には笑いながら思った。3点。

 評を書いた後、滝沢秀明ジャニーズ退社のニュースを見ました。持っているなと思いました。運があるのは大事です。4点にします。

雨田はな 「踏みしだく」

 ものすごく好みだった。冒頭、二行の文章は論理的ではなく、原因と結果なのにそうとは見えず、文章と文章の間に距離があった。詩的な飛躍に心が躍るため、とにかく読むのが楽しい。冒頭で翻弄され、ぼくが状況を把握した呼吸を見計らったかのように、描写が細かくなる。穴子巻きが簡潔だが的確に、どうなっているのか描かれる。恋人とのすれ違いトークでは笑ってしまった。主人公が真面目だからこそ生まれる笑いで心地いい。急にデパ地下に連れて行かれたかと思うと、具体的で詳細なリストをつきつけられ、すでに主人公の生活が頭に入っているので、これらは足の餌食なのがわかってしまう。わかってしまい、足裏に感触が伝わってくるような気までしてくる。最後も素敵でした。5点。

宮月中 「十円」

〈回覧板に「造墓」という見慣れない単語〉ここはタイトルから呆れるほど遠い。論理的につながらず、連想的でなく、因果的でもない。「十円」と「造墓」は通常なら一生出会うはずのない言葉だ。また、ここまでの展開がタイトル通りに進んできたため、ここで「造墓」が出てくることによって、今までのパートとの対比も詩的だと感じる。上手い。この溜めに溜めてからの詩的な跳躍は読んでてにこにこしてしまう。もちろん十円が学校のヒエラルキーに関わっているという話が出てきてはいる。でもここから連想するのってスクールカーストですよね。「あなたの頭の中には、今、スクールカーストという単語が浮かんでますね」と考えを読み取ったかのようなタイミングで繰り出される「造墓」。「スクールカースト」と「造墓」。これだけ見事に詩的跳躍を決められたら、もう後はあなたのなすがままです、というしかない。とても勉強になりました。5点。

鈴木林 「軽作業」

 三人称なのに、地の文にさんづけがあり、少し戸惑いました。二人で作業する会話のリアリティが素晴らしかったです。そして仕事の内容と「ぎょう」探しの関係には言葉と言葉に距離があり、詩的な雰囲気が漂う。リアルであったはずの会話に「ぎょう」が侵入してきて、「ぎょ、行列、あ、いなごは食べたことあります」とか、絶対にこの作品以外で目にすることはない台詞だよなと感心しました。最後もねえ、僥倖はねえ、上手いよねえと笑ってしまう。楽しかったです。4点。

「踏みしだく」と「十円」で迷ったのですが、構成の詩的な跳躍に感心したので、「十円」を勝ち抜けとします。




Cグループ


嶌田あき 


総評
 まず、すべての作品と作者に最大限のリスペクトをおくります。最高です。
 さて本ジャッジでは優劣のソートではなく6作品を分類して1作選ぶ。これに必要な評価軸は2の3乗=8より高々3である。要点は互いに直交する3軸を選ぶこと。ここでは3種の〈意外性〉を使おう。
 まず読み手にとっての予想外性である〈外部意外性〉で見る。キム・ミユ「父との交信」は意外なSFガジェットが楽しいが、交信相手は予想通り父であり物語の意外性に乏しい。好手は、わに万綺「坊や」の泥人形の描写だろう。泥や針などのモチーフで忌避対象と認識させてからのギャップ。落として上げる。それに続く優しい世界。完璧な期待値制御と言っていい。タイトル回収も上品である。
 主人公(登場人物)にとっての意外性〈内部意外性〉もある。「坊や」の魔女の驚きは僅かだった。より直接的に使いこなしたのは奈良原生織「校歌」だろう。中学生の日常を贅沢に切り取った中で新任教師の意外な行動や逮捕には私も驚かされたが、逮捕理由の陳腐さでバランスを欠いた点が惜しい。
 谷脇栗太「神崎川のザキちゃん」は外部意外性を終盤まで温存して爆発させるタメ技を披露した。町かどの風景の牧歌的描写からの怪物登場はとても印象的だったが、出オチ後は放置で消化不良ぎみ。気になりすぎる。
 3つめは、意外性を期待する読者や主人公に予想通りの展開を強いる〈メタ意外性〉だ。中野真「三箱三千円」には顕在的な意外性はなく、主人公の願いが叶わぬことは彼自身の予想通り。それが読者に復縁(せめて改善)を期待させるが、本作はそんな淡い期待を見事に裏切り、虚しく終わる。だから切ない。遣る瀬無い。子供だのセックスだのと語彙のチョイスには眉をひそめざるを得ないが、それを補って余りある印象づけに成功した。
 匿名希望「鉱夫とカナリア」も表層的な意外性がなく、描写力ある文章ですこぶる読みやすい。が、メタ意外性への期待をも裏切ってしまう。メタメタ意外性との解釈は可能だが、心地よい無起伏の後に訪れる「so what?」感が支配的で意外性の技巧を感じにくい。
 というわけで意外性の「坊や」とメタ意外性の「三箱三千円」がマイ決勝戦。繰り返す。これは優劣ではなく選択だ。私は不完全性に賭けようと思う。美しくもない想定内の世界の気持ち悪い人生。上等じゃないか。「三箱三千円」が勝ち抜け。全ての作品に5点を与える。点に意味はない(勝ち抜け数が同じになったときに考慮する点らしいが、そこで点差をつけることは採点者の利得にならない。非合理的)。個別の評は以下のとおり。

中野真「三箱三千円」
 不良少女・神崎に思いを寄せる中2男子「僕」の物語。神崎の不良化のきっかけが「僕」(と付き合ってることをクラスに知られてしまうこと)だというからよけい遣る瀬無い。灰や煙など作品に満たされたタバコのモチーフは、どれも神崎の掴みどころのない雰囲気とマッチしていて良い。煙に巻かれる。「僕」の願いが報われず青春ここにありの結論は先述の通り。コンビニ強盗までしたのにね。終盤のやり取りには微妙な関係性の変化も感じられ、とても切ない仕上りだ。惜しむらくは「僕」が神崎に入れ込んでいる理由にもうひと押し欲しかった。これがないから葛藤も成長もない。狂おしいほど好きなんでしょ? だったら顔がとかセックスがとかぐずぐず言ってんじゃねぇ、のエールを贈る。語彙のチョイスは再考の余地あり。本作は言葉を尽くせていない。その不完全性の愛しさよ。

キム・ミユ「父との交信」
 亡父とアプリで会話するSFホームコメディ。QRコードからはじまるガジェットには意外性があり、植物とのペアリングという語感もよいが、霊界通信という機能には既視感が漂う。パパのキャラが秀逸で「死んでからはとても元気です」には思わず笑った。ミユも負けず劣らずで「魂が目詰まり」など父ゆずりのユーモラスさを感じる。父娘だね。葬式前の7年間や、生前に言えなかった言葉などの謎を残したまま、物語は何の意外性を帯びることなく終わる。私は叫んだ。未回収! それまでの会話がとことん楽しかった分だけ、(バラが伏線になっているなど)もう一捻りを期待してしまった。

奈良原生織「校歌」
 新任の音楽教師・美園と女子中学生かりんとの日常を切り取った青春掌編。オウムのポーチや先生の身の上話に思いを巡らせる、素朴で瑞々しい表現が光る。友人との親密さや過去をにじませる「もともと私の表情だったけど、いつのまにか二人のものになっている」はグループC屈指の名文だ。ほんわかした。美園先生の謎行動と結末は衝撃的だったが、物語全体のベクトル提示が弱い。途中参加の校歌、友達の笑顔、弟の受験、先生のポイ捨てなど目的地の定まらない寄り道は楽しいが疲れる。

谷脇栗太「神崎川のザキちゃん」
 町を主人公とした絵本のような短編、からのサプライズ。大安売りの行列や、車の事故、若手警官の駆り出しなど、在りし日の風景が眩しい。夕暮れに夏の匂い。なんの意外性もない世界を印象派の絵画のように描きながら、被りものの頭に隠されたスイカをあえて書かないなど作者の引き出しの多さが頼もしい。これも全て鮮やかな幕切れを演出するための工作と見る。私の一番のお気に入りは「虹の予行演習」のくだりだが、位置が悪い。ザキちゃん登場も遅すぎ、親近性効果以上の何かを生んだかのかは甚だ疑問である。部分最適かもしれないが全体はガタつきが目立つ。

匿名希望「鉱夫とカナリア」
 炭鉱ツアーに参加した子供たちと案内役の元鉱夫とのやりとりを描く作品。ときにおちゃらけながらも話に真剣に耳を傾ける子供らの表情や、ウェールズ訛りの鉱夫の額の深い皺、湿気た坑道の不気味な様子。まるで一緒に参加しているかのように情景がありありと伝わってきた。暗い坑道。文がなめらかなぶん、怖いもの見たさ感は相応に惹起される。何が起こるんだろう。ドキドキしながら読み進めるも物語は淡々と進み、そのまま地上に戻る。えっ? これは意外性ではなく肩透かしである。炭鉱のカナリアも既によく知られた話で、使うなら何か工夫が要るのではないか。

わに万綺「坊や」
 老いた魔女の元に不気味な泥塊がやってくるところから始まるハートフルなファンタジー掌編。のっけから詠唱を間違えたり、ボサボサ頭だったりと、なかなかこの魔女は愛くるしい。直接描写はないが恰幅のいい老女を思った。泥が姿を変えたあと代名詞が「ヤマアラシが」「針は」などと変化して目に楽しい。始終このようなサービス精神を感じる。キュートである。負のイメージを先行させつつ、中に潜む光を徐々に開示、やがて意表を突く者が出てくる(そしてタイトル回収に気づく)という構成は何度読んでも美しい。どこまでも優しい世界。欠点らしい欠点がないのが欠点か。あえて挙げるなら、老いた魔女や泥塊にジブリ映画で見たような既視感を覚えることだが、作者に非はないかもしれない。


白湯ささみ



 ルール確認。BFCは戦闘の場。競うのは作品の「強さ」である。しかし、ブンゲイにおける強さとは何か考えるとき、あらかじめ採点項目を固定して臨むのは無理がある。小説に適した基準を短歌にあてはめることはできないし、エッセイの文脈で詩を読むなんて冒涜だ。Cグループは偶然にもすべて小説だったが、それでも「同ジャンルの作品群」とひとくくりにするにはあまりに多彩だった。六つの作品の強さを一気に測る指標は存在しない。では、どうするか。ミニトーナメントを開催して優勝者を決める。
 はじめに六作品すべての持ち点を一点とする。そして掲載順に二作品ずつ三ブロックに分けて対戦を行い、勝者に二点を加点する。さらに上位三作品に三つ巴で戦ってもらい、最後に立っていた者に二点を加点する。終了時には一点が三作、三点が二作、五点が一作(勝ち抜け)となる。
 各戦において勝敗を分けるポイントは都度変化する。「この組み合わせだからこそ」浮上したベン図の重なる要素を【鍵】にして作品を読み解き、より強いと判定したものを勝者とする。

C‐初戦1ブロック 『三箱三千円』VS『 父との交信』
 鍵は【コミュニケーション】。どちらの作品にも語り手の僕/私が特定の他者と対話し、自らが求める反応を引き出そうとする姿が描かれている。
『三箱三千円』の僕は、同級生の女子・神崎を「救いたい」と願い、彼女の無理難題に応え続ける。しかしそのわりには、僕は神崎の事情を何も知らず、知るための質問すらせずに、不均衡で一方的なコミュニケーションを選ぶ。ふたりは対等な友人や恋人ではなく、神と僕(しもべ)の関係だ。
 一見、主導権を握っているのは神崎に見えるが、関係構築を望んだのは彼女の側ではない。神崎とコミュニケーションを取りたがったのも、それによって救われたがったのも僕のほうだ。「テストで一位をとったら」「コンビニ強盗をしたら」付き合うという条件は本気で言ったわけではなく、しつこい男を諦めさせるための断り文句だろう。それでも僕は諦めない。自分が神崎にとって必要ではないという不都合な現実から目を背けるために、彼女を一方的に神格化し、命令を遂行する。その歪な信仰心は、僕が求めていた報酬である「神崎とのセックス」が叶わなかったときの「殺してよ」という言葉にあらわれている。神よ救いたまえ、さもなくば罰したまえ。しかし願いは聞き入れられない。神崎は人間なので、僕に与えられるのは三箱の煙草と三千円だけだ。妥当な値段である。
 実存の手綱を他者に押しつけ、相手の決定にフリーライドして生きようとする僕の精神は実に脆弱だ。しかし、弱い人間を描いた作品がすなわち弱いということでは勿論ない。むしろ人間の弱さのありようがダイレクトに伝わってくる文体には確かな強度を感じた。
 対する『父との交信』では、コミカルで軽妙な文体で父娘の対話が描かれる。「プラントチャット」という植物を媒介にしたコミュニケーションには、文字数制限、タイムラグ、タイムリミットなどのさまざまな制約が設定されている。となると、限りある猶予の中でどのように効率的に情報を交換し、劇的な展開を見せるかという方向に話が転びそうなものだが、実際は逆で、ふたりは字数も時間も無駄に費やし続ける。しかしそれもまた作品としての弱さとイコールではない。空費されていくメッセージのじれったさ、ばかばかしさそのものが面白さに直結しているからだ。
「死者との交信」という興味をそそる題材を用意し、冒頭から意味深な要素を散りばめておきながら、謎がいつか明かされるはず、という読者の期待をひたすら受け流す。そしてフラストレーションが最も高まったところで、カッコの中の空白へと放り出す。そこにはネガポジどちらのセリフも代入可能で、正解はない。そして唐突な「了」の一文字で幕を引く。私はこれを人間同士のコミュニケーションが本質的に抱えるディスコミュニケーションの風刺として読んだ。
 我々の人生の時間は限られているし、どんなに言葉を尽くしたつもりでも伝わらないものもあれば、相手が何を伝えたかったかすら理解できないこともある。その文脈で言えば、BFCという厳しい枚数制限のある場にこうした作品を提出すること自体が、書き手の挑戦心のあらわれだとも考えうる。だが、創作物を書く/読むことも一種のコミュニケーションであることに立ち返ると、本作は発信を意図的に抑制することで、読者に受信のための労力を強いるタイプの作品だと感じた。一方『三箱三千円』は、本文の隅々まで染み渡った自己憐憫と無力感と閉塞感がフックとなり、僕の(同時に我々の)抱える「生きることの気持ち悪さ」を浮き彫りにする。そこには共感にせよ反感にせよ、読者の反応を引き出す強烈な発信力がある。よって『三箱三千円』を勝者とする。

C‐初戦2ブロック 『校歌』VS『神崎川のザキちゃん』
 鍵は【観測とルール】。ひとつの町の中でさまざまな事件が起こり、読者は目の前を次々に流れていく日常あるいは非日常を「観測」する。観測の羅針盤となるのは、作品内に浸透している「ルール」である。
『校歌』では中学生の少女・かりんちゃんと共に、読者は田んぼに囲まれた田舎町を観測する。かりんちゃんは周囲の人々の表情や挙動を丹念に見て世界の輪郭を捉えているが、「わからない」領域もある。例えば「ごみをポイ捨てする人」については全くわからない。
『校歌』というタイトルに象徴される「世の中の公式ルール」とでも呼ぶべき規範に従いつつ、かりんちゃんは健やかに育っている。彼女は今のところごみを拾う側の子どもだ。しかし社会には、美園先生のようにルールから外れた生き方をする人々も存在する。ポイ捨て、不倫、無免許運転。それらは一般的には白眼視される悪事である。にもかかわらず、かりんちゃんは美園先生を倫理的にジャッジしない。先生「なのに」悪い、ルール違反「だから」悪いと決めつけず、ただ素朴に、わからないなりに世界と対峙するかりんちゃんは、既製品の良い子キャラとは違う個性を持っている。彼女の目を通して観測した作品世界は、その柔らかな視線も含めて魅力的だった。
『神崎川のザキちゃん』も町を舞台にした群像劇だが、この町で起こる事象を観測しようとするとき、読者は混乱を避けられない。「町が目を覚まして二度寝する」という暗喩なのか擬人化なのか判断しづらい冒頭から始まって、本文には一人称と三人称が入り混じり、少しずつピントがずらされていく。さらに個々の出来事が結局何を意味していたのか、どんな法則や因果に基づいて町が動いているのかというルールも最後までわからない。
「ザキちゃん」は川に棲む生物のようだが、やはり正体は明かされない。少し不思議で、少し不穏な、得体の知れない存在。この生物をタイトルに据えていることからも、「わからなさ」を解釈しようとせずそのまま観測すること、「ルールのなさ」こそが本作のルールであると言えそうだ。羅針盤のない世界であちこちにワープし、奇妙な出来事を観測し続ける体験は新鮮だった。ただそれは昨日見た夢の話と同種の面白さ、いつでも中断・離脱可能な面白さであり、読者をラスト一文まで連れて行く牽引力が弱いと感じた。よって勝者は『校歌』。

C‐初戦3ブロック『鉱夫とカナリア』VS『坊や』
 鍵は【異界からの帰還】。まず起点となる場所や世界観が提示され、そこから異界に旅立った人物が元の場所へと帰還する姿が描かれている。
『鉱夫とカナリア』では、学校行事で炭鉱を訪れた生徒たちが、異界へと越境する過程で「名前を持たないただの見学者」に変身する。かつて多くのポニーやカナリア、時には鉱夫が命を落としてきたはずの坑道を歩きながら、生徒たちはお互いへの偏見やスクールカーストを手放し、運命共同体として暗闇の中で手を繋ぐ。そして地上へと帰還すると再び「元のクラスメイト」に戻る。
 表面上は、物語の始まりと終わりで作中人物の立場に変化はないし、内面的な葛藤や成長の有無も言語化されていない。それでも彼女らが見聞きした事柄や冷たい手の感触は、優れた描写力によって身体的に読者に伝わり、没入感に満ちた追体験を可能にしている。
『坊や』には「二段構えの異界」が出てくる。まず現実にはいない「魔女」が普通に生活している世界Aが示され、そこからさらに「師匠」がいる別の世界Bに越境していた「坊や」が、魔女のもとへ帰還するための儀式の過程を描くことが主題になっている。複雑な構成だが、魔女をとりまく日常描写の緻密さと、児童文学風の文体の親しみやすさによって世界観の把握はスムーズに行えた。ただ、どうしても看過できない点があった。坊やの冒険譚が気になり「すぎる」のだ。
 六枚という狭いフィールドで勝負するとき、本文の外側に物語世界を拡張し、読者の想像をかき立てるのはうまい戦法だ。しかしAの世界が十分に魅力的であるにも関わらず、Bの世界への興味に意識が引っ張られてしまうのが惜しく感じた。本作は壮大な物語のプロローグかエピローグとしては優れているが、本編としてはやや弱いのではないか。一方で『鉱夫とカナリア』は六枚の内部でしっかりと「行きて帰りし物語」を完成させ、作中人物と読者の双方を濃密な異界へと誘ってくれた。よって勝者は『鉱夫とカナリア』。

C‐決勝戦 『三箱三千円』VS『校歌』VS『鉱夫とカナリア』
 鍵は【未知との遭遇】。初戦を勝ち上がった三作品は、偶然にもすべて「子どもの一人称によるリアリズム小説」である。奇想を排した現実と地続きの舞台においては、ストーリーもキャラクターも読者の想像を超えるのが難しくなる。だからこそ、その縛りの中でなお新規性や独自性の目立つ作品が強い。既存のコンテンツの焼き直しではない、この作品と出会わなければ一生想像し得なかった未知の情景や感情が浮かぶか否か。クリシェをふるい落とした先にある、読書体験としての鮮烈さを比較する。
 まず『三箱三千円』。文体と内容が完璧に噛み合っていて感情喚起力は高いが、その他の要素はどうだろうか。自意識過剰な主人公、欲望と信仰の対象としてのヒロイン、彼女をたぶらかす悪役。思春期の実存の不安。使役と服従。煙草、コーヒー、金属バット。人物造形も題材も小道具も「童貞×ファムファタールもの」の類型を出ていないように思える。反復される「気持ち悪い」という台詞も、新世紀エヴァンゲリオン劇場版『まごころを、君に』を想起させる。優れた作品であることは前提として、本作にしかない未知の領域を見出すことはできなかった。
 次に『校歌』。田舎の学校に通う無垢な少女が、美人で破天荒な女教師と出会うという設定には既視感がある。だが本作の白眉は、日常風景の解像度の高さと描写力にある。「嬉しいようにも困ったようにも見える口と眉の微妙な傾き」は「もともと私の表情だったけど、いつのまにか二人のものになっている」、蕎麦の器が「汁をまき散らしながら優雅に空中を浮遊したあと、縦になって駐車場の隅に転がった」などの細やかな描写には、一文一文に出会うことの新鮮な快楽がある。田園風景の中、プラスチックの蕎麦の器が空を飛ぶ。その放物線がありありと脳裏に浮かんだのは私だけではないはずだ。読者は苦も無く想像する。しかし、鳥でもボールでも紙飛行機でもなく「蕎麦の器」が空を飛ぶシーンをゼロから思いつくことはおそらくできない。私が他者の創作物を読む最大の目的は、こうした未知の景色を見ることだ。
 最後は『鉱夫とカナリア』。こちらも優れた描写が詰まっており、現実のスケッチとしての精度は極めて高い。鉱夫が「左胸のポケットを二度叩く」というディテールも素晴らしい。自分が訪れたことも映像で見たこともないウェールズの炭鉱の内部へ、海外文学の翻訳調の文体によって誘われる読書体験には確かに未知の快感を覚えた。しかし読後に「炭鉱のカナリア」について検索し、そのモチーフが既存の諺に依拠していると知ったとき、興を削がれた感覚があった。もし私がこれまでの人生で当該の言い回しを聞いたことがあったならば、あるいはルポやドキュメンタリーに触れて炭鉱にまつわる予備知識を持っていたならば、タイトルを見た時点で「ああ、あれね」となっていた可能性が高い。その場合、作中の少年少女と一緒にいちいち驚きや動揺を味わえたとは思えない。つまり私が初読時に味わったのは「自分の無知ゆえの未知」に出会ったときの面白さであって、新しい想像の扉を開くという観点で見ると一歩弱いのではないかと感じた。鉱夫が自身の職業と歴史的に不可分だったカナリアへの愛着を見せるシーンよりも、女教師が蕎麦の器を畑に向かって投げるシーンのほうが飛距離がある。よって「既知の中の未知」の扉をより大きく開いてくれた『校歌』を優勝とする。

『三箱三千円』3点
『父との交信』1点
『校歌』5点
『神崎川のザキちゃん』1点
『鉱夫とカナリア』3点
『坊や』1点


淡中圏


注目点は世界の広さの制御。広さには想像を誘発する一見無駄な描写が、狭さには不正確さの正確な描写が必要。

『三箱三千円』の世界は狭い。視野の狭さの反映。青春物の定石。手持ちカメラ的文体が狭さの中での◯きを表現している。2点

『父との交信』の世界も狭いが、日常の裂目が開く。その開閉が軽妙。3点
『校歌』もほぼ同じ構造だが、閉じた後の描写が厚い。二世界を人に代表させて描写や感情移入を容易にしている。4点

『神崎川のザキちゃん』は無数の世界に全方位的に開いている。不思議な細部に全て裂目が感じられて風通しが良い。2点

『鉱夫とカナリア』は狭い洞窟が様々な世界に通じるが道は細い。闇の中、一瞬だけ世界が開けすぐに閉じる。密儀的。4点

『坊や』の舞台は、魔法の世界としか分からないが生活感の細部はある。それがまた別の世界とも通じるらしく、想像が広がる。3点

  • 三箱三千円 2点

  • 父との交信 3点

  • 校歌 4点(勝ち)

  • 神崎川のザキちゃん 2点

  • 鉱夫とカナリア 4点

  • 坊や 3点

子鹿 白介


『私たちは作品を書き上げた。あとは頼んだぞジャッジくん!』「まーかして!」……なんてやり取りは発生していませんが、ファイターさんより託された作品をBFC精神に則って真剣にジャッジいたします。読み違えててもどうか許してクレメンス!
まずは個別の評から。

◎中野真 「三箱三千円」
青春の影の部分を煮詰めたみたいな読後感!
中学二年生の〝僕〟は神崎が好きで、でも自分の好意が性的欲求と彼女の容姿に起因することを自覚している。そして神崎との間の感情は、こじれてしまっている。(おそらく「今年の始まり」の出来事と、その半年後の「神崎を救いたい」発言がきっかけで)
言葉の空虚さに、リアルな実感がある。好きと伝えても子供だから何の責任もとれないと考えているし、「きもい」と流される。神崎と付き合う約束も守ってもらえないし、そのことを冗談めかすほかない。「帰って死ぬ」と言っても「どうせ死ねない」とわかっている。
言葉では何も変わらないから、確かな行動として〝僕〟はコンビニ強盗を実行した。その戦利品がタイトルの「三箱三千円」。不思議なタイトルで、私は初見時『三箱で三千円という価値の何か』を表しているのだと仮定した。でも作中では「煙草三箱と三千円」だ。だったらタイトルも『三箱と三千円』で良さそうなものだが、ここに作者の意図があるように思う。
前述の仮定のとおり『三箱=三千円』の等価を示しているのだと、私は考える。煙草三箱を神崎が受け取り、三千円は〝僕〟に戻された。戦利品は山分けされ、神崎と〝僕〟は対等な関係なのだ。実のところは。
〝僕〟は神崎に依存し執着して振り回されているが、彼女の言葉は「謝らないよ」と突き放しつつ「死ぬなよ」と優しい。でも〝僕〟が欲しているのはそんな優しさではない。やはり言葉は空虚だ。苦しくなるようなすれ違いが、本作の主題なのだろう。
それでもやっと〝僕〟は生きることを意識し、その気持ち悪さを自覚し、早熟な彼女の境地に近づいたのだ。(同じ気持ち悪さを共有した、とまでは断言できないものの)

◎キム・ミユ 「父との交信」
まずタイトルが好き!「未知との遭遇」みたいで。
全編通してSFチックなユーモアに満ちていて、重すぎないのも良い。「パパパパパパパパ」や「パパの魂が目詰まり」など、要所要所の言葉選びが巧みだ。「浄土に入国」て!
それでいて切なくて、ミステリアス。
ペンネームと主人公の名前が同じ〝ミユ〟なのは意味ありげだ。
ラストの空白はどうやら8文字。自分だったら何と打つだろう、とつい想像してしまう。
奇怪なのは時系列だ。ミユは「父の姿が見えなくなってそろそろ一年」、父は「葬式の前の7年間くらい」記憶がないと述べている。
唐突だが生死不明者の葬儀について調べると、戦争や災害に関与しない普通失踪の場合は、七年間の経過をもって葬儀を執り行えるという。
それを踏まえて仮説を立ててみると……『父は現在から八年前に行方不明となり、実は死亡していた。そして、いわゆる魂だけが戻ってきて、ミユには浮遊霊として父(本人の意識は不明瞭)の姿が見えていたのではないか。一年前の葬儀と同時に父の霊が見えなくなり、成仏したものと思っていたが「Wating Room」に囚われていることを知ってミユは慌てた』というような背景ではないだろうか!(あまり自信はありません。すみません……)
しょうもない自説はさておき、植物にはワンダーがある。特にPaparose氏の献身的な仲介は涙なしには語れない。ミユとPaparose氏の相互フレンド関係が、末永く続きますように。

◎奈良原生織 「校歌」
作中の人物描写がとてもリアル。奔放かつ無免許運転で逮捕される美園先生は普通にいそうだし、主人公のかりんは浮世離れしていつつ純朴で身近に感じる。めーたんはかりんと表情のコミュニケーションをするが、日常的に発声ではなく筆談を用いているのかもしれない。
「お母さんのほうが学校について詳しい」ことも、弟のほうが期待されていることも、実感としてひしひし伝わってくる描写だ。
タイトルの「校歌」が解釈の鍵なんだろうな。「薫る三年をすこやかに」。素朴な歌詞が、「全部の中学生がかりんちゃんみたいだったらいいのに」につながりそう。男子にからかわれても笑顔のままスルー、最初に勤めた中学を一年で辞め、旦那さんがいるのになぜか大学生みたいな男の人と一緒にいる美園先生。かりんに困惑を残して、いなくなってしまう。
すこやかに生きるのは難しい。中学生も大人もそれは同じだ。面白がって人をバカにしたり、つい普通にポイ捨てしたり、家族をないがしろにしてしまったり……。
どうしてもきれい事のままでは過ごせない人生で、たとえ限られた一時期でも、すこやかな心と友達を得ることへの静かな祝福を、この作品には感じる。

◎谷脇栗太 「神崎川のザキちゃん」
ゆるい要素でつながった短い詩の集まりという感じの怪文書。朝の町の澄んだ空気のなか、誰も気づかないけれど不思議なことが次々起こる。
(1)未明の町の交通事故。町はやれやれと二度寝する。
(2)スイカ大安売り。詳しくわからないけど何かを作っている工場、身近にあるある。パイプ椅子を揺らしたりレジ袋のシワを伸ばしてるスタッフ、いくらなんでもおひますぎ(笑
(3)ハイエースの事故現場。シートベルト大事! 無事でよかったよほんと……。あーこりゃひどいなってとき、無意味に楽観的な考えが湧くのはよくあること。>「パトカーが到着しさえすれば、自然と全ての記憶が」
(4)南警察署。まだ平和な町。おそらく110番の連絡がセンターから鳴ったが、誰も応答していない。
(5)地域創生課のトカゲ男。空港の近い町。もし比喩でなく家の屋根すれすれを飛行機が飛び交っていたら少し、いやかなりこわい。着ぐるみの頭部内に出現したスイカ。夏の終わりの小さな異変。
(6)見たこともないような虹の話。起き出す町。予行演習と言われると、怪しげな科学の儀式や超自然的な天変地異を想像してしまう。
(7)「神崎川のザキちゃん見違えるように元気だ。」学校新聞の見出しみたいで良い一文! ザキちゃんはきっとアザラシを大きくして目をギョロッとさせて牙も耳も長くしたような動物か、もっと別の怪獣。
何かとんでもない怪異のプロローグのような本作は、読者の想像力をかき立てる。町が主役の不思議な物語が、そこにはきっと存在し得るのだ。

◎匿名希望 「鉱夫とカナリア」
リアリティとディテールがすばらしく、好奇心を刺激される面白さ。と言っても鉱山(とは作中で明言されてないが)に関する私自身の知識がラピュタ程度なので、作中の虚実を判別できない。イギリスのウェールズに、観光地となった鉱山があるのは確かなようだが……その不思議感もまた一興(とさせていただきたい)。
入場時に電子機器を回収されるのは不穏だ。坑内は撮影禁止? もしくは機器の電磁波が設備に悪影響をおよぼすのか?
重いバッテリーの用途も明かされてない。ヘルメットのライトは電池内蔵だろうし、なんらかの非常時に使うのだろう。万が一、三〇〇フィート(約91.44メートル)のエレベータが停電したとき、直列つなぎにしてバッテリー駆動させるのかもしれない。
二本の鉄線を金具で導通させると鳴り響くベル。実在していそうだ。トロッコが走るのだから、足元はレールだろう。
そして、左胸のカナリア。観光客のために飼われている色とりどりのカナリアたちは、もう地下に連れられて命を落とすことはない。ロバートの胸中には、かつてのカナリアたちや、ポニーたちの形に穴が空いているのかもしれない。
地上へ出て皆が「元のクラスメイト」に戻ると、視点人物の〝私〟は浮いた存在なようだ。英文をうまく読めなかったことを思わせる記述があるので、日本出身の可能性もある。(クラスメイトの名前も国際色豊かな気がする)
「名前を持たないただの見学者」として暗闇のなかで共有していた体感が消えたあと、霞む山間はまるで遠い世界のように描写され、同時に読者をも現実に引き戻し、非現実の小旅行は終わりを告げる。廃れた坑道の風景を、その心に焼き付けて。

◎わに万綺 「坊や」
魔女の先生のもとに、一番弟子の坊やが帰ってくる話。ウニのように変わり果てた姿で!
Cグループでは最も平和な作風で読後感も温かい。(本作を最後に並べたのは運営の優しい取り計らい?)
描かれていない物語の存在を感じさせるつくりが好き。「土の塊がぽつねんと」立っている状態から、坊やを救出していく過程が不思議に満ちていて面白い。
砂と枯れ葉・やわらかい泥→人肌のお湯で洗い落とす。
プラスチックのかけらや針金なんか→取り除いて藤籠に放り込む。しばらくしてやっと話ができるようになった。
ヤマアラシのような針毛→一晩経って何本か抜けてくる。この状態でもスープとパンを食べられる。
蟹の殻のような表皮→魔女の声の作用で砕け散る。
坊やの姿かたちが変わっていても落ち着いて、できることから対処していく様子は、まるで料理の手練のよう。海の匂いがするということは、やはり棘皮動物の呪いにでもかけられてしまっていたのだろうか。
百年カレンダーなんて代物も興味深いし、三年前から捲られていないというのは、坊やの旅の期間を表しているのかもしれない。きっと〝師匠〟も、昔なじみの魔法使いなのだろう。
命の危険があるような修行の旅も、魔法に彩られた冒険譚だったに違いない。
このキャラクターたちで、短編小説集など読んでみたくなるお話だ。

◆勝ちと採点
勝ちと採点は、下記のように付与します。
「三箱三千円」……4点
「父との交信」……3点
「校歌」……3点
「神崎川のザキちゃん」……3点
「鉱夫とカナリア」……4点・勝ち
「坊や」……3点
いずれの作品も独自に世界観を描き出していて、それぞれの宇宙が感じられました。その時点で低い点数をつける理由がないため、2点以下の作品はありません。
その中でも『強さ』という観点で見たとき、「三箱三千円」「鉱夫とカナリア」の2作品が一段強いと考え、4点を付けてあります。何らかの形で心を動かされ、物語に引き付けられ、面白く読み入ったことを、作品の強さとして判定しています。
とても個人的な感覚なのですが、「三箱三千円」には切実さと迫力がありました。「鉱夫とカナリア」には強いリアリティと哀しさを感じ、題材を描く視点には繊細な優しさがあります。今回はこの感性に一票を投じたいと思い、勝ちを付けました。

冬乃くじ


中野真「三箱三千円」 4点
キム・ミユ「父との交信」 2点
〇 奈良原生織「校歌」 5点(勝ち抜け)
谷脇栗太「神崎川のザキちゃん」 4点
匿名希望「鉱夫とカナリア」 3点
わに万綺「坊や」 4点

総評

 どの作品も傑作であり、失点の多少はあれど実力は拮抗していた。ジャッジの判断は必ず割れ、わたしが選ばないものも違う誰かが選ぶだろう。ではわたしは何の基準で勝ちを選ぶべきかと考えたとき、作品にかけた時間で勝者を決めようと思った。
 かけた時間というのは、なにも執筆にかけた時間だけを指すのではない。あるテーマについて考え続ける書き手は、そのテーマの掘り下げが他の者より深くなる。文章技法を修行し続けた書き手は、文の深みやきらめきが他の者よりも秀でる。周りと違う価値観を抱え、それを表現することを諦めなかった書き手は、一読した皆を戸惑わせるものを書き、社会の価値観を揺るがす。作品内の情報について、代替不可能なものを探し続けた書き手の作品は、物語の必然性が他の作品よりも高まる。そしてもちろん、構想を練り、推敲を重ねた作品は、なによりも特別な輝きを放つ。
 そうした書き手の努力こそが、次の文芸の未来をひらくと信じる。だからわたしは、そうした書き手の努力に対して、最大限の敬意を表し、勝者としたい。

校歌

 すべての情報が必然であり、相似の関係にある。無用の要素が一切なく、寄木細工のからくり箱のようだ。あまりに理知的なつくりであるため、分析することがこの作品には最適かと思う。最重要モチーフは「ゴミ」である。ゴミとは、社会あるいは社会の一員から、ある機能を使い切ったとみなされた「状態」を指す名称だ。実際に使えるかどうかは関係ない。もう使えないとみなされた瞬間にゴミとなる。
 都会から、かりんの中学にやってきた美園先生は、26歳以上と推定される。外見は魅力的で、有名音大に入る実力もあった。(おそらくは同じ音大の生徒と)学生結婚をした。彼は海外のオーケストラのオーボエ奏者として働いている。海外がどこを指すか不明だが、母国のオケを選んでいないことから、ある程度著名なオケなのだろう。そうしたところで活躍するためには、完全実力の熾烈な入団試験をパスするか、若いころ(在学中)になんらかの成績を残しておく必要がある。美園が最初から教職を目指していたかどうかは提示されないが、華々しく生きるルートに乗り損なったことは確かだ。26歳以上で職務履歴が1年であることからも、迷走期の長さが伺える。院卒でないならば、就職活動に悩まされた期間も長いだろう。比して配偶者には所属する場所もあり、やらねばならぬこともあり、日本にいる美園と一緒にいる時間は短い。ゴミとして捨てられたオウムのポーチを美園が拾い、肌身離さず使っているのはそこにシンパシーを抱いたからだ。だが、一度でもゴミとみなされたものをネガティブに評する人は多く、作中の男子生徒も「きったねー!」と言う。インコのポーチは美園の象徴だ。そしてそのインコのポーチが道ばたにあるのを見て、かりんは「鮮やか」と感じる。
 かりんの周りは皆やらねばならぬことを持っている。弟はかりんよりもよい中学に入るため塾に通わねばならず、そのために母はパートをせねばならず、友達のめーたんは陸上部に所属していて練習をせねばならぬ。かりんとめーたんの関係は、美園と配偶者の関係と似る。かりんは自分特有の表情をめーたんにとられたが、仲が良いため「二人の物とする」ことで納得している。どこか喜びもあるだろう。美園が配偶者にとられたものは可能性だ(もし配偶者がいなければ一人分の枠があいたのだから)。配偶者と仲がよいうちは、かりん同様納得していただろう。だが「男の大学生」と親密に過ごす今は、おそらく納得していない。
 やることがなくて町のゴミ拾いに出たかりんと、生身の美園がコンビニの駐車場で出会ったとき、美園はポイ捨てをしてみせる。ポイ捨てとは、ゴミを社会的死に追いやらないための行為だ。ゴミの行く末は社会において決められているが、その入り口はゴミ箱あるいはゴミ袋である。だからその入り口に入れなければ、ゴミがゴミ処理場で死を迎えることはない。美園がカップ麺を投げつけた先には田んぼがある。整然と波打つ稲穂、つまり社会に向かって美園はゴミを投げる、だが社会は美園のいるところから遠すぎて、投げたゴミが届くことはない。
 運転免許証の更新を拒否した三年前から、自分を使えないとみなした社会に背を向けて生きてきた。不貞行為もポイ捨ても無免許運転も、のそみをのぞみと読むのも、ゴミを拾って自分の物とする行為さえも社会のルールに反している。その美園が、きれいな服のままコンビニの駐車場に座り込み、カップ蕎麦を啜りながら、「揃って礼儀正しく」揺れる稲の波を見ている姿は、かぎりなく切ない。
 めーたんが、もとはかりんの物だった表情を浮かべて見せ、100メートル走のスタート位置につくところで物語は終わる。めーたんを見るかりんのまなざしは、オーボエ奏者としてスタート地点に立った配偶者を見送る美園のそれと重なる。
 「校歌」というタイトルは、美園の苦しんだ三年間を指すと思われるが、これから始まるかりんの中学生活をも指す。「薫る三年(みとせ)を健やかに」という歌詞は、作者あるいは美園からの、かりんへの祈りだろう。美園がカップ蕎麦を投げたとき空中に描かれた放物線や「こういう人がポイ捨てするの」という歌うようなセリフは、胸がつまるほど悲しいが、きっとかりんの何かを変えるのではと思わせる。そういう解放感がある。
 どの要素を見ても整合性が高すぎるため、そこから出られない窮屈さを感じないわけでもない。だがそうした手蹟を気づかせない描写は見事である。ここまで必然性を高めることは、一朝一夕にはできない。初読の者に何かを残し、再読、再再読の者の心を掻き乱して離さない傑作だ。よくぞここまで磨きぬいた。勝者とする。

神崎川のザキちゃん

 余白の多い作品だ。最後に突然登場するザキちゃんとは何者か、町に起こった事件とは何だったのか、肝心なところが語られないかわりに、事件前後の町のノホホンとした様子が描写される。一読してわかりにくいので、再読を要する。
 物語に配置されたさまざまな描写から推測すると、ザキちゃんはおそらくは多摩川に住むタマちゃんと同じ、人間社会に迷いこんでなんとなく住みはじめ、町のシンボルとして共存している生き物だ。地域創生課の場面から推察するに、ザキちゃんはおそらく黒色の肌をしていて、トカゲの形をとっており、それなりに大きい。すくなくとも、川幅100mの水面から顔を出すだけで沿道にいる子どもの目に入る程度には大きいし、警官から石を投げられても平気なくらいに丈夫だ。事件が起こった日、町はスイカを待っていて、でもスイカは届かなくて、衝突音があって、空がよく見える詰所の二階にあったザキちゃん着ぐるみの頭のなかに、いつのまにかスイカがひとつはまっている。それから、なんだかわからないけれど町には見たこともない虹がかかるらしい。これはある程度想定された出来事である。
 そして(ここからは妄想の域に入るが)たぶんザキちゃんは巨大化する。巨大化することはなんとなく町に知られているが、はっきりとは知らされていなかった。朝、ザキちゃんが川からザバァと立って見たこともない虹がサァーと町にかかったとき、隣町の空港につく飛行機となんかトラブルがあって、そのせいでなんか元気をなくして、ついでにどっかからなんかのコンクリート片を道路にもってきて、衝突したトラックに積まれてたスイカを撒き散らして警察と一悶着あり、当然のことながらニュースになった。……でもザキちゃんは人間とは違う理屈で動いてるから、町のみんなからは愛されたままだ。よかったな。と、ほのぼのしてしまう。
 妄想たくましくしたわりには整合性がとれていないし、そもそも勝手な妄想パートが多すぎるのだが、だって書かれてないんだもの。分量は既定の枚数よりずっと短いし、作者はわざと書いていないんだもの。第一、世界はそんなに整合性が高いか? もっとカオスなんじゃないのか? だからもし、世界をあちこち見て回ったら、こういう「わかるようでわからんようでわかる」感じになるのではないか。だからもう、これは作者からの「楽しい材料を用意したからみんなで世界を妄想しようよ」という、とても明るい提案として受け止めたい。そう受け止めてもあんまり怒られない気がする。そういうゆるさが全編に満ちている。みたいなことを書いていたら、11/2の犬街ラジオで、作者本人が「これまでつくった短歌を膨らませてつないで書いた」とネタばらししていた。ぜんぜんちがったー! 巨大化ー!! おれの巨大化ザキちゃんー!! とは思ったが、まぁいいか。小説なんてどう書こうがどう読もうが自由でよいし、ザキちゃんは元気になったし、石を投げられても怒らないし、また一緒に遊ぼうと思って顔を出す。そういう作品もある。そんな作者の強い信念を感じて、胸を打たれる。

父との交信

 一番好きな作品だった。発想は面白く、運びもよく、ユーモアもあり、テーマは深く、身につまされるものだった。どうやっても勝ち点に選びたかった。だからこそ残念でならない。この作品がこの状態で出されたことが。
 ラストのことだ。なぜ空欄を埋めなかったのか。「生前には一度も言えなかった言葉」という説明とともに空欄をつければ、読者にとっての最適解が心に浮かぶはずとの期待からだろうか。たとえ作者にどんな意図があったとしても、はらはらしながら父との交信を見守ってきた読者にとって、そこは絶対に読みたい箇所のはずだ。なぜ物語から逃げた? これほどまでに書ける才能をもちながら、なぜ最後まで物語と向き合わなかったのか? もしどうしても適した言葉が浮かばなかったのなら、今年の応募は見送る勇気をもつべきだった。それほどの自信を持つべきだった、自分の書く物語に対して。残念で、悔しくてならない。最後の最後にこんな、作者の逃げを見させられるくらいなら、ラスト数行カットして突然終了された方がよほどマシだった。馬脚をあらわすことが必要な作品であったとは思えない。これはそういう作品ではない。悔しくて言葉が出ない。残念ながら失点は大きい。

鉱夫とカナリア

 書き手はプロ作家かもしれない。もしプロでないならプロになるべきだ。この書き手なら何を書いてもおもしろく書けると思う。そう思わせるほど、文章がうまい。うますぎる。わたしのような者がたどたどしい言葉で評するのはかなり恐れ多いので、ここらで終いにしてしまいたいが、もしかして「えっ普通じゃない?」と思う読者がいるかもしれない(こういううまい文章はうますぎるので「普通」と思われることがある)ので、あえて解説してみると、まず冒頭がうますぎる。冒頭は三文で構成されているが、この最初の二文で、状況が把握できない読者はいるだろうか。いない。いないのだ、、!!! もちろんSFやファンタジーと違い、物語の文脈が現代のわたしたちに理解しやすい状況であることもある。だがそれだけではない。冒頭の短い2文に、時間的・空間的ひろがりを持つ情報が、これでもかと詰まっているからだ。
 1文目に含まれた情報はこうだ。現れた男性が過去に炭鉱夫であった(=①過去の説明)今は高齢で声はしわがれ案内役をしている(=②現在の説明+炭鉱にいるのかもしれないと思わせるので③場所の説明+案内役がいるなら聞き手もいるので④その場にいる人数の説明)優しい声だ(=⑤人格の説明)ウェールズ訛りがある(=⑥過去から現在に至るまでに住んでいた場所の説明)。そして2文目、クラスメイトの一部は先生に見えないところで(=⑦その場にいる人々の説明を補強。案内を受けるのは語り手をふくむ学生たちと先生、よって⑧状況はおそらく社会科見学)、案内役の訛りを笑いあう(=⑨一部の学生と先生と語り手の態度が違うこと、⑩都会からきたこと、⑪一部の学生の人格の説明、⑫若さと結びついた傲慢さの描写)。
 という具合に、12種類もの情報が、この短い2文で読者の脳に叩き込まれるため、すべての読者に状況が伝わるのだ。しかもわざとらしくなく!! こうした芸当は誰もがやすやすとできるものではなく、文章修行を積んだ者にしかできない。そうして培われた芸が、あらゆる箇所につめこまれ、案内役を先頭に坑道を歩く学生たちとともに、読者は誰ひとり間違いなく物語世界をすすんでいく。そして作者の思惑通り、同じところでひっかかり、同じところで感動できる。案内役からライトを消すように指示され、闇に放り出されたときの心細さ、身を守るものを纏わぬときの剥き出しの心のありようを、読者は一緒に体験できる。元の世界に戻ってきたときは共に安心し、目には世界の鮮やかさを感じただろう。おそらくはこれまでたくさんのカナリアを死に至らしめてきた老人の、せめてもの償いのような生き方に心潤わせた読者もいただろう。ラストの余韻もいい。細部の目配せもことごとくうまい。とにかくうまい。うますぎる。
 だが……。である。案内が過ぎるのだ。「炭鉱の社会科見学」という題材のせいなのかもしれないが、作品を読むときの感動がどうしても受動的で、最後までそのありようが変わらなかった。読者たちが回収されたスマートフォンを再び手に入れ好きなアプリでも開こうものならたちどころに元通りの生活になってしまう、そういう案内された感動になってしまっている。この、読者を信頼していない感じ、言い換えれば作者が読者を支配しようとする感じは、プロ作家であるあなた、あるいはプロ作家に一番近いところにいるあなたは、いつか克服するべき点なのではないか。もう、正直に言って、こんなに書ける人にこんな苦言を呈するのはどう考えてもおこがましくて胃が痛くて本当に言いたくないのだが、それでも言わなければならない、選者ではなく、一個人として。言います。わたしは、自発的に感動したかった。ずっと案内されて指示を受けて、たしかにとてもよい体験ができたのだけどそうじゃなくて、自分で自由に歩く時間も欲しかったのです。すみません。本当にすみません、でもわかってほしい。この、しがない一読者の声を聞いてほしい。そして新しい作品をまた読ませてほしい。あなたは本当にうまいから、きっとそういう読者に向けた小説も書けるはずです。そしてわたしを読者にしてください、望まれた読者では、ないかもしれないけれど……。楽しみにしています。

三箱三千円

 読むたびに泣いてしまって、評が書けない。若いとき、欲しくてたまらないただひとつの愛が得られなくて、何をどうやっても得られなくてただ消耗して追い詰められて、なぜここまで欲しいのか本当は何がしたいのかもわからなくなって、終わりにしたいのに終わりにできないときの心情が、おそろしいほど切実な筆致でつづられる。ラスト付近の「何か変えられた?」というセリフは一見陳腐だが、冒頭で主人公が煙草の煙を「夜明け前の空の色」と描写された小説を読んだことがある上で、そうした自分由来ではない言葉を口にしたい自分に羞恥心を感じたり、「陳腐で頭の悪い現実」に直面させられ続けていたりすることを考慮すると、神崎が「何かを変えたい」と言ったことがあったのかもしれない。それが二人の共通の思いで、だから最初につきあうことになったのかもしれない。結局神崎のことは変えられなくて、神崎と同じ状態に変えられたのは「僕」本人で、「生きることは気持ち悪い」と思う。けれども「僕」は、今が夜明け前であることを知っている。そう思える知識の積み上げがある。神崎はそれを理解していただろう。金属バットでコンビニ強盗をやらせても、三箱と三千円しか強奪できない「僕」を神崎は嫌いではなかった。でも神崎は朝まで親の帰らない鍵の壊れたアパートに住んでいて、「僕」とは住むところが違うのだ。いかに思いあっていても、二人は決して一緒にはなれない。
 絶望と切迫感、他人から見れば「鬱陶しい誰かの主観」でしかありえないものを、見事作品として昇華した。その執念は称賛に値する。この作品を必要とする読者は多いはずだ。

坊や

 小説を読んでいると、友達になれそうな小説と出くわすことがある。文章の底を流れる価値観が自分と似ていたり、やたら共感できるキャラクターが物語のなかで幅をきかせていたり、文章のリズムが自分の生きる呼吸と似ていたりするとき、そんなふうに感じる。この作品はわたしにとってそういう作品で、このグループの中で一番自分に近い。作中人物に悪意がない。いいね~。愛を信じている。ぐっとくる。なんか魔法。楽しい! ハッピーエンド。大好き!!! となる。ので、よかったよ~~!で終わらせたい気持ちでいっぱいだ。今。だっていいんだもん。こんな坊やに頭ぐりぐりされたらめちゃ可愛じゃん。幸せだし最高じゃん。
 だけど気になるところもある。一番気になるのは、技法的に、作品全体から見てバランスの悪い箇所が散見される点。たとえば途中「最後は何と言ったのだろう?」と神視点が主張する必要はあるだろうか。ほとんどここだけなので浮いている。いわゆる語り手を意識させるなら、もっとちりばめるべきではないだろうか。最初と最後だけでもいい。語り手が現れること自体は歓迎というかむしろ好きだが、いかんせんバランスが悪い。「魔女は思った」という、登場人物の内心を神視点で語る文が一文だけなのも気になる。こういうふうに浮いた表現が点々とあると、すらすら読めないだけでなく、推敲漏れのようにも見えて、せっかくのファンタジー空間に作者の顔が出てしまう。
 原稿用紙六枚で優しい語りのファンタジーをやろうとすると字数足りなくてきつい、ということは身をもって知っているので強く言えないのだが、こういう脇の甘さはあまり見せないほうがいい。なぜかというと、そもそも善意オンリーというバランスの悪すぎる世界を納得させるためには、技法においては完璧にしておかないと、無駄なアンチが現れる、から!!!「この少年、全く能動的に動けてないよね?」「てか子どもってこんな素直だけじゃないよね?」「この作者、ちゃんと人間描けてる?」みたいな!!! そこを「うるせえ全部わざとなんだからこれでいいんだ!」とはねのけるためには、そういう隙を見せてはいけない(と思う)のです。そんな経験を経て、この少年は針を纏うようになったのかもしれない。か、かわいそう……。まぁそういうことです。
 ともあれ、こういうホンワカした気持ちで終わる小説はなかなか書くのが大変で、そこが成功しているのは素晴らしいことだし、呪いのかけられ方など細部の描写も丁寧かつおもしろかったので、よかったよ~~! 以上!

ときのき


 総評
 
 悩ましい選考になった。それぞれの作品の完成度は高く、ほころびが少ない。どれも作品単体を見るなら、きれいに出来上がっている。技術的な優劣では測りにくいし、美点も異なる。作品各々の個性を矯める方向に作用しないことを願いつつ、BFCという場の勝者として相応しい“強い文章”とは何かを考えながら評価した。
 結論として、勝ち点は奈良原生織に進呈した。
 

中野真 「三箱三千円」 三点
 
 読書好きで頭のいい中学二年の少年の、独り相撲と煩悶の記録として読んだ。
 切実なモノローグが続くためともすると主人公と神崎、二人の物語のように見えてしまうが、思慕の対象である神崎が彼に向け具体的に発しているのは無茶な要求と壁打ちテニスのような相槌だけだ。冒頭、「生きることは気持ち悪い」と彼女が口にすると、それは思春期の苛立ちがいわせる典型的な台詞のようであるが、主人公は真面目に“生きることを意識したこともない”と内省を始める。これは本編で繰り返される彼らのやり取りの基本的なパターンだ。主人公は恐らく神崎のように“インターホンの壊れたアパート”には住んでいない、中流以上の家庭の子供だ。家庭環境も性格も交友関係も全く異なる、そして彼に強い興味は抱いていない彼女との間にそれでも何らかの繋がりがある筈だ、と信じるためのあがきのような息苦しい独白がテクストのほとんどを占めていて、実際に二人で行ったこと、として語られるエピソードは実は少ない。ささやかな、心の交流と呼ぶのもためらわれるような僅かばかりの言葉や時間の共有が大切に取り出され、“殺されても仕方なかった”と反省したり、“英雄のような誇らしさを感じた”りする。“それ以上の何かを、何の責任もとれない子供が好きという言葉にのせられるだろうか”他、自意識の強い大人びた台詞回しも彼が読書好きの中学生であることから、悩みの深刻さを表現するための背伸びとして自然に見える。頻々と場面が切り替わるのも彼の焦りと混乱を表現する上で効果的だ。
 少年の思いの切実さに絞った点は貴重だと思う一方、自分との対話から外に出る、もしくはこの路線で突き抜けてしまう、といった本編後の展開を予告するような要素に乏しかった。これを欠点と呼ぶのは酷だろうが、小説としての動きの乏しさと連動してしまっているように感じる点だけに気になった。作中で駆使される技術が次作ではより広い世界へ主人公を押し出すための懸け橋として使われることを希望し、この採点となった。
 

キム・ミユ 「父との交信」 四点
 
 亡くなった大切な人(家族、恋人など)が何かの理由で現世に帰還し、遺してきた人々と再会して心残りだった何かを解決しまた彼岸へ戻っていく、というパターンの物語はよくある。
 素直に読むと、本作もその類型をなぞっているかのように思える。だから最後に主人公が書く“父の生前には一度も言えなかった言葉”は当然ながら、そのような映画や漫画やアニメにおいて消音口パクで表現されるような愛情を伝える台詞なのだろうと判断してしまう。
 しかし本当にそうだろうか。
 植物と意思疎通が図れるアプリがあり、主人公がたまたま父親の育てた薔薇の葉の裏にQRコードを発見する、という出だしではまだ、この作品のリアリティラインは明示されていない。つまり生き物に刷り込まれたQRコード、なる幻覚的なイメージが彼女の妄想でないとはいい切れないのだ。一個体につき一つのIDとしかペアリングできない、とアプリの説明がされるが、では何故父親と主人公は薔薇と同時接続しているのか。 
 主人公の対応も不思議だ。彼女は期間限定とはいえプレミアム会員になっているからメッセージは送り放題の筈だ。しかし、父親からの返答が遅れているとはいえ、彼女の側から送信されたメッセージは少なく、内容も簡単だ。父親に訊かれた“葬式の前の七年間くらい”の事情説明もない。
 主人公は金銭的に余裕がない。理由は(あえてだろうが)説明されない。無宗教の葬式も、恐らくはそれが原因だろう。プレミアム会員の月額三万円は高額だが、亡くなった愛する父親と会話ができる、という理由なら、短期間でも加入を検討しそうなものだ。しかし彼女は特に迷うそぶりもなくお試し期間のタイムリミットを厳密に守り、最後のメッセージを送った後父親がどうなるかも関心はないようだ。
 あえて空白にされ内容が伏せられたメッセ―ジ。ここに記された“生前に一度も言えなかった言葉”とは、それが何かはわからない訳だが、平穏なものではないだろう。カズオ・イシグロからの類推で読んでいたが、どちらかといえばジーン・ウルフのやり方に近いかもしれない。
 企みのある内容をユーモラスに読ませる技術の高さを評価した。次に何を書くか楽しみである、という意味では勝ち点候補だった。ただ、読者を立ち止まらせ、これは何か変だぞと考えさせるような、引きの部分が弱いようにも感じた。このままだと、ちょっと変わった雰囲気の掌編、として通り過ぎられてしまいかねない。この仕組みの物語は読みが分かれる点が武器なのでこれを欠点と呼ぶべきではないかもしれないが、多くの読者を引きずり回す“強い文章”であるためには、“何だか意味はよくわかんないけど面白い”と感じさせる冴えた一手を期待したいところだ。

 
奈良原生織 「校歌」 五点
 
 語り手のかりんは中学生で、放課後部活には入らず、帰宅して大好きなNHKの子供向け番組を観、自発的に近所のごみ拾いを行う。幼いというよりは芯のあるナチュラルボーン良い子という印象で、そんなマイペースな彼女の安定した世界も、夏休み明けから始まる予定の弟の塾通いや部活で忙しい友達のめーちゃん、のような形で周囲には微妙に変化の兆しが見えている。新任の音楽教師美園先生は彼女にとって好感の持てる相手だが、“最初に勤めた中学を一年で辞め”てやってきた人だ。冒頭、生徒たちに挨拶する美園先生と(きっと用意してきたつかみの自己紹介だろうに)、野卑な中学生男子のやりとりはかりん視点では“笑顔を崩さず”“気にもとめず”となるが、内心はどうだったのだろう。
 放課後、コンビニ前で再会した先生は“車止めでしゃがんで、コンビニの蕎麦を啜って”いる。登場シーンからして少し異様で、荒んだ雰囲気がある。拾ったというポーチが、冒頭では彼女の優しさないし個性的な性格を予測させるものだったのが、ここでは内に秘めた何か穏やかではない感情を意味するものに変わっている。(オウムだったのがインコになっていて、これは誤記と判断したが、二つあったということなのだろうか)そこに髭を生やした大学生風の、恐らくは夫ではない連れらしき男性が現れ、先生は蕎麦の容器でフリスビーをし、かりんにちょっとした混乱を残して退場する。変化をどこかで予期しつつ、それでも変わらぬ日常を送ろうとする少女に一瞬訪れる、混沌とした大人の世界との邂逅が丁寧に描かれていた。“手を振ったら振り返してくれ”る友人との場面で締め括られるため読後感も暗くない。かりんもまたスタート位置に着いたところなのだ。
 気持ちのいい主人公が出てくるという、オブセッションに囚われた奇人変人の祭典になりがちなブンゲイ界隈では珍しいタイプの一作で、抑えた筆致が蕎麦容器フリスビーの突然の暴力性や、音楽教師の抱えるものをよく表現している。
 強いて不満をいえば、音楽教師の退場がいささか呆気ないこと。そして、彼女に対する主人公の気持ちはあえて描かれず読者に委ねられるが、空白が大きいというか、もう少し解釈の幅をコントロールした方が作品への印象がクリアになったのではないだろうか。
 制御を意識させない伸びやかな語り口は魅力的だ。読者の入り口の広さ、転調の巧みさなど、メロドラマチックにせずこの物語を語り切った手腕も評価されるべきだ。
 以上を考慮しての採点となった。

谷脇栗太 「神崎川のザキちゃん」 二点

 七つの断章によって語られるある町のできごと。
 何か起きているのだが、何が起きているのかはわからない。謎の解明によるカタルシスは指向していず、この不穏な空気をそのまま受け取るもの、として読んだ。
スイカや事故、警察、西の空、九時、といったワードでゆるやかに全体の繋がりが示唆されるが、はっきりとした像は結ばない。なくなった荷はスイカのようでもあるがそうでないようでもあり、ザキちゃんが一体何者なのかもよくわからない。警察署は無人のようだが何故だろう。異変とは何か。虹とは。
 読者の、新たな展開への期待を推進力にして進行し、だが中心は最後まではぐらかされる。未完成の小説の一部を読んでいるかのようだが、興味を維持するための適切な切り貼りが行われなければこうした効果は出ない。
 欲を言えば、符号だけではなく、小さな謎の解明など、読み進める読者へのご褒美が幾つかあると、立ち止まって考え込ませるきっかけができ、より効果的だったのではないか。このままだとクエスチョンマークが浮かぶだけでそれ以上こだわりなく読み飛ばされてしまう恐れがある。
 チャレンジングな構成を安定した筆力で描き切ったことは評価できるが、このような形をとらねばならなかった必然性が説得力を持って迫ってくることがなかった。ために、評点はこのような結果になった。
 

匿名希望 「鉱夫とカナリア」 四点
 
 私はクラスメイトから“まだ英文をうまく読めないと”思い込まれ、“誰も私の隣には座りたがらな”い存在だ。恐らくは他国から渡英して間もなく、うまくクラスに馴染めていない。クラスは多民族出身の生徒で構成されていることが(そして彼らは恐らく貧しい階層の人々ではないことが)炭坑内での粉塵爆発予防のため回収される電子機器のリストからわかる。カナリアについて聞かれたロバートが右手で“左胸のポケット辺り”を叩くくだりがあり、ちょっとしたミスリードもあってポケットを叩いているかのようだが、指しているのはその布地の下、皮膚の更に下だろう。生徒たちは約90メートルをエレベーターで下り、暗闇の世界に足を踏み入れる。炭坑内の環境は他生徒への言及と共にさりげなく行われる。暗く狭い坑道で過去の過酷な労働を想起させる動物たちの犠牲のエピソードを重ねていき、帰り際にライトを消すくだりでは登場人物たちとともに暗闇の中に取り残されたような気持ちになる。私が誰かと手をつなぐ流れも自然だ。
 好みをいえば、マッテオの赤面などでそれとなく伝えられているけれど、ライトが照らし出す範囲や光の強さについて描写がもう少しあった方が、登場人物たちの制限された視界がイメージし易かったかもしれない。クラスメイトの人数分ライトで照らされているから、それなりの明るさではあるのだろうけれど。
 細部まで配慮が行き届いた、非常に巧みな、完成されたブンゲイ作品だ。全く違った題材を扱っても同様の仕事をしそうな安定感がある。静かな見た目だが、文章の隅々まで武器として研ぎ澄ませようという迫力を感じた。あえていえば、この完成度の高さが実現しているのはブンゲイ愛好者を唸らせる繊細な工芸品としての魅力であって、その外側にいる膨大な縁なき衆生を巻き込むような野蛮な力が不足しているのではないか。文芸誌のコンテストであれば結果は異なっていたかもしれないが、BFCという場では、他に一歩譲った形となった。
 

わに万綺 「坊や」 三点

 ファンタジー連作の一挿話を切り抜いたようなお話。
 おばあさんは“先生”で坊やは“一番弟子”、“師匠”が誰なのかはわからないが、坊やがヤマアラシになった事情と同じで作中で説明はない。だが、背景説明がほぼされないことに特段の不満が湧かないのは、メインで描かれるのが坊やの帰還と回復の物語だからだろう。土のかたまりが溶け落ちてヤマアラシへ、針が落ち坊やが現れる。ジブリアニメのように明瞭で感覚に訴えかけてくる描写が、おばあさんが坊やを癒していく様子を説得力のある絵として伝えてくれる。
 この絵のちからが本作の一番の魅力だし、シンプルな物語に温かみと力強さを与えている。
 あえてあげつらうなら、これは先述の評価に反するようだが、一応ほのめかされる物語世界の広がりが、読んでいてあまり感じられない所が弱点だろうか。これは一幕ものとしての本作の価値を貶めるものではないが、架空のファンタジー世界であるだけに、物語の書割の向こうにも世界が広がっていると思わせるための工夫があと少し必要だったのではないか。描かれたテクストの外の世界も味方につけることができていたら、結果は違ったものになっていたかもしれない。その点を鑑みての採点となった。

  



Dグループ


紙文 


■採点方法
 総合力や整合性、完成度が高ければそれはそれで素晴らしい作品だと言える一方、尖っていることが魅力となるもの、むしろその見事な破綻っぷりゆえに読者を魅了する作品もめずらしくない。つまり、作品をどれだけ詳細に褒めたり貶したりしたところで優劣など決めようがないのだ。従って、私は読者としての本能を信じることにした。おもしろいものはおもしろい。つまらないものはつまらない。作家でも批評家でも編集者でもない私は、出版業界の商業主義を支える消費者でしかない一読者の視点で今回のジャッジを行う。以下が5段階の評価基準である。

1点:途中で読むのをやめたくなった。
2点:最後まで読んでしまった。
3点:すべてを味わったうえで再読したいと感じた。
4点:他のひとに紹介したいと感じた。
5点:逆に誰にも紹介したくない(独占したい)と感じた。

 これらは読者としてのただの反応でしかないため、「私にとってはどのような作品だったのか」を述べ添えるかたちで評価の裏付けとしたい。なお、以下のジャッジ評はいわゆる「正解を当てに行った」ものではなく、あくまでも「私にはこのような作品として読めた」という読解の提示に過ぎないことをあらかじめ表明しておく。

■ジャッジ評

・「日記」(たそかれを)3点
 交換日記も日記の一種である。しかし、題名に「交換~」と付いていないのだからやはり相手のいない一人日記なのか。解釈は読者に委ねられている。
 人生の、ふと立ち止まった瞬間に「悪いのは自分だけではないよな」と過去の自分を許す気持ちが掴めた。それは日常のなんでもない思いつきのようでいて、実はかなりドラマチックな瞬間でもある。その気持ちを共有したいと思える相手=日記の読者がいたからこそ、この日記の語り手は三度の離婚を経てもなお生き残ることができたのだろう。あるいは、そういう相手でもいなければ決して生き残ることができないからこそ生み出された架空の〈日記の読者〉、でないことを願わずにはいられない。加えて、これをメタ的に解釈するのであれば、今回、私という〈日記の読者〉が本作に目を通したことでこの語り手を救うことができたのかもしれない。
 本作は語り手の性別を定めていないところが丁寧である。人生をまえにしたときの、人間の弱さに対する受け皿として機能しうる本作にとって、読者を限定しないようにとても用心深く書かれていると感じた。優しい作品である。しかしながら、その語り口の素朴さは弱点と受けとめることもできてしまう。実際に、読後の印象は決して強いものではなかった。最後の「知らんけど」も読後の余韻を打ち消す方向に作用したように思う。もちろん、その「知らんけど」によって語り手は回想に区切りを付け、今現在の実生活に向き直ることができたのだ(そういった表現と演出なのだ)とする読解も可能ではあるのだが、やはり上記のような読後の印象からすれば、より相応しい別の表現があったのではないかと考える。

・「サトゥルヌスの子ら」(冬乃くじ)4点
 技巧の作品。演奏することによる憑依が肝心な仕掛けとなる以上、手(あるいは腕)が登場人物らのシンボルとして機能しなければならず、登場人物の性別や家族構成、基本的なプロットなど、作者にはあまり自由がなかったと推測する。それでもなお本作の独創性が揺るがないのは、結末部分にある読者への裏切りがあまりにも鋭いせいだろう。
 本作は一見、父親に復讐する娘の物語として進行する。娘は遺された楽曲を通じ、父親というモンスターの秘密を暴きながら、メタファーのなかで姉を救いだそうとする。しかし最後の最後で、それまでのプロットは見事にひっくり返されてしまう。「甘いにおいがする」それは、姉を解放するどころかむしろ、姉という才能を食らってしまいかねない態度である。これに父親の言葉「おまえにあいつの才能が少しでもあれば」が呼応する。父を恐れ、恨みながらも、それでも愛されたかった主人公の、逃れられない切実さが胸を打つ。
 また、ピアノの演奏といった専門性の高いモチーフを用いているのにも関わらず、幅広い読者に届くよう配慮されている点も本作の巧みさだろう。演奏することによる憑依といった幻想的な仕掛けによって、ピアノあるいは音楽に限定されない、例えば文芸作品や絵画を鑑賞する際にその作品の向こう側にいる作者の魂を幻視してしまうような、そういった普遍的な感覚を喚起することに成功している。他の言語圏にいる読者や、十年後の読者にも本作の魅力は届くであろうと想像する。
 この作者の作品をもっと読みたいと感じた。よって、本作を勝ち抜け作品に推す。

・「予定地」(由井堰)3点
 私は本作を「父親を介護している人物が、やがて日々に疲れ、結果的に父親を殺めてしまうに至り、その遺体を埋める場所を探しはじめるまで」を描いたものであると読んだ。しかしながら、これはジャッジとして大変に恥ずべきことだが、短歌の世界において個々の読解をどのような作法で開陳するのが推奨されているのかを私は知らず、またその技術も持ち合わせていないため、(礼儀知らずと罵られかねないことを承知のうえで)次のような書き方しか選べなかった。すみません。
 以下(1)~(21)が本作の21首それぞれについて、「私にはどのように見えていたのか」を具体的に表現したものになる。
(1) 息をすると苦しい。線路に飛び降りようとして、急ブレーキされて未遂に終わったときのことを思い出す。(18番と21番に対応)
(2) ちゃんと相手の話を聞きなさい。先生はそう注意してくれたけれど、話をまともに聞いてない人間は、先生の話だって聞いてないんだよ。(5番)
(3) 弟がLINEしてる。あ、スタンプ使った。笑ってるスタンプだ。本人もちゃんと笑ってる。わたしと違って無表情じゃない。やさしいよな、弟は。わたしなんて真顔だもんな。笑ってるスタンプもどうせ愛想笑いだもんな。(16番に対応)
(4) 自由になれる時間は、近所の公園のベンチでぼうっとして過ごす。午後三時の公園には子ども連れのママとか、幸せそうな人達が集まっていて、わたしは自分の気を逸らすようにスマホの画面に集中する。通販サイトの広告。変なクッションの写真で紛らわす。そうだ、これを買おうとしているつもりになろう。顔なんて上げたくない。(クッションを精神的な緩衝材としての暗喩と解釈した)
(5) くちを開いてる画像に文字が書かれていると、まるでそう言ってるみたいにみえる。でもそれが信じられない。信じちゃいけない。だって画像と文字が組み合わさってるだけじゃないか。相手がほんとうは何を考えているかなんてわかったもんじゃない。(3番と6番と16番に対応)
(6) 加湿器の水は冷たそうで、でもほんとうは冷たくないのかもしれない。確かめてみないとわからない。実際に触れてみる。ちゃんと冷たい。だから加湿器の水は信じていい。(5番に対応)
(7) 父がなかなか眠ってくれない。だから介護しているわたしまで起きてなきゃいけない。真夜中に2時間も。夢をみることもできない現実に生きているわたし。
(8) 欲しいものはたくさんある。それらは広告のかたちで目の前に現れてわたしを誘惑する。けれど、手に入れられるような余裕なんてないから、ぜんぶ無視するしかない。ヌテラは広告で何度もみた。だからよく知っているような気がしてくる。ほんとうは匂いすら嗅いだことないのに。(4番と18番に対応)
(9) 朝の8時、父をデイサービスに見送る時間だ。「忘れ物してない?」と声を掛ける。白いベランダがわたしを誘惑する。だってほら、父の背中を押せば、わたしは自由になれる。
(10) わたしはもう自由だ。好きなところに出掛けることだってできる。でも、さすがに交番のまえを通るのは怖いなあ。そうだ、アリバイ。アリバイも作っておかなきゃ。例えば写真で。自撮りだけど十分でしょ。
(11) わたしはもう自由だ。仲の良い先輩を家に招待することもできる。玄関に入った先輩が寒そうに肩を抱いたのに気付く。わたしは適当な言葉でごまかそうとする。(実は家のなかに父親が遺棄されている)
(12) やっと夜も眠れる。夢だってみるようになった。でも、昨晩のは悪い夢で、まるで誰かにすがりつかれているような……。もしかして、お父さん?(7番に対応)
(13) ショッピングセンターとかで吹き抜けを見下ろすと、落下していく父親の身体を思い出す。落っこちるってどんな感じなんだろう。
(14) まだ父の身体は家にしまってある。家にいるとまだ父と一緒にいるみたいに感じる。それが嫌で、だから最近は気付けば一日中ずっと公園のベンチにいるようになった。以前と同じ時間の過ごし方してる。さっきまで昼だったのに、もう夕暮れが近い。そこに先輩がやってくる。わたしは先輩にほんとうのことを言えなくて、またごまかすような返事しかできない。(4番に対応)
(15) 薄暗い路地裏を先輩と歩く。ふたつの自動販売機が明るくて、まるで先輩とわたしみたいに思える。
(16) 死んでしまいたいなと思って月を探したけれど、マンションに隠れてて見えなかった。となりで先輩が困ったように笑ってる。そうか、わたしは笑えてないんだ。愛想笑いすらできなくなったんだ。(3番と5番に対応)
(17) 父を突き落としたとき、その下は雨水タンクだった。雨水タンクの横を通るたび、わたしはその瞬間を思い出す。
(18) 最近はまた線路に飛び込むことも考えたりする。電車の駅をぶらついていると、薬物乱用防止啓発ポスターまでが何かの広告みたいに見えてくる。(1番と8番に対応)
(19) 住宅地のなかに空き地を見つけた。父の死体を埋めるなら此処も候補になるのかな。でもセイタカアワダチソウが生えてる。埋めたあとにこれが増えたら埋めたのばれちゃうな。とりあえず一本でもいいから折っておこうかな。(セイタカアワダチソウは動物の死骸を栄養にして育つ)
(20) エリンギをみると、父の死体を思い出す。だから冷蔵庫のエリンギも使えずにいる。思い出すだけで眩暈がする。エリンギは冷蔵庫のなかでゆっくり腐っていく。ずっとこの家に置いてあった父の身体みたいに。
(21) 夜、眠ることができるのはまだ人生に未練があるからだろう。もう少しだけ自分の時間を生きていよう。もういいよ、って思えるそのときまで。(7番および1番に対応)
 以上のような解釈が作者の意図していたものではない可能性を十分に承知したうえで、それでも私はこの短歌21首が非常に豊かなイメージを含んでいると感じた(あれこれ想像するのが楽しかったです)。

・「終わりについて」(北野勇作)1点
 本作はメタフィクション的な三層の入れ子構造(テントで行われる劇中劇/登場人物らが存在している小説内世界/読者である私が読んでいる小説の文章)なっていて、お話が終わるところでお話が終わる。以上は私の読解ではなく、作中にそう書かれているので誤読ではないだろう。
 冒頭から幻想的な光景が展開されていくのだが、ひたすらに抽象的な語りが続くせいで読者は「目的地では何が待ち構えているのか」「彼らはなぜ目的地へ向かっているのか」といった疑問の答えを求めてページをめくることになる。やがてテントが登場し、いよいよ何かが明らかになるぞと読者が身構えたところで「そして最後に巨人が登場する」の一文。嫌な予感がする。ひょっとしたらこれはこのまま終わるのでは。悪い予想が裏切られることを期待しながら読み進めていく。そして反復される「そして最後に巨人が登場する」の一文。嫌な予感が確信へと変わる。もしもこれが紙の本であったなら私は物理的に放り投げていたと思う。「はいこれはお話のなかの世界のお話で、お話が終わったのでお話は終わりです」と、それだけで満足できるわけがない。あるいは、もしもこれが「そして最後にウルトラマンが登場する」だったなら笑って済ませられたかもしれない。
 ジャッジの義務を果たすべく念入りに読み返したが、解釈が深まったわけでもなく、やはり作中にそのままそう書かれているとおりに読むことしかできなかった。小説内世界に生きている虚人たちが、読者が文章を読み進めるのと平行して役柄を演じ(彼らは内面も小説の本文=台本に支配されているようなので「役柄を演じている」という表現は正しくない。「役柄を生きている」が正しい)、締めくくりにテントの劇中劇が終わる(巨人が登場すると舞台の女が言う)と、虚人らの暮らす小説内世界でも終わりが示され(実際にテントから巨人が登場する)、最終的にこの小説の文章が終わりを迎える(「そして最後に巨人が登場する」と小説の本文に書かれている)ことで小説内世界は閉じられ、虚人たちは初期状態である冒頭の文章へと帰っていく。まあ確かに虚人らにとっては読者が小説を読み返すたびに墓参りさせられているようなものかもな、とか考えて妙に納得させられそうにはなるのだが、じゃあ「巨人」って一体何なのさ! もしくは題名が「終わりに関して」と「終わりに到着して」のダブルミーニングとしても読めるように、「巨人」と「虚人」を掛けたギャグの可能性も探ってはみたが、さすがに無理があると断念した。
 また、本作最大の魅力として幻想的な場面の連続が挙げられると思うが、地面がアスファルト以外の何なのかもわからない状態で並べられた単語たちの喚起してくれるイメージは、作品が与えているというよりはむしろ読者側で補完している部分が大きく、好意的に評価することはできなかった。
 最後に、本作は文字で読ませる形式に不向きであるように感じた。もしもこれが朗読会の一幕として、朱色の布のテントを張り、女性の声で読み上げられたとしたら、まるで異なった印象になったはずだろう。もちろん最後には本物の巨人に登場してもらう必要が出てくるわけだけれど。

・「王の夢」(西山アオ)2点
 金具だからキング。おそらくは金具のほうが本名か。主人公を本名で呼んでくれるのは、夢のなかの少女くらいなようだ。主人公の魂はかつて恋した少女と共に夢のなかを生きていて、キングとして暮らす現実の景色は夢以下のものとして描かれる。夢と現実、金具とキングはある種の対称な関係にある。少女と共に生きる夢と、皆に蔑まされながらも町で暮らす日々。一体そのどちらが主人公にとっての現実なのだろう。等と『胡蝶の夢』のような構図を思い描いてみて、そういえば本作の題名もそんな感じであることに気付く(ジョークなので聞きながしてください)。もちろん本作のキングは人生への後悔や、有り得たかも知れない可能性への未練をひきずっているので、件の説話のような思想はそこにない。あるのはキング(王)という呼び名とは程遠い等身大のみじめさと、現実逃避の虚しさだけである。あるいはまるで件の説話など戯言に過ぎないと、そう反論しているかのようですらある。
 名前を「キング」と提示することで主人公を異質かつ正体不明な存在と読者に意識させ、「キングとは何者なのか」といった具合に好奇心を刺激し、作品の先を促す仕組みは成功しているように思う。しかし、読者としてそれ以上の感情は刺激されなかった。申し訳ない。

・「死にたみ温泉」(津早原晶子)3点
 わかりみが深いと理解を共有できて友達が出来たりするが、死にたみが深いと深すぎて温泉が湧き出るらしい。生者を呪い殺そうとするタイプの幽霊が主人公で、なげやりなんだか健気なんだかよくわからないスタイルでもって自殺のアドバイスをしてくれる(相手には聞こえてないけど)。自殺させて幽霊仲間でも増やすのかと思いきやそうではなく、生者が死を決心した瞬間に強く意識されるであろう生の感覚とやらを共有したくてやっているのだという。わかりみ自殺幇助である。
 それにしてもこの幽霊がほんとうに可愛いのである。キモいと可愛いを足したキモカワイイという表現があるけれど、本作の幽霊は言うなればコワカワイイ(怖い+可愛い)だろうか。まず「怖い」という側面が見せかけの個性ではなく、ちゃんと怖い。人生の疲れた瞬間にふと訪れる死への誘惑が、かなりの再現度でもって言語化されている。怖がらせようとして怖くしてあるのではなく、危険な声が危険な声のまま描かれている。ところが、それがなんとも可愛い。「可愛い」とは本来、庇護欲を誘われるほどのか弱い対象に向けて抱かれる感覚であり、相手を呪い殺そうとするこの幽霊に「可愛い」と感じるのはおかしなことのはずだ。なので、そこを「可愛い」と感じさせてしまうところに本作の巧みさがある。恐ろしい幽霊がどうして可愛く思えてしまうのか。それは、この幽霊がすでにすべてを失っているキャラクターだからだ。作中では仄めかされている程度だが、この幽霊は、人生に絶望し手首を切って水風呂に浸かりながら息絶えた人物の死後の姿なのだろう(死にたみ温泉のぬるま湯加減はこれに由来していると思われる)。ようするに、同情を誘うのである。もちろん妙に俗世間慣れした振る舞いや、生者に投げかけられるいじけたような態度にはあどけなさも含まれていて、そういった演出の積み重ねが功を奏しているのは言うまでもない。けれど何より、このキャラクターが同情を誘い、共感のちからによって読者の懐に入り込めるような形態としての「可愛い」を獲得している点は優れており、そしてその「可愛さ」ゆえに心の内側へと接近が許されてしまうからこそ「怖さ」が強調されるのである。同情されるべき亡者としての属性と、生者を呪い殺そうとする恐ろしい亡霊としての属性、それらふたつを接続したこの「コワカワイイ」を生み出したことを素直に称賛したい。
 最後に、本作に対しては希死念慮のささやきを扱ったことへの批判が避けて通れないだろうから、それについて擁護しておきたい。死への誘惑は人間の普遍的な感性のひとつだ。その感性を、以上のようなひとつのキャラクターとして客体化し、自身の心から切り離せる方法を見つけておくことは、結果として有効な対処法になり得ると私は考える。だから何でも許されるという理屈には当然ならないが、功罪どちらも備えた作品はすでに世に溢れている。

■まとめ
「日記」(たそかれを)3点
「サトゥルヌスの子ら」(冬乃くじ)4点※勝ち抜け
「予定地」(由井堰)3点
「終わりについて」(北野勇作)1点
「王の夢」(西山アオ)2点
「死にたみ温泉」(津早原晶子)3点
笛宮ヱリ子


笛宮ヱリ子


「日記」たそかれを
1エピソード勝負のフラッシュフィクションに挑んだ佳作。「日記」という表題だが、「忙しくて全然話せてなかったからここに書く」「あとで読んで」などの表現から、交換日記と類推される。蒐集家であれば垂涎の高級紙に抱く感慨の違和が、草創期の夫婦関係にいとも簡単に取返しのつかないほつれを生んでしまう。一見他愛ないが説明のつかない、パーソナルかつ致命的な生理的違和を、紙の手触りに託してシンボリックに描く。主人公の人生に青天の霹靂を運んできた件の領収書が、時を経て前触れもなく空から降ってくる構成に、長い時間軸での重層と奥行きがある。主人公の恬淡とした口調はラストに向かうほどに飄逸味があり、苦い体験から意図せずに老練な成長を遂げてしまった主人公の軌跡を見る思いで読んだ。
惜しいのは、6枚で仕上げなければならないのではという迷いが潜在的にあったかと邪推される痕跡が、いくつか残存している点だ。まだ彫琢を期待できると思うので、確信犯でフラッシュフィクションに仕立てて欲しい。

「サトゥルヌスの子ら」冬乃くじ (★勝ち抜け)
娘という一つの舞台から降りる解放の表象として見事な冒頭。断絶期を経てピアノとの邂逅、手の顕現へと続くマジックリアリズムは、本作において技巧的な魅力のみならず、作品テーマを射抜くための野心的かつ代替不能の技法だと思った。
中盤、フェデラー、ショパン、ベートーヴェン、ラフマニノフへと演奏手の転変がもたらす文体の律の疾走感は、審美的な快楽よりも演奏技師とも呼ぶべき佳寿子の職工的目線で観察される。魔術的な美しさを持つ幻想領域を、佳寿子の冷静さという閾値の点描で封じ込めながら、幻想と現実が吸気と呼気のようにリズム良く錯綜してゆく。やがて、意を決して沼にはまりにゆくように、家族の秘密へと降りる。この文体の呼吸から最後、父に喰らわれた姉の息遣いへと誘われる流れそのものもまた、音楽的な律を帯びており、再読への欲求は「再聴」への欲求にも似る。
 父の手が顕れたとき、佳寿子は「見た瞬間、思わず怯んで手が止ま」る。ここからラストまで、手は強い意思で鍵盤を走り、その音が耳にかき鳴らされ、憤怒、敗北、愛の枯渇、憐憫、後悔など、半世紀以上に渡るあらゆる感情が旋律に刺繍されてゆくような読み心地に、眩暈を覚える。佳寿子が細い細い糸を辿るように姉の音楽の持つ息遣いを拾いあげたとき、姉は「まだあたたかい。甘いにおいがする」。ラストの生の描写がもたらす小さな希望は、強権に倒れてきた全ての誰かに一縷の救いをもたらすだろう。サトゥルヌスの子らにもまだ「生命は在る」とする結末は、文芸が背負うべき使命でもあると私は考える。勝ち抜けとする。

「予定地」由井堰
冒頭、吸う息で鎖骨が締まる感覚。息の振動と振動の圧を受け止めた骨格に、電車の連結部を成す蛇腹の質感を想起する。幼い頃に遊んだ玩具の電車の蛇腹かもしれないし、電車の蛇腹に触ってみたいという欲求から、かつて心の中でその触覚を作り出したのかもしれないし、ほんとうに触ったのかもしれない。感覚は首全体で終始内側に閉じたまま、下の句でその内側の別の場所へ切り拓かれてゆく変化に、なぜか植物が人知れず若葉を出したり蕾を膨らませたりといった小さな変化を迎えるさまを、私は思い描いてしまった。
「ワイン蔵みたいでしょ、~」の一首は、台詞そのものだ。しかし、この言葉が短歌として差し出されたとき、凄まじい映像喚起力を持つ。たとえば、発話者と初めての来客の間にとある不協和が流れていて、会話は常に覚束ない。ひとしきり盛り上がらない会話を終えて小さな間ができたとき、もう相手からの返答を期待しないまま、独り言の要素を持って不意にこの台詞を言う。会話は宙に浮いたまま、しかし、不協和に対する肯定と慣れがかすかに生まれる。会話の主は誰だろうか。読み手の中では、それぞれの映画がはじまってしまうだろう。
この連作の描き出す「予定地」は、ターミナル駅に立つビルやマンションの広大なそれではなく、民家や商店街の狭間にぽつんと穿たれ、角と直線でそのかたちを余儀なく規定されたささやかな空白地だと思う。場合によっては少し荒廃していたりするけれど、受け入れたりやり過ごしたりできる程度にはダイジョウブな場所。そして、新しく別の何かで埋まってしまえば、ああそうかとすぐに忘れてもいい。それは、通り過ぎるたびに、潜在意識あるいは意識のもとに「在る」と自覚されるけれど、明確な認知は実感されない身体感覚や心性に似る。そういった偏在する不在感、確からしいものへ未だ変遷しない未分化な個人内の空隙を日常に見出し、白い紙の上に慎重に標本化してゆく著者の感性に息を呑んだ。空隙が「予定地」だからこそ、余韻に描かれる映像や感覚は「未来」であり、私たち読者はそれぞれの未来を持ち帰る。

「終わりについて」北野勇作
「終わり」なるものへと収斂してゆく世界を黙説に託して美しく描出した作品。移動する人々の間隙にたゆたうように在る群衆心理や、星との決別が表象する激しい絶望に静かな眠りを与えてゆくような諦念には、俗物的な現実が暗喩されており、アレゴリとしての「終わり」とは何かを語り手から繰り返し問われるような読み心地である。
後半、舞台への到達からその問いは難解になる。テントの背景となる夜空には、(星が)「真上にひとつだけあるのを見つけ」ることができる。「そして最後に巨人が登場する」。このセリフを女が言うと、テントの中から巨人が登場し、世界の終わりをわからせるために大きな身体で立ち尽くす。語り手はこの流れに既視感を持ち、だから自身も演者のひとりであると確信して、「なにも終わってはいないがここで終わりであることを知っている」と言う。語り手の体験は実は語り手が見ている夢の体験であるかのような夢幻に投げ出され、読者としては惑いの中に放り出されたような所在なさが残った。「終わりについて」の問いの答えをこの舞台に求めることを真とするならば、作品世界は未完であると読めるのかもしれない。しかしこの「所在なさ」という読後の居場所もまた、作品世界の質感と何ら乖離ない場所に存在するために、作品前半から後半への転換を読者は語り手の影となって体感し、命題は余韻として胸に沈む。読者は「終わりの続き」を持ち帰り、作品世界はいつまでも胸に残ってゆく。
「サトゥルヌスの子ら」と本作で勝ち抜けを最後まで迷ったが、本作のこの読後の霧散感と「サトゥルヌスの子ら」の着地感がもたらす強度の差が、最終的は決め手となった。この結論で良かったのかは、まだわからない。

「王の夢」西山アオ
徹底した韜晦と自己否定が生み出す幻視のような「亜日常」を内面から描き出す怪作。キングは罵詈雑言、悪態、嘲笑など、あらゆる不快を浴びながら、それらを他責しない。「ぶっ殺すぞ、俺」と叫ぶ。この描写から、読者はキングもろとも、彼が浴びた憎悪を外側に放出する術を失い、汚泥を溜め込まされることになる。序盤に、この鬱積をテンポよく読者に飲ませてしまう著者の手つきに感嘆と悲鳴を覚える。
汚物を投げつけられるかのような差別に満ちた外界を闊歩するキングの日常から私が想起するのは、しかし、斜陽の先進国に住む控えめな一独身男性の姿でしかない。休日には商店街を抜けてひいきの映画館に通い、その帰りに地域の図書館に立ち寄る。こまめに自炊して簡素な食事をし、ラジオやネットサーフィンを安価に楽しむ。被搾取的な労働を余儀なくされ、心身の疲弊は限界寸前だ。そんな彼が、夜には憧れだった女性を夢に見る。「金具君、二十年後、私たちは何をやっているんだろうね。」女性には奥手のキングに、「ちゃんとした大学を卒業して、ちゃんとした仕事についていたならば」という旧態依然とした男性強者像が追い打ちのように圧し掛かる。社会から大切にされれば教養深く品行方正でしかなかったであろうキングは、毎夜ネット上で怒りをぶちまける。社会から大切にされていないから、である。
「キング」という呼称は、「負の王者」から転じて無敵のひとを思わせる。「我は王者である」の対局に「ぶっ殺すぞ、俺」はある。夢の中でだけ、彼は「金具くん」と漢字で呼ばれる。金具、きんぐ、かなぐ、金属製の付属品。それでも、漢字にくん付けで呼ばれる彼は、正味の素朴な形を成している。
キングの静かな日常に両義性を持たせ、もはや忍耐の限界を超えた生身の一男性の叫びを、真正面から描いた作品と読んだ。言葉の技巧によって掘り出された人間のかたちが、苦しいほどにリアルに立ち上った。評者の立場を離れ、六作品の中で最も平静ではいられない読書体験だった。

「死にたみ温泉」津早原晶子
独特のゆるさとおかしみが宿る現代実装版の怪談小説。幽霊側の一人称で語られる氷結レモンののど越しや血液の煩わしさなど、序盤の細やかな感覚描写が愉快。幽霊が自身の恨み節に近い人のいる場所に化けて出る、そして人をじぶんの側へ誘う。この古典的な枠組みをひと捻りしたいと思うとき、幽霊側の一人称は頻繁に試みられるのだろうが、序盤でその個性を立体化させているために作品世界は早々に唯一無二になる。
軽妙な筆致ながら奔流のテーマは死の淵にあり、事態は深刻だ。ターゲットとなったその人の声は、絶望の穴から聞こえる。そして、この程度の繰り言は誰しも覚えがあろうと思える、リアリティある泣き言を吐く。幽霊はしびれを切らして、絶望の穴を拡張すべく掘り進む。すると温泉が湧き出て、その人は浸かったまま死ねない程度にカッターナイフで自傷する。この中盤まではある意味均質で、おかしみが優位である。
しかしこの温泉でその人は死なず別の場所であっさり境界を超えるところに、ストーリーラインの妙がある。この時点から幽霊は、「その人」の存在を純粋に乞い、絶望の穴を心地よい温泉にさえ変えてしまった「生の伴走者」へと逆行的に転じる。「泣き顔をたくさん見せてくれて、ありがとうね。寄り添わせてくれてありがとうね。」という台詞は、最も苦しい局面を共に知った者だからこそのあたたかく素直な追悼であり、何とも悲しい。
消え入る直前まで幽霊はマイペースに個性を貫き、人の運命もまたその人のペースで変遷してゆく。終盤の絶妙なずらしが、「死の温泉」には決してならない「死にたみ温泉」の着地点であり、愛の余韻すら残す。この形容しがたい優しさはこの世の言葉でうまく言い表せず、やはり幽霊のそれなのだと思い知るのもまた奇妙な俯瞰であり、おかしみの妙技だと思う。

「日記」たそかれを         3点
「サトゥルヌスの子ら」冬乃くじ  5点★(勝ち抜け)
「予定地」由井堰  4点
「終わりについて」北野勇作   5点
「王の夢」西山アオ         4点
「死にたみ温泉」津早原晶子   4点

*点数評価は勝ち抜け候補作を満点としています。
点差は基本的に、直観での評価です。直観とは何とも理不尽と思われるかもしれませんが、言語化・尺度化しきれないエッセンスを置き去りにしないのが直観であり、文芸評価には馴染むとも思っています。
しかし、申し分のない慧眼の持ち主でない限り、直観での評価には理不尽が付きまとうのも事実。それでも、慧眼のない人物が尺度を明示したところで、どのみちその尺度は理不尽でしょうから、結局ここはわたし自身の慧眼が問われる場であることに変わりないのかもしれません。
点数評価に“強いて言語化できそうな点の言語化”を試みるならば、「日記」は上記に述べた表現上の問題、「予定地」は連作として読んだ場合に、各首の佇まいの良さを際立たせるための秩序がやや弱いかと感じた点、「王の夢」と「死にたみ温泉」は勝ち抜け候補作に比して作品として劣るとは思わないが、テーマと設定に持たせられる意味付けの広狭差が決め手になったのかもしれません。どうか殴り返してください…!

虹ノ先だりあ


ジャッジ説明
 はーい虹ノ先だりあです(はぁと)。Dグループのかわいい作品をジャッジします。終末かわいい作品や、生き延びかわいい作品がありました。かわいいに優劣をつけるなんてかわいくないかもしれません……。でもこれはBFC、優劣をつけ順位を明確にすることがBFCをBFCたらしめる。ゆえにジャッジとしてそれを全うする。
 グループ内相対評価で順位を決め、トップに4点、以下順位が下がるごとに1点ずつ得点を引いた。今回は5点を出せなかった。
 ジャッジの姿勢については応募文に記したが、所謂かわいいものが勝ちではない、というのは誤解のないよう繰り返しておく。森羅万象を束ねて比較する行為、その無理を通せる言葉が、金森まりあが発した特殊言語としての「かわいい」である。この言葉の強さがなければジャッジはできなかった。

ジャッジ(作品順)
たそかれを 「日記」
 1枚の紙の非日常的な出現から広がる語りの展開が鮮やかだ。一方で、妙な点が目につく。日記といいつつ、日記でも交換日記でもない。固有名詞は当然存在しないものだし、マーセルというのも調べた限りでは作中の説明と特性が異なるようだ。フィクションの中に仕込んだ嘘で遊んでいる。ラスト近くで適当な語り口になり最後に放り出すのは、謎解き(解けないようだが)に誘っているようでもあり、即興話の続きが思いつかなくなって雑に終わらせたようでもある。2人の作者が段落ごとに交互に書いたようにさえ感じる。誰そ彼と名乗る作者の作品としてこの不確かさはよい。日記なのに日記ではない冒頭を「これはホラ話だけど」という目配せとして受け、軽やかに読むのが1番心地よいようだ。一方でそのホラ吹きぶりを楽しむにしては投げ出し方が弱く、読み方に迷う設計の甘さがある。短さの度胸かわいい1点です。

冬乃くじ 「サトゥルヌスの子ら」
 母と姉、二人の死者との再会は憎むべき父の行為によって思わぬ形で主人公に訪れた。このねじれの中で、姉の救出が主人公自身の救済を示唆して終わり、呪いと憎しみの中で生き延びることを描いたと読んだ。作品を支える手の変化は、演奏者の資格を失った主人公が引き換えに得た力かもしれない。事故による音楽の能力は姉妹に共通し、それが利用されるか、自分と他者のためにあるかという対比がある。偉大な作曲家たちの手で弾くのを楽しむ様子は、主人公が解放されたようでありつつ、しかし父の悪しき行為によって、この作曲家たちも信用できなくなる。このように、流れるような書き味とは裏腹にねじれた背景を持つ作品である。しかし、丁寧に書かれた部分と端折られた部分のバランスが気になった。姉の事故と壊れた脳、そこに生まれた音楽の利用という大きな部分の描写が少なく、意図的としても、そのせいで余計な読みが介入する隙ができている。サトゥルヌスに重ねられた父は地位のために家族に害をなす存在のはずだ(タイトルの「子ら」がそれを補強している)。しかし父と母に合意があった可能性、子供の死をうけて子供が作った曲を織り込んだ可能性を、描写の不足により排除できない。また、神話にどこまで重ねてよいかも判断に迷う。父が殺したのか。子供のすり替えが反映されているのか。こういった開かれた読みを歓迎する仕掛けというよりは、処理不足の面が強いと思われる。父親を引き裂きかわいい2点です。

由井堰 「予定地」
 大きく2つの軸で作品がまとめられているという見方で読んだ。一つは主人公の生活、もう一つは時間により失われるものについてである。その2つが重なった歌として、タイトルがとられた「家々に挟まるここも予定地で セイタカアワダチソウを折りとる」がある。生活圏でふと見つけた空間、そこに含まれる決定された未来。折りとったのは運命を先取りしたようでもあるし、そこから逃がしたようでもある。あるいは自分を重ねたか。21首中3首が眠りを描いており、描写から慢性的なつらさを抱えているのが読み取れる。「薬物乱用防止啓発ポスターの大麻がいちばん鮮やかな駅」の皮肉さの一方で、「弟がひとにスタンプを送るときおんなじ顔をしててやさしい」という穏やかさもあるのが救いか。しかし時間の経過は何かを奪っていく。「長椅子の影はかかとに伸びてきて」日が沈む中で本当に言うべき言葉は失われ、「エリンギの口になれずに5日経つ」ために食材は傷む。だが「いつまでも父の痛みを記憶する 雨水タンクまだそこにある」という物に宿る記憶、「忘れものしてない? 白いベランダの奥行き 午前八時の筋雲」というフラッシュバックが、かつてあった一瞬は失われていないことを示す。「広告の無視し方とかは知ってる ヌテラの味は知らない」課金はせず、丁寧な暮らしからも遠いが生活は続く。どうにか眠りながら。うっすら漂う死の気配と共にそれでもまだ生きてるかわいい4点です。

北野勇作 「終わりについて」
 終わりの旅路だけでなく、最果ての舞台で終わりの終わりが入れ子になるまでを描ききった。語りの技術が抜きん出ており、積み重ねられる言葉と語りのリズム、事象を眺める主人公の視点により徹底して描かれる茫洋とした世界は、終わりというのはたしかにこういう姿をとってやってくるのかもしれないと思わせるものになっている。墓参りの空のくだりが印象深く、不確かさの感覚が伝わってくる。「そして最後に巨人が登場する。」の一文が効果的だ。地の文として読んでしまったあとでセリフだったとわかる戸惑う構成により、今までの体験が舞台の上で行われたことだったのかという主人公の戸惑いと、読者の感覚が重なる。繰り返される「そして最後に巨人が登場する。」が終わりへの予感を高めていく一方、その象徴的な巨人のディテールがないのは疑問に思う。ただ、台本上のことでしかないというのと、繰り返される芝居の中で揺らいでいる可能性、終わりに何も残らないというのを踏まえれば、ディテールのなさに納得はできる。そもそも巨人だけでなくすべてがディテールを欠いているのだから。それが終わりの世界なのだ。終わりが終わりの終わりかわいい4点です。

西山アオ 「王の夢」
 不浄や怨念を背負った主人公の独自の生態と、読者に共通する日常を混ぜ合わせ、生活を焦点として描いた。キングの自分への殺害予告や、人間の住む土地には必ず埋まっている怨念についてなど、出だしは異質さが目をひく。後半、金具くんがキングとなる分水嶺であろう少女とのエピソードは、作品に一貫している距離感によって安っぽくならず、素直に胸に迫るものとなっている。キングという通り名と本名の気の抜けた感じの対比が印象的で、現在のキングとの隔たりが一層はっきりとしている。テンプレ的なうまく行かない人生の経緯を軽く流した選択がよい。この姿勢は一貫しており、キングが社会へ抱く思いを描写しないことにも繋がっている。それよりも彼の文化的な生活や、美しい過去に囚われていることに描写を割いたことで、関わりたくない存在が実は読者に近しいのだと突き付けている。そのために予想外の展開はないのだが、書ききった作者の力量がうかがえた。キングは何にとっての王かを読み解くことはできない。ただの名前にすぎないのかもしれない。だがたとえば、土地の怨念、人々の嫌悪や悪意という、負のものたちの王なのかもしれない。よく眠ってほしいと思う。あのとき何かを言えていたならかわいい3点です。

津早原晶子 「死にたみ温泉」
 絶望の穴を掘ることと温泉掘りを繋いだのがよい。タイトルのキャッチーさはグループで1番だろう。ストロングゼロを気にしながら自殺の観察を楽しみ、自分勝手に死者を増やそうとし、穴掘りが自殺に効果があったかあやふやだが湯が湧いてきて、そんな感じで数ヶ月過ぎるという、終始まぁまぁひどくてちょっと笑ってしまう感じが漂っている。しかし死の話であり、傷の描写もあって微妙に笑えない。そういったバランスが暗くてぬるい温泉の心地に通じている。主人公が血まみれで缶を開けるのに手間取るユーモアや、トナカイのツノで死んでいるのに肉欲に火がつくこと、自殺予定者と過ごして満足を得ようとする身勝手さなどはキャラクターの魅力だろう。急な飛び降りや、成立していなかった会話はアクセントとしてよい。月が変わるごとの言い回しには冴えているものと今一つなものが混在しており、また、半年間も経過させたことの意義もあまりないように思えた。絶望の穴で温泉を開業するヤバさがあっさりしているのは仕方のないところか。それもぬるま湯加減ではあるが、ぬるいまま終わってしまったとも思う。アルコール度数今さら気にしすぎかわいい1点です。

勝ち点
由井堰 「予定地」 に勝ち点をつけます。


白髪くくる


感想基準
 小説は作品全体を九つの作品内要素と、一つの作品を超えた要素で見ていく。前記の九要素は要素ごとに0点0.25点0.5点0.75点の四段階で点数を付け、最後の要素のみ、0点0.25点0.5点の三段階で点数を付けた。その合計を足し7.25点満点で得点を算出し、小数点第一位を四捨五入し実際の点数とする。
 満点が5点を超えているのは、満遍なく全要素優秀な作品だけでなく尖った作品を選出する余地を残すためであり、そのため0.75点は特に優れていると思えた要素にのみ付与する。
 要素は以下の通り。印象部門三要素『読後の余韻』『展開の驚き』『鮮烈さ』題材部門三要素『着眼点』『題材と作品の結びつき』『着地点』表現部門三要素『言葉選びの妙』『わかりやすさ』『心地よさ・気持ち悪さ』最終要素『次を読みたいか』

 短歌は歌単体だけでなく、全体の繋がりも重視したいため、歌ごとに八要素で四段階により点数付けて平均点を算出。最後に全体要素で四段階、作品を超えた要素で三段階の点数付けをし、算出された7.25点満点をもとに同様に得点を出す。
 要素は以下の通り。印象部門三要素『読後の余韻』『鮮烈さ』『展開の驚き』題材部門二要素『着眼点』『着地点』表現部門三要素『言葉選びの妙』『心地よさ・気持ち悪さ』『広がり』全体要素『歌同士の繋がり』最終要素『次を読みたいか』

『日記』たそかれを
 2点(印0.75題0.5表1/終0→2.25)
 日常の風景に降ってくるものとして、レシートを選んだセンスが素敵だ。レシートは基本的に高い位置から降ってくるものではないので、この選択が作品にほのかな非日常を付与している。日記の書き手の性格が語り口に表れているのも、日記の実在感を増している。
 ただ交換日記なのだろうとは推測した上で、この書き手がどのような存在に向けて日記を書いているのか、手がかりをもう少し示してほしいと感じた。最後に『知らんけど』と放り投げてしまう辺りも余韻をそぐ。作品全体を覆うどうでもいい話感は一種の味だが、書き手がどういう心情で『あとで読んで』と要請したのか疑問が残るため、書き手の性格や関係性をもっと知りたくなった。

『サトゥルヌスの子ら』冬乃くじ
 5点(印1.25題2表1.25/終0.5→5)選出作
 農耕神サトゥルヌスはギリシャ・ローマ神話における神々の王だ。サトゥルヌスは『将来、自分の子に権力を奪われる』という預言をうけて、自らの子(ハデスやポセイドン等)を次々と呑み込むが、末っ子のゼウスだけは母レアーの助けでこれを逃れる。密かに育てられたゼウスは腹の中の兄弟を救出。サトゥルヌス陣営とゼウス陣営による天界を二分する戦争が勃発し、最終的にゼウス陣営が勝利する。この逸話をもとに本作を見ていくと、本作が力強さと明るさを秘めた作品だとわかる。
 本作に登場する父は、母と姉の作った曲を奪い自らの作品として発表することで自身の権威を高める一方で、主人公の佳寿子のことを抑圧してきた存在だと見て取れる。
 本作では最後に父は腹を割かれ、腹の中の姉は救出される。これは帝王切開をイメージした姉の再誕の場面であると同時に、前述の神々の救出の逸話と繋がっており、佳寿子と姉がこれから、父や父の背負う価値観である男性主体の権威主義的思想、父権を背景にした独裁を打ち倒していくことを予感させる。本作は革命を歌う一作であり、最終盤にて物語と題名が綺麗に呼応する。それを踏まえると、『サトゥルヌスの子ら』という題名は『ら』により、作中現実で生存している佳寿子だけでなく、父に消費された姉、作品外の似た境遇にあえぐ者たち全てに寄り添う広がりを持ってくる。
 作中で姉が事故で言葉を失っているのも興味深い。現実において、言語能力と音楽能力は脳内の異なる機構から発現するもので、失語症を発症した作曲家が交響曲を作曲した例が存在する。(注)また失語症患者の人間関係再構築が音楽療法で促されたという症例も報告されている。
 本作品内では言語を失い一種の孤立状態である姉と佳寿子が音楽、曲をなぞる指の動きで心を通わせあう。ここでは音楽とそれに付随する身体動作が言語に依らない連帯手段として示されており、この作品が音楽を題材とした必然性がうかがえる。手が変化するという奇想もただの奇想で終わらず、手の形や腕の長さが曲の得手不得手に直結するピアニストという職業と符合したうえで、終盤の指の動きのシーンにまで繋がっていく。
 作中に出てくる音楽『ホルベアの時代』は実際に他のピアノ曲より遙かに腕の交差を多用する曲だ。曲の特徴をしっかりと抑えた上でわかりやすく表現し、曲を聴いたことない者にも、文章のみでイメージを伝えられているのは見事。
 後半、父の曲を弾きはじめてからの佳寿子の感情や独白を説明過多に感じ、読んでいて少し詰まってしまったが、深読みに耐えうる作品の強度は随一であり、文章内に散りばめられた手がかりを拾っていけば答えてくれる楽しさが素晴らしい信頼できる一作だった。本作を選出作とする。
 注釈 言語能力と音楽能力を司る脳の部位については諸説あり未だはっきりしていないが、評者自身は両者に関連はあるものの、根本的な働き自体は異なる部位から発現しているという説に依っている。
 参考文献
 呉茂一、ギリシア神話(上)、新潮社
河村満、失音楽 表出面の障害について、音声言語医学37
 前田キヨ子、失語症と認知症における音楽療法の実際、高次脳機能研究第34巻2号

『予定地』由井堰
 4点(印1.1題0.8表1/全0.5終0→3.5)
 歌ごとで好みの差異が大きかった。簡潔に全首見ていくことにする。
 一首め、鎖骨と電車の飛躍は面白いが、電車に至る納得感が薄かった。
 二首め、『相づちを打つ』から『言葉をしまう』への変化と、立ち尽くしている雰囲気が良い。
 三首め、着眼点は面白いが「同じ顔をしている」→優しいが読み切れず、接続の意外性も薄く感じた。
 四首め、変なクッション→公園のノイズの接続の必然性が読み切れず納得感を得られなかった。上の句は好き。
 五首め、繰り返しの技法は面白いが、それ自体に新規性はなく、技法を超えた意味づけや深みを見いだせなかった。
 六首め、『見た目通りに冷たい真水』が鮮烈。加湿器にある真水は冷たくないことが多いので、生活風景が広がるのも素敵だ。
 七首め、『現実はあくまで義務』という思想が好み。下の句の接続も素敵で印象に残る歌だった。
 八首め、『予定地』を私は何らかの計画のために整備される消えゆく場所として受け取っている。その計画を実際的・合理的なものとして考えたとき、この歌で『広告の無視の仕方』という実際的な技能と『ヌテラの匂い』という非実際的なものが比較されているのが味わい深かった。上の句が五七五を崩した形なのも、その対比を強めているとしたら素敵だ。
 九首め、単語の連なりは好きだが接続の必然性が読み取りきれず、バラバラな印象を抱いてしまった。
 十首め、二十一首の中で単体では個人的に一番好きな歌。情景の描写の連続が交通案内に切り替わる鮮やかさが見事。駅前の情景が克明に浮かんでくる
 十一首め、ワイン蔵という比喩が好きだが、「」で括る意味を読み取りきれなかった
 十二首め、『重力』『這いつくばる』『腕』の連なりが好きで、実態はつかめない不気味なものとしての立ち上がりがよい
 十三首め、五七五七七に近い音を維持しつつ、漢字の連なりでは五五八八七とも読めるため、後半で言葉が凝縮されている。加速を感じられるのが良い。
 十四首め、夜が迫る様子を上の句で示し、時間が無いから『すぐに伝わる言葉』になる接続が素敵。
 十五首め、情景的に一番好きな歌。自販機だけを後半示すことで、周囲の暗さや静かさまで描き出すのが見事。
 十六首め、見えない月と先輩の様子で、詠み手の感情まで察せられるのが良い
 十七首め、『痛みを記憶する雨水タンク』という切り取りが独特。『まだ』により、過去から今にかけて実在が示されるのも効いている。
 十八首め、情景の切り取り方が魅力で、書かれていない駅の侘しさまで示されるのが素敵
 十九首め、この「も」が熱い。これによりそれまでの十八首も何らかの『予定地』であると感じられ、連作としてしっかりしたまとまりを作った歌
 二十首め、予定地として整備される=滅ぶことが示され、十九首と同じく全ての歌に独自の余韻を加えた歌と感じる。前半の切り取り方も好み。
 二十一首め、二十首をうけて滅びの文脈で読むと、単体の魅力を超える余韻を味わえた。
 歌ごとに語られた土地や生活が全体として滅びへと向かう。そのまとまり、背景の巨大なストーリーが魅力的な一作だった。
※実際の点数計算は表参照

『終わりについて』北野勇作
 5点(印1.5題1.25表1.5/終0.5→4.75)
 街灯のならぶ夜道、舞台上のテント、単語一つ一つは変哲もないのに、連なり描き出される情景の鮮やかさが抜群だった。星のない方角に歩くのを墓参りとする表現一つで、作中世界が現実と異なるものの見方の世界であると示してみせるのも巧みだ。路面電車を降りてからテントに至るまでの道のりが、芝居の中身としても描かることで、作品全体が最後に登場する巨人を終点としながら、無限に続く入れ子構造の世界となっている。構造の段階で六枚という原稿枚数を超えた深さの世界を作り上げているのは見事。世界の終わり方も『見上げ』『散開し』『何もない』という独創的なもので深い余韻を残している。
 ただ個人の好みの話になるが、世界観のための演出かつ作品の味とは理解した上で、何度も巨人が登場するくだりと、否定を合間に挟み行きつ戻りつを繰り返す表現が、立ち上がる世界観を超えてくどいと感じてしまった。作品世界の余白の広さ自体がこの作品の魅力ではあるが、より緻密に書き込まれたこの世界を読んでみたくなる。

『王の夢』西山アオ
 4点(印1題1.25表1/終0.25→3.5)
 キングは大学生であったろう二十歳の頃に行き詰まり、今は(キングの基準では)ちゃんとした仕事に就いていないらしい。生活の描写からからみえるキングは大学を中退しアルバイトで生計を立てている人間であり、休みでない日は多分風呂にも入り、貧乏暮らしだが自炊もしている。彼は表面的には社会の中できちんとした関係性を構築・維持できている人間だ。軽んじられてしかるべき人間など現実世界に一人もいてはならないが、その上で描写から見える彼の生活と周囲の彼へのふれ方がどうにもそぐわない。
 周囲の描写自体も気になる。図書館のシーンで周囲の人間はキングの悪臭に鼻を鳴らす。が、実際に悪臭が気になるならば離席すれば良い。他にも、風に乗ったキングの殺害予告を周囲は怪しむが、周囲が本当に彼に悪意を向けているなら怪しむという感情にならないはずだ。キングの周囲はわざわざ彼を攻撃する。
 作中のキングは優しい。受けた憎悪を返す言葉は自罰的で、直接的な破壊衝動に転化せず自らの内に溜め込む。これらの事実から、私はキングが二十歳の頃より統合失調症などの精神病を患っていると読み解いた。キングは現実かどうか定かでない悪意に日々苦しめられつつ、病気のことなど予想すらしていなかった頃の延長線上にあったはずの人生を夢に見ている。
 これを念頭に置いて読みを進めると、一文目の『悪態を生む』が異なる色合いを持つ。キングが周囲に対して遠慮がちなことや、いつもの帰り道を冒険と呼ぶことに、キングの苦闘した過去を見ることができる。後半部分の夢とそれに呼応する題名はただの幸せだった頃の思い出と空想を超えて病の不条理を映し出す。
 ただ一点、キングの苗字を『金具君』と明かしてしまうのがとてつもなく勿体ない。この作品において、(少なくとも社会的弱者であろう)彼がなぜキングと呼ばれているのか/または自称しているのか、の謎はとても魅力的で神秘的だ。その由来が名前の読みで示されたことで、(理由が名前だけではなかったとしても)作品世界が萎んでしまった。
 読者としてのコメントになるが、彼がキングを自称しているならその原動力や熱がどこから湧き出しているのか、他称なら何が彼を王たらしめているかについて、表面上の理屈ではない部分でのそれを読みたかった。
 参考文献
 中村ユキ、マンガでわかる統合失調症、日本評論社
西山アオ、統合失調症になったけど、働きはじめて15年経ちました

『死にたみ温泉』津早原晶子
 3点(印0.75題1表1.25/終0→3)
 幽霊としての語りがユーモラスだ。死んでいるのに健康に気を遣い、寂しいからと人間にかまう。冬に死んだから冬にしか出てこられないなら、全身が血まみれなのは死んだ時の状況だろうか。作中の天城越えとあわせて、失恋で飛び降りでもしたのかもしれない。
 幽霊は男の『いなくなりたい』に明確な否定の言葉を投げる。一方、リストカットのやり方には的確な助言をし、一人の人間の死ぬまでを見て生の実感を得る。目的が寂しさを埋めるということから見るに、いなくなるのは困るが死ぬのは問題ないのだろう。幽霊ならではの倫理観が表現されている。飛び降りよりもリストカットの方が死への時間が遙かに長い。リストカットへの助言にも、幽霊の期待を感じてしまう。前述の幽霊自身の死に方予想とあわせると、知らない死に方を見たい好奇心もあるのかもしれない。どこに出しても恥ずかしくない悪霊だ。
 表現に『キュウリがくさったような』とあるが、キュウリはお盆の精霊馬を連想させる。それが腐っているなら、この世とあの世を繋ぐ手段が途切れているのだろう。この幽霊自身も、この種の幽霊に引きずり込まれた土地の死者たちも、あの世に行くことができず、死んだ季節以外は大気に溶けている。沈丁花には毒がある。読めば読むほど怖くなるホラーなのは見事。
 最後のひらがなは個人的にやり過ぎに映ったが、独自の世界観と気を抜くと読者自身この幽霊に引きずり込まれそうな怖さ・薄ら寒さを持った一作だった。


ゼロの紙


新しい作品に出会うことはとても怖いこと
なのだ。はじめて出会うとは、開けてはいけ
ない扉を開けてしまうということでもあるし。
その扉を開けてしまったらもう引き返すこと
はできない。

ブンゲイファイトクラブのブンゲイをジャッ
ジする。

ぼくの開けた未知の扉はどの作品も引き返し
てみたくなるほどの、「不穏」な空気を孕ん
でいた。
その6編の「不穏」は日々ぼくを侵食してき
た。

小説も短歌も虚構なのに。

なんで実生活をむしばもうとするんだろう。

虚構には虚構の中のリアルがある。
現実社会の現世がみたいわけじゃない。
あくまでも小説や短詩系の中の現実がみたい
のだ。

これはミッションなので、ぼくらはこれら異
能たちの「不穏な未知の世界」を堪能したこ
とへの罰として、点数をつけなければならな
い。
何より自らそれを望んだのだから。

ぼくがここでゆるやかに指針としたもの。
それは読むという行為は何らかの変化をもたら
すものだけれど。

その変化は、ある種地軸がぶれるようなそんな
体験なのかどうなのかということ。
位相がずれるとも言えるかもしれない。

未知の作品に出会ったと言えるほどの条件
なのだから、日常なんて辟易するような日々
を脅かしてほしい。

そしてそんな作品たちにぼくは出会った。

たそかれを 「日記」

冒頭から突然喋りかけられて若干戸惑うの
だけれど。
SNSの中でどなたかは交換日記のようだと
解釈されていたけれど。一方的に日記に喋っ
ている手紙のようなものなのかもしれないと
思った。
日記にしか綴れない。この日記の中に吐き
出すことで。主人公はある種のカタルシスを
得られているのではないかと。

一枚の紙が目の前に落ちてくるあたり。
ざわざわとした物語の気配もいっしょに落ち
てくる。落ちてくるもの、どこから?
このどこから?と誰と主人公は喋ってんだっ
ていう誰と?みたいなところが呼応していて
面白いと思う。
「マクセルの領収書はマーセルズという」紙
が使われている。マクセルとマーセルズ。
この韻を踏んだような詩のような言葉の配置
が具体性があって効果的だ。具体性がでるこ
とで物語を引き寄せられる。
マーセルズの質感を語るところから、やっ
と読者は主人公の心の輪郭のようなものに触
れられる。
離婚の原因がこのマクセルの領収書のせいに
したい。「あの猫の舌を気に入ってくれた人」と
あるから、たぶん配偶者の舌は猫の舌に似てい
たのかもしれない。ここ、すこしエロティシズ
ムがあっていい。
初め読んだときは最後の一言はいらんがなっ
て思った。でもこれは「日記」。誰かわからな
いけれど誰かに伝えてるんだし、途中で放棄し
てもかまわないのだからあの言葉でいいのだと
説得されてしまった。知らんけど。

冬乃くじ 「サトゥルヌスの子ら」

 どこから語ればいいだろう。この作品世界は、
冒頭シーンから何度も転調している。老ピアニス
トの主人公がピアノの椅子から転げ落ちるその姿
を見た時から、不穏なものが暗示されていたのだ。
不穏とそして福音のようなもの。曲にあわせて、
指や腕が変化することを身に着けたことで、それ
が、記憶と共に蘇る復讐劇となる。ある種のミス
テリーのようにも読んだ。高名な作曲家であった
父親は妻の愛情を喰らい、妹の異能を喰らいそし
てそれを、奪還すべく、主人公は自らの手と母と
姉の手で取り戻してゆく。
 隙のない行間に畳みかけられて。まだぼくは正
直この作品を咀嚼できていない。聞いたことのな
い音楽を言葉だけで作曲したかのようなそんな調
べを聞いたのだと思う。でも地軸がゆらぐという
体験をしたことだけは、間違いなかった。
この小説は、書かれなければならなかった著者と
しての凄みを静かな言葉のなかから感じ取ること
ができた。

由井堰 「予定地」

一首目。
とても淡々と静かな声で詠まれているけれ
どそこに描かれた世界はとても不穏だ。なに
かを諦めようとしたことがあるのではないか。
なにかとは「生」と名づくもろもろのものの
ことだけど。

2首目からは短歌のリズムが時折破調にな
りみだれることで、呼吸の苦しさを同時に表
現しているかのように思える。

「広告の無視し方とかは知っている ヌテラの匂いは知らない」

なんだろうかこのリズムは。破調というリ
ズムも一種の型であるとするなら。これはそ
の域を超えて、途中言葉とつなぐことに倦ん
でいるようなそんな怠惰な香りがする。

そして21首の中に2首だけ現れる、リフ
レイン。
くり返される歌の位置されているポジショ
ンがいい。妙に後を引く。
「しゃべってるみたいな画像」のリフレイン。と
「重力が、こう」「這いつくばって、こう」
この歌を第一首目と呼応するかのように読んだ。

表題作。
「家にはさまるここも予定地で」
予定地になにか目的があるわけじゃない。
空白のまだなにも詠んでいない時間。曲解が
ゆるされるなら、予定地になってしまった理由が
「生」としての「空白」ととらえるならば。
冒険の短歌たちなのだと思う。

北野勇作 「終わりについて」

彼らはなにかの「終わりに」むかって歩い
ている。場所は知らされていない。ただ誰か
の「終わるのか」というひとつのつぶやきに
従うように、列を乱すものもなく列から外れ
るものもなく歩いている。それだけでこわい。
日常にスラッシュが入ったかのように場面
が気配が反転する。
広場の中央が舞台になっているところ。
歩いていた者たちは演者だったのか。
誰しももうなにかを「終えたい」という人
々の空気が書かせたそんな小説だと思った。
主役に見えた巨人さえ演者だと気づく。
ここに確かなものはなにもなく。冒頭から
読み始めた幾つかの情報も芝居の一部だと思
うような不確かさ。
 そして終わりについての終わりなんてどこ
にもないことを知る。それはいつもどこかの
途中であるのだから。

西山アオ 「王の夢」

この小説の「キング」がこのグループDの
中で一番想像しやすかった。日常を感じた。
SNSで顔も見たこともない誰かに毒づかれ
る人たちをみることは、一日何度もあるし。
ぼくもそのひとりだ。この主人公は世の中の
悪態をじぶんのうちなる場所にため込んでい
るという設定が馴染よかった。
「ぶっ殺すぞ、俺」
罵詈雑言をじぶんの内側に向けて刺す。そ
して溜め込んだ悪意の言葉をネットに放ちブロッ
クされてゆく。言葉を排泄することは「キング」
にとって生きるための儀式。届くことのない言葉。
誰ともつながっているように見えて誰ともつながっ
ていない。いつも自分の内なる場所にだけ放つだけ。
とことん拒まれて生きてとことん排泄する。
救いのないことが唯一の救いだと坂口安吾は言っ
たけど。この作品にその言葉を贈りたいと思った。
そしてキングとは彼の名前のことだと知った。

津早原晶子 「死にたみ温泉」

冬だけ生き返る幽霊が主人公であることは
最初に明かされているので、驚きはないのだ
けれど。その幽霊のライフスタイルの描写が
圧巻。畳みかけてくる擬音語の選び方がぬめっ
ていていとても効果的だと思った。そしてスト
ゼロ好きであるというその小道具の選び方。
これ、一時期流行ったストロングゼロ文学と
言われたものを、逆手に茶化すようにストゼロ
を配したのじゃないかと深読みしてみたくなる。
死にたみ推しのような主人公はブラックユーモ
アでもって、言葉を構築しているところに好感
が持てた。何度か「寄り添う」という言葉が登
場する。寄り添うと聞くだけでアレルギーがあっ
たけれど、この言葉、死にたみを見守る時にい
ちばんふさわしい行為のような気がした。
「抜け感」のようなものに読者は、生きてい
てもいいかもしれないと一抹の希望を抱くので
はないか。幽霊が語ることで逆に生きるを照射
している作品だと思った。

たそかれを 「日記」       4
冬乃くじ 「サトゥルヌスの子ら」 5
由井堰 「予定地」        4
北野勇作 「終わりについて」   4
西山アオ 「王の夢」       4
津早原晶子 「死にたみ温泉」   4


作品の著作権は各作者に帰属します。

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