BFC5 ジャッジ応募原稿



あなたはまだ両目洞窟人間を知らないのか 
子鹿白介 


 ……なんてタイトルを書くと怪奇都市伝説かUMAの話題のようですが、両目洞窟人間さん(以下、両目さん)の文章作品をご紹介します。
 自称・30代一般男性の両目さんがネットで公開している文章作品は計六十作以上。あえてジャンル分けするならばホラー、SF、青春、人間ドラマ、ハードボイルド、しゃべるねこ……となんでも書かれます。両目ワールドは多角的。
 今年の夏、私は宝探しのつもりで両目さん作品読書月間を自主的に設定して、未読分を二ヶ月かけてほくほくと読了しました。
 両目さん作品は読み味が唯一無二で、料理にたとえると「この小鉢おいしいねぇ! なにが違うの? ほお~、お塩と下ごしらえが?」という感じ。尖りすぎず丸すぎず、独自の旨味があるのです。
 今回は大人の宿題発表というおもむきで、両目さん作品をふたつオススメします。for you.

◇参考リンク - 両目洞窟人間さんの作品一覧
https://kakuyomu.jp/users/gachahori/works

【1】
 私が特に好きなのが『ダンボール箱のさとこさん』。コミュニケーションにまつわる社会人の葛藤が刺さる短編です。
 ある日、先輩社員のさとこさんがダンボール箱をかぶって出社して、〝僕〟は戸惑う。職場の同僚や上司も同様だけど、当のさとこさんはダンボール箱の前後左右に描いた4パターンの表情をくるくる使い分け、淡々と仕事をこなしていきます。
 さとこさんが〝箱子さん〟スタイルになった理由は、曰く「コミュニケーションに疲れちゃったとかそういう理由」。箱に描かれたシンプルな4つの顔(ノーマル・駄目・笑顔・怒り)は、彼女が表現したい気持ちを代弁してくれます。もしくは、伝えたくない表情を隠してくれる。
 〝僕〟の視線を通したさとこさんは、平然としていて、かっこよくて、愛おしい。外界との接触に自ら一線を画すその姿とアイデアは、弱そうでも強くて、角張っているけど和やかだと、好ましく感じられます。
 もの静かに進む作中、〝僕〟はこうも考えます。
『さとこさん、本当はずっと怒っているのかもなあと思ってしまった。』
 箱子さんスタイルの根底にある切実な〝怒り〟を予感させると同時に、そう感受した〝僕〟自身にも、人知れず抱えた〝怒り〟があるのかもしれない――。
 そんな人の心の機微に触れる作品で、本当にお気に入りです。

『ダンボール箱のさとこさん』(3,825文字)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884749967

【2】
『夜のメロディ』は、ねこのにゃんみさんがフジロックを見て思い立ち、ギターを買って演奏を習得していくお話です。特殊なのは、にゃんみさんにギターを教えてくれるひとが幽霊の〝ゆーちゃん〟であること。
 はい、つまり『夜のメロディ』は〝ホラー〟〝音楽〟〝しゃべるねこ〟の三要素が詰まった短編小説なのですね。
 字面がすごいですが各要素の調和もすばらしくて、ぜひ読んでいただきたい一作です。にゃんみさんとゆーちゃんが出会い、打ち解け、毎晩のレッスンを重ねて絆を深め、地域のイベントの小さなライブに漕ぎつける過程がとても素敵です。
 にゃんみさんは猫なまりがありますがゆーちゃんも、あ行の文字くらいしかほとんど発音できません。つたなくも心温まる会話が、可笑しくて心地良い。
 両目さんがお話のモチーフに据えた、サニーデイ・サービスの『青春狂走曲』『夜のメロディ』が、なんとも似合うお話。この人が皆に届けたい物語があるのならぜひ耳を傾けていたいと、いち読者として私は思ったのでした。

『夜のメロディ』 (10,974文字)https://kakuyomu.jp/works/16817330660091585948


愚かな獣どもに告ぐ 
綾門優季


《「ああ、なんか、これ、決まってけぇへん?」
「ああ、ほんまや、なんか、ああ、なんか、景色が渦巻きみたいな」
「やばい、どんぎまりや」
 など言ってるうちはまだよかったが、そのうち、地獄のようなバッドトリップに陥り、多くのものが錯乱状態に陥って谷底に転落したり、喚き散らしながら自分で自分の脳や腸を取り出して撒き散らすなどし始めた。》
 警察や救急車を呼びたくても呼べない時代であることが絶望的に思われるほど、常軌を逸した滅茶苦茶な事態が繰り広げられ、実際に多くの人々が誰からの救済も得られずに無残に死ぬ。この残酷極まりない本は何か。かの有名な古事記である。町田康はそれを口訳することにより、かしこまって古典を読む、知らず知らずのうちに身についた読者の態度を、完膚なきまでに破壊する。
 しかし、荒唐無稽なおしゃべり、こんなことはない、と切って捨てるわけにもいかない。これが現在の社会の写し絵ではないと言い切れるだろうか。語りの渦の中に共感する部分はどこにもみいだせないだろうか。私は何か言いたいのに何も言えずに口をぱくぱくさせて絶句する。強引な説得力に呑まれる。
《神意ははっきりしており、明快に、No Warである。だけど忍熊王はこれを無視した。
「やる、ちゅたらやるんじゃ」
(中略)
多数の死傷者が出て、生き残った者は這々の体で退却した。》
 愚かな指導者の愚かな判断により凄まじい被害が出るのは、今も昔も変わらない。ポリコレをガン無視した、人間の剥き出しの野蛮さには唖然とする。ただ私もまたその人間のうちのひとりであり、どれだけハラスメント対策を遵守しようが、どれだけコンプライアンス講習を受けようが、戦争が起きたら終わり。どんな手を使ってでも生きてたほうが勝ち。殺される前に殺せ。と全く別方向の「世界の正しさ」に頬を強くはたかれ、現実に起きている悲惨な出来事の数々が俄にフラッシュバックしてその場に倒れ伏す。クラクラしながら読了、人間も所詮は獣の一種であることを、改めて認識する。


『口訳 古事記』
町田康著
講談社
2640円(税込)


ブンゲイファイトクラブ5ジャッジ志望理由:エッセイ 
江永泉



あらゆるトーナメントは勝者と敗者を生産します。
その生産過程は面白い見世物になります。
トーナメントはまず選手とジャッジを認定します。
個々のパフォーマンス。これは見世物の演目です。
ジャッジは選手を勝者か敗者に振り分けます。
この横暴な行為で、悲喜交々の人間模様が発生します。
そんな人間模様も、織り込み済みの見世物だと言えます。
それはともかく、ジャッジは評価し判定します。
これは横暴な行為です。事実上、排除の指示だからです。
このような横暴な行為を正当化する作業が作品の解釈です。
よい解釈は横暴をあがなうかのように機能します。
それでは解釈の良し悪しはどのように測られるでしょうか。
私は以下のように考えます。
ある解釈の良し悪しは、その解釈があるからこそ作品が発揮する特異な力がより精彩を増すと言えるか否かで測れると思います。
言い換えます。
ある解釈が、その作品があるからこそはっきり感受されるような観念や感触がある、と語りえているのかどうか。これが解釈の良し悪しの基準だと私は考えます。
仮に、何らかの作品に「けしからぬ」「存在すべきでない」という評価をくだすのであれ、そのような評価の理由となる力をうまく語りえているのか否かで、解釈としての良し悪しが測れる。
そういう立場を私は取りたいと思います。
抽象的な話を続けてきたので、たとえ話を交えていきます。
ポケモン(ゲーム)の文言でしばしば引用されるものに、「つよい ポケモン よわい ポケモン そんなの ひとの かって ほんとうに つよい トレーナーなら すきな ポケモンで かてるように がんばるべき」というのがあったと思います。ジョウト地方の四天王カリンのセリフです。
作品の解釈をぶつけ合うのはポケモンバトルに似ているのではないかと思います。「すきなポケモン」で「かてるようにがんばる」ことをそれぞれの解釈者たちは目指しているのではないかと思います。江川隆男『超人の倫理:〈哲学すること〉入門』(2013)の第三章で説かれるような、解釈におけるパースペクティヴィズムを、私はそう理解しています。
もちろん鑑賞するだけならポケモンをひとりで愛でるのに等しいです。
しかし、自身がどう鑑賞したのかを形にして他に示して見せるのは、ポケモンバトル(またはポケモンコンテスト)になると思います。
望むと望まざると、そうなると思います。
もちろん、解釈を競技と関連付けていくと、競い合いの生々しさのことが脳裏をよぎります。闘争の遊戯化の効用。規則や定石の洗練(選手に必須の作業の固定化)に伴う悲喜交々。遊戯化された闘争が興行されることの明暗。等々……。手短に言えば、そんな諸々についての物思いが、私の脳内を駆け巡ります。
私が列挙したような内容を、競技ポケモントレーナーによるエッセイという体裁をとって描いている、すぐれたポケモン二次創作として、rairaibou(風)「モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。」(2015-現在)があります。分量はかなりありますが、おすすめです。
もちろん実際には文章はポケモンではありません。
当たり前ですが文章は実際には人間でもありません。
だからこそ、壊れるほどいじり回したり、振り回してぶつけあったりしても、大丈夫なわけです。
人体を素材に使った文章というものは、ここでは考慮しなくてよいものとしておきます。
もちろん、ある文章に魂を注いだ人間やある作品に奪われた人間(書き手か読み手かは問わない)からすれば、当該文章への心無い扱いは魂をえぐられるほど痛いだろうとは思います。
でも、人前に出したら文章はオモチャと一緒です。
壊れてしまうくらい叩かれることもあるでしょう。
だから気分次第で酷い扱いをいくらでもしていい。そんな風にうそぶく輩(の文章)から真っ先に目を付けられて袋叩きにあうのも、よくある話です。
一般論っぽく書いてきました。以下、より明白に私自身の話にします。
例えば、この文章は読み手に然々のような反応を引き起こす用途の製品で、そのために然々の素材や然々の技術を使っており、用途の評価基準に照らすと以下のような格付けになる、といった仕方の分析を、私は意義深く感じます。
しかし、私がもっとも関心を寄せる出来事は、ある読者がその読者でなければつくれないような解釈を生成するのに作品が寄与するという事態です。
そして、そのままでは共有できないはずの自由連想や、解釈者の背負う人生ありきだったはずの読み取りが、表現された途端になぜか不思議と伝わるものになったり、意味不明なままでも心を打つような名文になったりする。そういうガチャでSSRが一発で引けたみたいな奇跡を待ち望んでしまうところが私にはあります。
ホンネを言うと、私の内部には批評に関する分裂した思いがあります。
一方では私は全ての対象をよしと肯う批評のやり方を求めています。
一般に、散文は自由で平等なものだ、という考え方があると思います。
例えば(本来)散文にルールはないので(本来)誰が何を書いても構わない。
だから(本来)自由に読み書きがなされ、毀誉褒貶を、平等にこうむる(資格がある)。
こんな具合の考え方です。
それにひきかえると、批評は自由と平等に反した営みであるように映ります。
正邪善悪美醜優劣、どんな文言を用いるのであれ、批評のすることはと言えば選別です。
よくないものと、よいものを選別する。
誰もがそんな選別をするように、批評は誘惑ないし教導します。
よき作品やよき解釈そしてよきジャンル。よくない作品やよくない解釈とよくないジャンル。それらを選別する。それが批評である。こんな風にまとめるのは、それほど困難なことではありません。しかし、他の語り、他の考え、他の価値転換のやり方は、ないのでしょうか。私はそれを探し求める気持ちが胸中から拭えずあります。
他方で、私はバトルゲームが大好きです。
多数派の敗者ではなく少数派の勝者に振り分けられる。
そのような見世物に参画することでしか得られない快があるのだと思います。
そうでなければ、例えばブンゲイファイトクラブなる興行が五度も続くとは思えません。
リアルなファイトは流血や死のリスクがあります。
それに引き換え、言葉でのファイトは、比較にならないほどリスクが小さいです。
私は多少のリスクを呑んででも見世物に参加して快を得たくなりました。
ゆえにジャッジに応募したのでした。


「コンゲツノハイクを読む」まとめ 
田中目八


本稿はすべて俳句のポータルサイト「セクト・ポクリット」内「コンゲツノハイクを読む」に投稿したものである。

海を人を閉す水門風死せり 吉田千嘉子
「たかんな」2023年8月号(通巻368号)より

海とあるから河口や運河、港湾の水門だと思われる。水門は本来、流水を制御するものであるから閉すのは水そのもの、この場合は海水であろう。しかしこの句では海水ではなく、閉すものは海であるとし、さらに人をも閉すと書かれている。まるで水門によってすべての海と人とが隔てられ、閉されてしまったようだ。海は人を恋い、人は海を恋うのか。生命の祖(おや)、或いは還るべき場所ということか。季語「風死す」が閉塞感と堰き止められた海の淀みを重くする。死せるのは風だけだろうか。海も人も停滞し、やがては。その時にこそ、この水門は開くのかもしれない。

いつまでも乾かぬ水着康生の忌
岡野美千代 「銀化」2023年8月号(通巻299号)より

この句の康生とは『奎』の前代表、故・小池康生氏のことで作者と同じく銀化の同人でもありました。奎でも追悼の句を詠んだものは見られましたが、はっきり「康生の忌」と詠んだものはありませんでした。作者にしても小池さんの逝ってより一年経ったことでこの言葉を使えたのかもしれません。

家族とは濡れし水着の一緒くた 小池康生

を踏まえたもので間違いなく、そうすると水着がいつまでも乾かないことは決してネガティブな意味ではありません。それは作者の水着もまた一緒くたになってるということ。家族はより大きく広がり、銀化はもちろん、奎や小池さんを知る人たちみんなの水着が一緒くたになっていつまでも乾かないことを願ってやみません。

遠き祖は魚類か水か目借時 寺田幸子
「閏」2023年6・7月号(通巻第15号)より

目借は本来「妻狩る」で蛙などが伴侶を求めて鳴き立てる意だったのが、目借の字を当てたことにより、春に眠いのは蛙に目を借りられるからという意味になったらしい。さて、蛙に目を借りられた人は代わりに蛙の目を得た。その目を通して進化を辿ってゆく体験をするが、やがて魚類へ到る。その目に映るのはひたすら水。それもまた今の水ではない始原の水とも言えるもののはずだ。魚類もまた水を祖とするものなのだ。老人の身体における水の割合は約5割、新生児ならば約7割である。ならば生まれる前はより水の割合は増え、辿り着くその祖はやはり水なのだ。目覚めると蛙たちの伴侶を求める鳴き声。魚もやはり伴侶を求めるものである。この先も連綿と。水であれば伴侶は必要なかろうに。

顔のないわたしが産んだ無人島 月波与生
「楽園」第3巻第1号より

顔のないものが無人島を産むのなら、顔のあるものが産むのは有人島であろうか。人は基本的には自分の顔を知らないものだとして、自分の顔がどんなものかは他者がいることでわかる、或いは他者によって定まる、と言えるのではないだろうか。乱暴であるかもしれないけれど、他者がいなければ顔がないと言ってしまえるのではないか。つまり「顔のないわたし」が既にして無人島なのである。無人島が産むのはやはり無人島なのだ。そして顔のないものは名前も持たないだろう。誰も知らない本当の孤島の無人島。人喰い島の可能性もあるだろうか。産むではなく「産んだ」がよい。そこにはもはや母親さえも、顔を与え名を与えてくれる母親という他者はいない。

海原も枯野も星の棲むところ 山田佳乃
「ホトトギス」2023年5月号より

「星の棲むところ」であって星が棲んでいるとは書かれていない。一つの解釈として、中七の枯野もかつての海原であったということを踏まえているのではないだろうか。つまり、この枯野も本来は星の棲むところ、海原であった、ということである。そうであるならば、今も海原に星が棲んでいるのかは分からないけれど、恐らく枯野には棲んではいないことになるだろう。そうやって元来星の棲むところに我々含む全ての生命は間借りしているのかもしれない。だんだんと枯野に海原が二重露光のように映ってきて目眩を覚える。

海市まで手持ちの時間つかひきる 大河原倫子
「雪華」2023年3月号より

海市までたどり着いたところで手持ちの時間を使い切った、或いは使い切ると海市までたどり着いていた、とも読めるだろうか。一般に持ち時間とは言うが「手持ちの」とは普通聞かない言葉で、恐らくひとの一生において保有している時間。つまり海市とは彼岸や浄土のようなもの、そうなると実にストレートな句ではある。あるけれど一生を「手持ちの時間」と言い、また「使い切る」と言う、その突き放したような把握に魅力がある。時間を使い切った作中人物は既に海市にいることになり、そちらからこちらを観られているような不思議な感覚がある。

狸がゐて犬がゐて猫がゐて強風 瀬戸正洋
「里」2023年2月号より

恐らく狸の後ろに犬、犬の後ろに猫が並んでいるのだろう。つまり身体の大きい順だと思われる。強風から身を守るのに自分より大きいものの影に入ったのである。「ゐ」の字がじっと踏ん張って強風に耐えているように見えてこないだろうか。そして、これを人間が傍から見ている……いやいや、もしかしたら狸の前に立たされているのかもしれないですな。


女にネバーランドはない 
春Q


 あなたは『ピーターパンとウェンディ』を読むべきです。『ピーターパン』、意外とディズニーアニメ版のイメージしかない方も多いんじゃないでしょうか。石井桃子先生の訳が、福音館古典童話シリーズから出版されているので、図書館等でも手に取りやすいと思います。
 ピーターパンは、はっきり言って女の敵です。もっとはっきり申し上げますと、彼は子供の味方ですらありません。だって一緒に暮らしている孤児たちが大人になりかけると、平気で間引きをするんですよ。いかに自分をかっこよく見せるかしか考えていないのでウェンディとその弟たちの顔と名前を平気で忘れて、本当に死にそうなギリギリまで助けようとしません。自分自身が死に瀕した時は、こう言います。「死ぬことは、きっとすごい冒険だぞ。」うわーっ! 悔しいけどかっこいい!
 だけど、現代の大人がこの作品を読んでもっとも強く感じるのは、少女ウェンディの扱いの凄まじさでしょう。ピーターパンは「お母さんになってください」と言います。孤児たちも言います。ウェンディよりずっと年長であるはずの海賊たちも言います。「お母さんになってください、ウェンディ!」と。
 もちろんウェンディもまんざらではないのです。率先してお世話を焼いて、お父さん役はピーターパン、孤児を子供役にしておままごとに興じたり、ピーターパンを争って妖精のティンカーベルと火花を散らしたりもして。
 しかし、怖くないですか? この作品はもともと一九〇四年にスコットランドのバリーという作家が手がけた戯曲を別の方が再話したもの・・・なんですけど、私は文化の源泉を見た思いがしました。みんな、お母さんになってお世話してくれる少女が大好きなんです。ウェンディだって子供だけど男の子たちに仕えるのがだーいすき。戦争ごっこをする少年と、おままごと遊びをする少女の構図は現代も引き継がれているように感じますね。母親の無償の愛と、少女の無垢を兼ね備えたウェンディの人物造形は、萌え文化では定番でしょう。
 私は無償の愛を持たず、また無垢でもありませんが、田舎に住んでいる未婚女性(フリーター)なので、やっぱり色々と気遣いを受けます。「いい人が見つかれば、働かなくても、ねえ」「その年なら三人は産まなきゃ」「お母さんになって」「お母さんになって」!
 ウェンディはもちろん、性的役割から逃れられませんでした。ネバーランドを後にした彼女と、永遠の少年ピーターパンを描いたラストシーンはとても美しいので、ぜひあなたも目撃者になってほしい。作者の愛憎いりまじった子供への想い、人間存在への諦観を肌で感じてほしい。あわせて、フック船長のチート級な耽美さにも酔い痴れてほしい。人生の意味を世に問い続ける、傑作です。
 お母さんになってくださいウェンディ人魚と妖精からきらわれて 寺山恵


サトゥルヌスの子らについて 
白髪くくる


冬乃くじBFC4出場作品『サトゥルヌスの子ら』を、「なぜ本作で父という役割が敵になったか」そして「なぜ本作が娘たちの話なのか」の2点から論じていきます。

 『サトゥルヌスの子ら』は父と娘の物語です。題名の元ネタとなったサトゥルヌスはギリシア・ローマ神話に出てくる古代の神々の王、彼は「将来、自らの子に殺され権力を奪われる」という預言をうけ、自らの子を次々と呑み込んでいきます。本作はその『サトゥルヌス』を題名に当てており、この題名から本作の父は権力のために子を喰らっている存在だと推測できます。では彼は何を食べ、どのような権力を維持しているのでしょうか。

 その答えを探るために、まず本作における父の描かれ方を見ていきます。本作の父は佳寿子の印象によってその多くが語られます。
 序盤、佳寿子の口から語られる父は激怒しています。父は姉と佳寿子を比較して佳寿子に罵声を浴びせます。これに対し、佳寿子はピアノリサイタルで倒れたとき、父の怒りに思いをはせながらも『手放した責任の大きさにうっとり』します。
 中盤以降の演奏風景を見る限り、佳寿子は音楽自体を嫌っているわけではありません。どうやら少なくとも音楽が絡む時、父は佳寿子にかなり厳しい態度で臨んでいたみたいです。

 作中における父は偉大な作曲家であり、ピアノ界の権威でした。佳寿子はピアニストという職についているあいだ、ずっと「○○さんの娘さん」という目で周囲から見られ、声をかけられていたのだと考えられます。冒頭、佳寿子が倒れた場面と佳寿子の引退は、音楽の世界において父と佳寿子の一度目の決別でもありました。では、音楽以外での二人の関係性はどうでしょう。

 二人の日常での関係性を解く鍵は後半にあります。後半、自らの手が父の手に変わったとき、佳寿子はそれを『黒く肉厚な手』と評しました。そして『思わず怯んで手が止まった』『動悸がおさまるのに時間がかかった』と自身の感覚を示し、『死んだ者の手ごときに負けてなるものか」と自身を激励します。また、父の曲を『華やかな音』と認めた上で『たとえこんな音楽を生みだしたとしてもこの手は呪われた手だ。それを許すわけではない』と結論づけます。

 これら要素のうち最後の部分から、音楽を越えた部分で佳寿子が父親に否定的なのが読み取れます。佳寿子の思い出す父は怒っており、佳寿子を否定し蔑みます。佳寿子から父に対するマシな印象は曲の出来の良さくらいしかありません(これすらも後半瓦解してしまうのですが)。この徹底した悪印象から父は佳寿子と仕事外の日常においても険悪であったことがわかり、その理由は日常における父の言葉の暴力/怒りの発露ではないかと推測できます。

 直接的な暴力もあったのではないでしょうか。理由は三点あります。一点めは父の手を見たときの佳寿子の反応です。佳寿子は後半、父の曲を弾きはじめますが、父の曲ならば父の手が現れるのは当たり前で、ある程度覚悟を決めていたはずです。なのに実際に父の手をみると、彼女は思わず怯み、動悸が止まらなくなります。これは暴力を振るわれるとき、わかっていても拳を上げられた瞬間に身体が固まってしまう身体感覚と似通っています。

 二点めは少し要素としては弱いですが、佳寿子が目の前の父の手を『呪われた手』と言い表したことです。これは佳寿子の手が変化しているため出てきた言葉ですが、手というパーツそのものに強い忌避感を抱いているとも読み取れます。手が生み出す加害として思いつくのは拳やビンタなどの直接的な暴力です。

 三点めは母の手に見られる火傷痕から推測されうる暴力の残り香です。これは父と母の関係性の説明にもなる部分です。

 作中の母の左手には魚のかたちに似た火傷のあとがありました。火傷の大きさは明確には書かれていませんが、ピアノを弾く際に視認出来る程度のサイズでかつ魚の形であるあたり、広範囲なものというより、高温の物体を局所的に当てた結果の火傷では無いかと考えられます。こういった火傷は、例えば熱湯を誤ってこぼしたなどの事故の際に出来るものとは考えにくく、人為的な火傷であると推測できます。例えばたばこの根性焼きや焼けた鉄箸を当てるなどの、虐待と言いきって良い程度の行為の結果生まれたものです。
 この火傷が父によるものかは不明ですが、佳寿子が母の手を語る際の愛情、とりわけ火傷に注目するところから、佳寿子と母は同じDV被害者・父の圧制下を生き抜く戦友であり、この火傷痕を佳寿子は一種の同志の証のように見ていたのではと、わたしは考えました。
 作品盗用の事実を知ったとき、佳寿子は抑えきれないほどの怒りを覚えますが、これは単に父が他者の作品を横取りしたことを怒っているだけではありません。父の生き方が公私ともに母を踏み台にして、彼女の才と可能性を使い潰したものだったからです。 

 ここまでの作品読解で、本作の父親は佳寿子を言葉や暴力で虐げ、作品の盗用で名声を得ていた人物だとわかりました。サトゥルヌスの維持したい権力は家庭内の地位であり、また社会的・芸術的成功です。「父は何の悪か」という問いに答えるなら、彼はまず『家族の悪』家父長制の上に立ち家族を支配するタイプの悪の代表です。その上で父はむさぼった家族の力でもって、芸術分野にて支配者的な位置につき、そこでも佳寿子を支配します。だから、父は芸術分野で搾取する男の代表としても書かれています。両者は繋がっているのです。

 以上を踏まえて、「本作の敵はなぜ父で無ければならなかったのか」「本作はなぜ娘達の物語なのか」に答えていくのですが、そのためにまず作品外の要素に言及していこうと思います。  
 元々、家族の問題は母親の問題として語られがちでした。たとえば信田さよ子さんは『母・娘・祖母が共存するために』の中で、近代家族の特徴の一つに性別役割分業、父親は外で働き母親が家の中のことを取り仕切るといった考え方を挙げています。性別役割分業はいわゆる『男は仕事、女は家庭』といった考え方です。
 この体制の中の父親は、基本的に会社という家族とは違う世界を生きる存在で、ひとたび家族内に問題が発生すると、その原因は母親の愛情不足にあるとして、母親は全ての責任を負わされるのです。一方で、結婚前に家庭内にも男女平等はあると夢見た女性達は現実の夫の姿に失望し、その愚痴を同性として将来同じ位置につくだろう娘に語ります。
 そして一部の母たちは自らを娘と深く重ね、娘の人生を支配することで自らの人生を回復させようと試み、不幸を語られ支配された娘達の一部は同じく破壊された人生の回復を他者に求める呪いの連鎖とでも言うべき事態を発生させ、そうでなくとも『自分も親のようになってしまうのではないか』と怯え続けることとなります。(ここらへん、同作者の準決勝作品の『あいがん』に繋がる話です)
 信田さんは同著書のなかで家族問題の中で不在化している父親・夫の可視化こそが、家族問題の対処に必要だと指摘していますし、母親のみで家族問題を語ってしまっては歪みが生まれるというのは、数歩引いて見てみれば当然のことではないでしょうか。

 ここで本作に立ち返って「本作の敵はなぜ父で無ければならなかったのか」という問いに向き合ってみましょう。
 敵を母親に設定してしまうと本作の効力は著しく弱まってしまうのではないでしょうか。愛情のゆがんだ母親、それに立ち向かう子供(たち)、男性はそれを外から安全圏で眺めている、これは既存の母→娘と繋がる負の連鎖の強化に他ならず、呪いの打破を目指す『サトゥルヌスの子ら』という作品にそぐいません。
 また『サトゥルヌスの子ら』の主人公を男性としてしまうと、これもまた父親殺し、偉大な父を越えるといったエディプスコンプレックスの典型的な話として本作を読めてしまいます。父親を倒し兄(弟)を救う話にしてしまうと、今度は作中から女性がほぼ消えてしまい家族問題を扱う小説として弱くなり、父親を倒し姉(妹)を救う話は男性という性別の特権意識を高める旧来の英雄譚にしかなりません。
 敵が父かつ娘達の話となることで、はじめてこの小説はその威力を十全に発揮し、多くの人に刺さる力を持つに至ったと私は確信しています。


『君の名は。』口噛み酒論考 
野村金光


① 口噛み酒=朽ち神酒
本章では新海誠『君の名は。』について、キーアイテムである「口?み酒」に注目し、日本神話との関連性という観点から再考したい。
 「口噛み酒(くちかみざけ)」=「朽ち神酒(くちかみざけ)」であると私は考えている。日本神話において「朽ちた神」とはイザナミノミコトを指す。概要を説明すると以下の通りとなる。
 イザナミノミコトはカグツチを産む際に命を落とし黄泉の国へと行ってしまう。夫のイザナギがイザナミを連れ戻そうと黄泉の国へ赴くが、イザナミは「黄泉の国の食物を口にしてしまったため現世に戻ることはできない」と宣言する。この「死の国の物を食べると元の世界に戻れない」という神話上のルールを「よもつへぐい」と呼ぶ。
 よもつへぐいに類する描写は国内外問わず多くの物語に共通しているものであり、恐らく現代日本でもっとも有名なよもつへぐいは宮崎駿『千と千尋の神隠し』であろう。また、海外の例を挙げるとデル・トロ『パンズ・ラビリンス』が分かりやすい。
 さて、どうしてもイザナミを現世に連れ帰りたいイザナギだったが、とあるきっかけで彼女が腐りきった死体であると気付いてしまう。つまり、イザナミノミコトは「朽ち神」なのである。
 上記を踏まえ、本論で提唱する仮説は以下の通りとなる:『君の名は。』における口?み酒とは朽ち神イザナミノミコトを連想させる装置であり、映画全体をよもつへぐいの物語として読み解くための糸口として機能している。
 次章では、上記の仮説に基づき本作における「黄泉の国」について論じていきたい。論の根拠は「口噛み=朽ち神」という当て字にすぎないが、日本文化は当て字をとても大事にしているので、あながち的外れな意見ではないはずである。

② 隔り世とよもつへぐい
本作では直接「ここから先はあの世」と説明されている場所が存在する。それが御神木を中心とした円形の空間=隔り世である。
 主人公の立花瀧は彼の時間軸では既に死んでいる=黄泉の国の住人となっている準主人公の宮水三葉を助ける=現世に連れ戻すために隔り世にて口?み酒を口にする。この時点で彼は三葉と同様黄泉の国の住人となり、三葉の時間軸に干渉することが可能となる。
 さて、私が本作に疑問を呈したいのは次の部分である。よもつへぐいの禁を破り、黄泉の国の住人となってしまった瀧が三葉を連れて現世に戻るためには相応の試練を乗り越えるか代償を払う必要がある。宮崎駿『千と千尋の神隠し』はそれこそが物語の基軸であったわけだが、その点『君の名は。』はなぜ二人が現世に戻ることができたのか明確な描写がカットされている。
 瀧と三葉が糸守町を救い現世に戻る過程には「三葉の父親の説得」という大きな壁が存在した。三葉の父親は糸守町の町長であるため、ゲマインシャフト的な父親という役割とゲゼルシャフト的な町長という役割が同居しており、セカイ系から発展しつつある新海作品『君の名は。』を象徴するようなキャラクターとなっている。そんな彼を三葉が説得する場面は、自己完結的な新海キャラクターが初めて社会という存在に正面から相対し、そして勝利を収めるというこの上ない重要な意味を持っているはずだが、あろうことか本作はこの場面を省略してしまっている。つまり、本作は現世に戻るための「相応の試練」を真剣に描いてはいない。この点は厳しく指摘できるだろう。『千と千尋』で例えると、「この中からお前のお父さんとお母さんを見つけな」の場面が省略され、いきなり元の世界に戻っているようなものである。突きつめて考えると、宮崎駿とこの時点での新海誠の力量差はこの辺りに現れているのではないだろうか。
 上記の問題点をポジティブに批評することもできる。本作はよもつへぐいの話かと思いきや終盤の展開はアンチよもつへぐい的に作られた、神話という権威への反抗なのだと主張することも可能だろう。いずれにせよ、本論において主張した口噛み酒についての仮説はあくまで作品解釈にすぎず、それをポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは作品批評の領域なので、「私はネガティブに捉えている」と自らの立場を表明し、本論の結びとしたい。


読者の感情を搔き乱す「語り」の天才  オースン・スコット・カード  
冬乃くじ


「現代SF小説ガイドブック 可能性の文学」(Pヴァイン)掲載原稿

 1951年ワシントン州生。1977年に短編「エンダーのゲーム」(短編集『無伴奏ソナタ』に収録)でデビュー、キャンベル賞を受賞。長編化した『エンダーのゲーム』と続編『死者の代弁者』で、1985年と翌年のヒューゴー賞・ネビュラ賞の長編小説部門を2年連続で独占受賞する。
 敬虔なモルモン教徒で、デビュー前は宣教師として布教活動をしていた。その宗教観が色濃く出た作品は読者を選ぶが、宗教という重力から少しだけ解放されたとき、カードの語り手としての威力は最大限に発揮される。最たる例が『無伴奏ソナタ』『エンダーのゲーム』『死者の代弁者』だ。それぞれ音楽SF、無重力ミリタリーSF、生態学SFだが、どのSF的特殊環境も臨場感をもって語られ、宗教性は物語に深みを与えている。卑近な人間模様で共感を誘いながら高次の葛藤までつれていき、予感を保ちながら謎の核心へ迫る。
 高まる緊張と絶妙な緩和に涙腺を刺激され、読み始めたら止まらない。惜しむらくは同性愛への古びた偏見を感じさせる箇所がある点。カードは、自身の同性愛者への差別発言と同性婚の権利を奪う政治活動のため、2020年に招待された文学祭Celsius232で作家達からボイコットを受けている。


映画「国民の創生」についての小論、のようなもの 
世界彗星灯台プールサイドアサルトライフル


アメリカにおける映像文化、映画文化は特殊な環境下と風土で発達した固有の文化的資産であり、その優位性は西欧諸国からの精神的な独立を象徴するものであった。グリフィスが1915年に発表した映画「国民の創生」はアメリカ映画史において目新しい、政治的かつ物語的に秀逸な「上質な長編映画」である。これを目にした白人至上主義者らはその内容を賞賛し、人種差別反対派の人々は根拠のない恣意的な黒人像に反感を覚えただろうと想像できるが、反対派の意識の根底にあったのは、賛成派の観点とは全く異なるものだったのではないかと感じる。つまり、賞賛側が自身の置かれた立場に基づく鬱憤を、映画作品の内容そのもので解消していたのに対して、否定派はその内容以上にアメリカにおける映画文化の意義に着目していたのではないか。 アメリカにおける映像文化が、ある種国そのものを表すメディアの形として成立してきた中で、政治的な意図を含んだ初めての映画作品としての「国民の創生」は、作品そのものが高い完成度と注目を保持していたため、映画史以上に国の意識を形づけるものであった。自由主義的な思想を持っていた否定派の人々は、鑑賞時にそれを強く意識したに違いない。人種差別的風潮が根強く残る二十世紀初頭のアメリカで、「国民の創生」が比較的強い批判を集めたのは、単なる作品中の要素としての人種差別的意識以上に、その後の国の方向性を強制する映画の役割に対する危機感の存在があったのではないだろうか。文化史を代表するほどの完成度の高さが皮肉にも、反対派の危機意識を高めたのだ。 一映像作品でありながら、時代に大きく影響を及ぼした「国民の創生」は、アメリカにおける映像文化の意義の大きさを象徴するものであったと想像する。



※著作権は各著者に帰属します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?