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ケルト人を語る資料――我々は何を通してケルト人を知っているのか?

皆さんは昔のことを知るときに、どのような手段を使いますか?

当時を知ってる人に聞く? それはいい手段ですね。では、もっと昔のことの場合はどうでしょう。当時を知ってる人はもういないかもしれません。そのときはどうしますか?

記録や歴史書を読む。それもいい手段ですね。では、もっともっと前、記録も残っておらず、文字を使ってすらいなかった時代は?

今回は、ケルト人について我々が持てる資料(原資料)についてお話しします、


1.ケルト人を語る資料の種類

1.1.ギリシア・ローマによる文字記録

ギリシア・ローマというのは、世界史上の特異点のようなものだと言えます。なぜならば、彼らは文字というものを操り、様々なことを記録しているからです。彼らの記録は多岐にわたり、自分たちのこともあれば、他者のこともあります。彼らにとっての他者といえば、特に大きいのはゲルマン人、そしてケルト人でしょう。

実際、ケルト人に関する最古の記録は、ギリシア人が残しているのです。それはミレトスのヘカタイオスという人物によるものと言われていますが、現在ではその記録は失われています。現存するうちで最古のものは、「歴史の父」ことヘロドトスによるものです。

ケルト人は、はじめのころギリシア人にとって大した興味の対象ではありませんでした。しかしケルト人が次第に居住地域を広げ、彼らとの接触(非好意的なものも含む)が増えてくると、途端に記録量が増えます。特に、紀元前279年にケルト人がアポロンの神殿のあるデルフォイに侵入した例が顕著です。一方のローマでは、ギリシアよりも早くからケルト人の脅威を感じていました。ローマ市は紀元前387年にケルト人による侵入を受けました。いずれの場合も、彼らはそこを恒久的に占領することなく、一時的な占領と略奪のみで去っていきます。

このようにケルト世界と接触を持ったギリシア・ローマによる文字記録は、彼らに関する最古の記録として貴重なものです。なぜならば、ケルト人は元々文字を用いなかったからです。しかし、ギリシア・ローマによる記録は、外部からの視線であり、不可避的に先入観や偏見を含んでしまっています。端的に言えば、彼らはケルト人を「野蛮人」だと思っていたのです。例えば「好戦的」、「喧嘩っ早い」、「勇気がある」、「自慢好き」といった特徴が書かれています。

紀元後1世紀の詩人ルカヌスはガリアを旅行し、「エスス」「タラニス」「テウタテス」という三神がガリア人の主神であると記録しています。この記録は貴重ですが、やはりローマ的偏見を逃れ得ません。というのも、ローマ人は自分たちと同じように神々の世界に階層があると考えて記録を残していますが、実際にはケルト人の神々にはそのような階層はなく、従って主神という概念も適用できないのです。

また、このようなバイアスで特に顕著なのはユリウス・カエサルによる『ガリア戦記』です(ガリアは現在のフランスとその周辺にあたるケルト地域)。彼はガリアの神々をギリシア・ローマの神々の名前で記し、ガリア人はメルクリウスを最も篤く信仰した、と書いているのです。メルクリウスはその特性からルゴス(アイルランドにおけるルグ)のことを指しているというのが定説ですが、あくまでカエサルの目を通した既述であり、確定的とは言えません。とはいえ、貴重な資料であることに変わりはありません。


1.2.考古学的資料

ケルト人自身の(意図せず)残した資料として、考古学的遺物があります。それは例えば墓とその副葬品であったり、居住地や建造物の跡とそこに残された動物の骨であったり、多岐にわたります。それらの資料は、文字記録以前のことを語り、なおかつギリシア・ローマの目というバイアスを通していません。しかし一方で、それらから往時のことを知るためには解釈を必要とする、という点が悩ましいです。

例えば遺跡で穴を掘って動物を埋めた遺物があります。当時の動物は非常に貴重な食料であり、財産でもあります。その動物をなぜわざわざ食べもせずに埋めたのか? その答えは、宗教的儀式によって行われたのだ、というものです。つまり神々への捧げものとしたのです。妥当性は高いと言えますが、それはあくまで解釈であり、本当にそうであったのかどうか、確かめる術はないのです。


1.3.神像と碑文

大陸のケルト人は、紀元前1世紀までにローマの支配下に落ちました。ブリテン島のケルト人も、紀元1世紀にローマに支配されました。その結果、ケルト人は自分たちの神々を、ローマ風の人型の像として作り、さらにアルファベットによって献辞を刻み込みました。ケルト人の神々の名前は、多くの場合ギリシア・ローマの神としての名前に対する称号として記されています。例えば「ユピテル・タラヌクスへ」という献辞があります。ユピテルはローマの雷神の名前であり、タラヌクスというのがケルト人の雷神の名前と考えられています。同様の名前にタラニスというのが上述のルカヌスの記述に残されています。"taran" がケルト語で「雷」を意味する語であり、実際アイルランド語では"torann" がこれに相当する語です。


1.4.島嶼ケルト人の文字記録

上記の資料よりかなり後代の、中世のものとなりますが、島嶼ケルト人、すなわちアイルランド、ウェールズの文字記録があります。両者には散文・韻文両方による神話や伝説の記録があり、またアイルランドには法文の記録も残っています。特にアイルランドの神話・伝説の散文資料は豊富であり、我々は主にこれらを通してケルト神話を知ることができています。一方、大陸ケルト人の神話・伝説は知られていません。彼らは元々文字を用いず、またローマに支配されてしまい、次第にローマ化していったためです。


2.資料の問題点

完璧な資料というものはどこにも存在しません。ケルト人に関する資料も同様です。これらの資料の問題点について、各項目で記述しましたが、もう一度示しておきましょう。

まずギリシア・ローマによる文字記録ですが、これは彼らのバイアスを通したものであるという点に注意しなければなりません。つまり、ガリア人はメルクリウスを最も篤く信仰した、とカエサルが書いていても、我々はそれを文字通り信用することはできません。またルカヌスが『内乱記』の中で、ケルト人は転生を信じていたと書いていますが、これもまた安易に受け取ることはできません。どんな資料でも同じですが、注意して取り扱わなければならないのです。

また、島嶼ケルト人の文字資料を、その他の有史以前~古代の大陸ケルト人の資料と一緒くたにすることは、しばしば批判されます。なぜならば、それらは時代も、場所も異なるからです。そのうえ、最近では島嶼ケルト人は大陸ケルト人と遺伝的つながりがないことが証明されつつあります。そのようにかなり大きな隔たりのある二つの集団についての資料を一緒くたに扱うのは、想像力の刺激になりこそしますが、学問的見地からはかなり難しい道となるのです。


さて、最後は少し専門的な方向に偏りすぎましたが、いかがでしたか。我々の知識は、様々な偶然と、大昔から続く人類の営み、そしてそれらの資料を発見し、整理してきた先人たちの苦労の上に成り立っているのです。なぜ我々が遥か昔のケルト人について知ることができているのか、遥かな時の流れ、人類史の雄大さ、そういったことに思いを馳せていただければ幸いです。それではまた。


参照文献:
木村正俊、『ケルト人の歴史と文化』、原書房、2012年
T.G.E. パウエル、笹田公明訳、『ケルト人の世界』、東京書籍、1990年[1958]
サイモン・ジェームズ、井村君江監訳、『図説ケルト』、東京書籍、2000年[1995]
ミランダ・グリーン、井村君江監訳、『ケルト神話・伝説事典』、東京書籍、2006年[1992]

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