アイルランド_黒板書き

アイルランド神話・伝説用語辞典

どうもこんにちは。はじめましての方ははじめまして。

神話や伝説を読んでいて、詰まったり混乱したりすることは誰しもあると思います。私も何度もあります。今でこそ、アイルランドの神話や伝説に関して多少の知識がつきましたが、触り始めたころは「これ何?」と「なんで?」の連続でした。その疑問は、解消すれば快感へと変わるものですが、一方で伝承文学のとっつきづらさの原因でもあります。

しかし、そのせいでアイルランドの神話に触れなくなる人が出てくるのはもったいない。もっと多くの人に読んで欲しい。1人でもアイルランドの伝承を読む人が増えて欲しい。そう思ったので、アイルランドの神話によく出てくることばについて簡単に説明を行ってまとめてみました。

人名は膨大なので、ここでは取り上げません。また別の機会にやるかもしれません。動物については、個別に記事にしているものもいくつかありますので、そちらをご参照ください()。

ここで扱う用語は、以下のように分類してみました。

◆世界観
◆集団
◆文化
◆社会
◆地形
◆地名
◆その他

もちろん分類というものはいつでも恣意的で、そこには収まりにくいものが出てきます。なのでなぜここにこれを入れたのか?と思うところもあるでしょうが、そのような事情なのでご了承ください。


◆世界観
 神話とは元々民族の世界観の表明であるが、中でも世界観全体に関わる用語をここに分類した。

・創世神話
 アイルランド神話には世界創造の神話がない、とはしばしば言及される事実だ。アイルランドに創世神話自体がないわけではないが、それはアイルランドの神話、すなわち土着の神話ではない。どういう意味かというと、彼らの創世神話は、『聖書』における「創世記」なのである。実際、アイルランドに土着の創世神話があったかどうか、確かめる術はない。あったかもしれないし、なかったかもしれない。
 広い意味での創世神話は「侵略の書」である(拙ノート参照)。「侵略の書」は六つの部族が入れ代わり立ち代わりアイルランドにやって来ては滅ぶことを繰り返す偽史的な神話であり、最終的に「ミールの息子たち」(下記項目参照)がアイルランド人の祖先となる。この神話は「ノアの洪水」をベースとしており、その上に独自の人類起源神話を接ぎ穂する形になっている。六つの部族の最初の一つはノアの洪水の前にアイルランドに来て、ノアの洪水とともに滅ぶ。またこれら六つの部族は、それぞれノアやアダムといったヘブライ語聖書に連なる血統を持つこととなっているのである。
 「侵略の書」は国づくり神話でもあり、これらの部族がやってきては平原を切り開き、湖を作るという言及が繰り返し行われる。

・サイクル (cycle)
 近代以降、アイルランドの神話は「サイクル」という単位によって大別されている。サイクルには「神話群」「物語群」等の訳語が充てられることもある。サイクルは「神話サイクル」「アルスターサイクル」「フィアナサイクル」「王たちのサイクル」の四つである。
 神話サイクルは人間の時代より以前の神々の時代、アイルランドがその後の人間の知るアイルランドとして確立されるまでの時代である。中心となるのはトゥアサ・デー・ダナン(下記項目参照)であり、「マグ・トゥレドの戦い」、「侵略の書」などの物語がある(あらすじ集①参照)。不思議な魔法が用いられる、魔法使いのサイクルとも言える。
 アルスターサイクルは人間の時代であり、紀元0年付近を舞台とするとも言われる。アイルランド北部のアルスター国、偉大なる王コンホヴァル・マク・ネサの治世、英雄クー・フランが中心となって活躍する。「クアルンゲの牛捕り」「エウェルへの求婚」など。英雄的な戦いのサイクル。
 フィアナサイクルはアルスターサイクルよりも後、3世紀ごろと言われる。高王コルマク・マク・アルトの治世、アイルランド東部レンスター国を主な舞台とし、英雄フィン・マックールの率いる、所謂ワイルド・ハントのような、放浪の戦士団の物語。「常若の国のオシーン」「ディアルマッドとグラーニャの追跡」など。詩情と恋愛ロマンスのサイクル。
 王たちのサイクルは歴史上・伝説上の諸王についての神話的物語のサイクルである。中心人物も時代もバラバラなので、一人の王で一つのサイクルとするべきだ、という指摘もある。「霊の幻視」「コンの息子アルトの冒険」など。

・暦
 アイルランド、スコットランド、マン島においては、暦は四つに分けられている。一年の初めはサウィン (Samain) であり、10月31日の日没後から始まる(ケルト人の一日は日没から始まる)。この日は現世と異界の境界が曖昧になり、異界の死者や怪物などが現世を跋扈する。そのため人々はそれらと同じ外見に扮し、襲われないようにする。これがハロウィーンの起源であると言われる。またサウィンは収穫の感謝祭としての側面も持つ。
 次の節目は2月1日のインボルグ (Imbolc) であり、これは女神ブリギッドの祭りであると言われる。この日は家畜が乳を出し始める時期である。この日は春を招来する祭りでもあり、神聖な火が焚かれる。
 三つ目の節目は5月1日のベルティネ (Beltaine) である。これは夏の始まりを寿ぐ祭りであり、岡谷山の上で神聖な火を焚き、家畜の浄めが行われる。ベレノス (Belenos) という大陸ケルトの神が知られており、この祭りはこの神に捧げられるものであるという説がある。
 最後の節目は8月1日のルグナサド (Lugnasad) である。これはトゥアサ・デー・ダナンのルグ神に捧げられる祭りであり、豊かな収穫を祈願する祭りである。この日は皆で集まって祝宴が行われ、また結婚の申し込みを行うのも吉とされた。

・シー (sídh)
 元々は「丘」を意味するアイルランド語。アイルランドには丘が多いが、その下には異世界があり、地上を退いた神々(トゥアサ・デー・ダナン)がそこに住んでいるとされている。故にシーは「異界」をも意味する。さらに、彼ら神々は後に妖精へと身を落としたとされており、シーは「妖精」の意味も持つ。加えてこの語には「平和」の意味もある。

・コーゲド (cóiced)
 「5分の1」を意味するアイルランド語。アイルランドの神話的世界観では、アイルランドは五つの国に分かれており、その一つ一つがコーゲドである。その内訳は中央のミーズ(アイルランド語でミデ)、北部のアルスター(同じくウラド)、西部のコンノート(同じくコナハト。アイルランド語名の方が知られている)、東部のレンスター(同じくラギン)、南部のマンスター(同じくムム)となっている。しかし伝承の中ではミーズは特定の地名以外に言及されることはなく、国としては存在しない。あるいはミーズを除き、マンスターが二つに分けて数えられて五つとなる場合もある。ミーズを除く四つはそれぞれが一つの大国であり、現代まで続くアイルランドの地方区分に対応している。地名の各項目も参照。

・高王 (ard-rí)
 コーゲドの中央であるミーズのさらに中心タラ(アイルランド語でテマル。下記の地名の項目参照)に王宮を持ち、全アイルランドを支配する王たちの王。伝承の中では〈百戦〉のコンやその孫のコルマク・マク・アルトなどが有名である。しかしこの王位は観念上のものでしかなかった。これを自称する王は歴史上存在したものの、実際に全土を支配した王は1人も存在しない。余談だが、全アイルランドが一つの政体のもとに統一支配されたのは、イングランドの植民地となった時代(1801-1922)のみであり、イングランドからの独立後も北部地方は英国領として残留したため、アイルランド人によってアイルランド全土が統一支配されたことは未だかつてない。


◆社会
・王とトゥアス (rí; túath)
 アイルランドには無数の小さな国あるいは部族である「トゥアス」が存在し、そのそれぞれに王がいた。その規模は緊急時に700人から3000人ほどの軍を出すことができる程度のものだった。健康な成人男子がほぼ全て戦士であったとすると、全体の人数はそのおよそ3倍ほどだろうか。また、その数は5世紀から12世紀までの間、およそ150程度であまり上下しなかったと考えられている。伝承の中に幾人もの王が現れるのは、いくつものトゥアスの一つ一つに王がいるためである。これは神々の時代においても同様である。
 王はいかなる意味でも無欠の存在でなくてはならず、例えば身体に欠けたところのある王は王たる資格なし、とされた。神話の時代において〈銀の腕〉のヌァザが王の資格を失ったのはこのためである。また王にはその地位の高さに応じて厳しいゲシュが課された(文化の「ゲシュ」の項参照)。「ダ・デルガの館の崩壊」においてコナレ大王が破滅したのもこのような厳しいゲシュのためであった。

・戦士
 アイルランドの男は皆戦士である。というのは誇張にしても、戦闘のできる男子はほとんどすべて戦力として数えられていたであろう。アイルランドにおける戦士の重要性は、ferが「男」と「戦士」の両方を意味するという事実からも推察できる。「戦士」を意味する単語がアイルランド語で非常に豊富である、という事実もその証左である。次の「詩人」の項も参照。

・詩人
 アイルランド社会において、「名誉」は何よりも重んじられ、特に戦士にとっては、時に命よりも大事なものであった。その重要さは、各人の名誉が具体的な数値によって格付けされていたことにも表れている(拙記事『「名誉の値段」――初期アイルランド社会の特徴的制度』参照)。そしてこれを左右することができたのが詩人であった。
 アイルランドでは専門の訓練を受けなければ詩人として認められなかった。詩人は賞賛詩によって名誉を高め、逆に風刺詩によってその名誉を傷つけることができた(不当な風刺詩に対しては撤回と補償を求めることもできた)。これは王などの高い地位と権力を持つものでさえ例外ではなく、これによって横暴な振る舞いがある程度抑制されたと考えられている。
 またこの職能のため、詩人は芸や技術によって生きるその他の職業(職人や芸人など)と比べて高い地位を持っていた。フィリ (fili) とバルド (bard) という二種類の詩人階級が存在し、前者の方が高い地位を持っていた。後者は英語bard「吟遊詩人」の語源である。
 「クー・フランの死」において、奸計によって詩人がクー・フランに槍を要求した。詩人の求めに応じないことは、吝嗇の謗りを免れない。詩人はクー・フラン本人の名誉、彼の親族の名誉、そして彼の国アルスターの名誉を傷つけると言って脅し、彼に三度槍を要求した。この罠が彼の馬、彼の御者、そして彼本人の命を奪うこととなった。

・ドルイド (druí, druid)
 ケルト人社会に共通して存在する知識人階級。その役割は聖職者と法律家の両方を兼ね備えており、法律に関する事柄では王よりも高い発言権を持った。カエサルによればその修行には無数の詩を暗唱し、20年もかかったという。とはいえ、ブリテン諸島におけるドルイドが大陸のそれとどれほど同じであったかは疑問視する向きもある。そしてまた、アイルランドの伝承の中では、ドルイドは単なる魔法使いとして扱われることも多い。

・里子
 アイルランドでは、生まれた子供は、特に異なるトゥアスの家庭へ里子として出し、トゥアス間の繋がりを強化するのが通例であった。例えば英雄クー・フランは、フェルグス・マク・ロイヒをはじめとしたアルスター中のエキスパートの養育を受けたとされている。

・身分・階級
 意外かもしれないが、アイルランドは極めて身分・階級的な社会だった。まず、自分の権利と自由を持つソイル (sóer) という階級と、奴隷や農奴のような権利と自由を持たないドイル (dóer) という階級に大別される。権利と自由を持つソイル階級の中にはさらに、特権を持つネヴェド (nemed) とその下とに分かれた。ネヴェドのなかには王、貴族、聖職者、詩人がいた。権利と自由のないドイル階級は、自分の意志で物を売買したり契約を結んだりすることもできなかった。
 またそれぞれの階級には「名誉の値段」(lóg n-enech) という金額が決まっており、何らかの侵害行為があった時、被害者が受け取る補償額を決めていた(拙記事「名誉の値段」参照)。しかし、極めて階級的な社会である一方、身分の上下も比較的容易に起こり、その身分にふさわしくない間違った行いをすると、身分が落ちることもあり、逆に身分の上昇もあり得た。

・価値体系
 アイルランドにおける価値体系は牛を基本とした。特に乳の出る雌牛は高い価値を持ち、それに比べて仔牛や雄牛の価値は低かった。他にもいくつかの価値単位があるが、その一つに女奴隷がある。クマル (cumal) は女奴隷一人分の価値である。乳の出る雌牛一頭分に相当するボー・ムリフト (bó mlicht) という単位もあるが、1クマルはこれの3倍に当たる。「クアルンゲの牛捕り」冒頭のメズヴとアリルの寝物語において、二人が己の財産を比べる時に、その価値を女奴隷に換算しているが、それはこのクマルである。「メーヴ所有の群れの中には女奴隷一人分の値打ちがある見事な雄羊がいたが、アリル所有の群れにも同等の一頭が見つかった。……メーヴの持ち馬の中に女奴隷一人分の値打ちがある見事な種馬がいたが、アリルの持ち馬にも同等の一頭が見つかった」(キアラン・カーソン、栩木伸明訳『トーイン クアルンゲの牛捕り』pp.12-13)また、ボー・ムリフトの半分に当たるシェード (sét) という単位も標準的なものとして用いられる。


◆集団
・トゥアサ・デー・ダナン(ダーナ神族)(Túatha Dé Danann)
 アイルランド人が崇拝したと考えられている神々。日本語では「ダーナ神族」と書かれることが多いが、この表記は完全に正確ではない。というのも、「ダナン」の部分が何を意味するのか正確には不明だからである。
 この神々は魔法使いであり、北の四つの島の四つの街で魔術を学んでいたとされる。そして雲に乗って、あるいは船に乗ってアイルランドにやって来た。その際四つの街から一つずつ宝物を持ってきた。
 アイルランドに着くや、邪悪な「フォウォーレ族」と結託し、先住部族の「フィル・ボルグ」を倒し、アイルランドを支配したが、その後アイルランド人の神話的祖先である「ミールの息子たち」に敗北し、地上世界は「ミールの息子たち」に明け渡し、地下世界を領有するようになった(「シー」の項参照)。しかし地下へ退いてなおその存在感は強く、伝承の中では人間の時代になっても度々登場する。
 神話サイクルの物語は彼らトゥアサ・デー・ダナンの物語である。「マグ・トゥレドの戦い」「侵略の書」「エーディンへの求婚」「リールの子供たちの悲劇」など多数の素晴らしい物語がある(あらすじ集参照)。

・トゥアサ・デー・ダナンの四つの宝物
 トゥアサ・デー・ダナンが北の四つの島から持ってきた宝物。一つは王を選ぶ石「リア・ファール」(Lía Fáil)。王となるべき人物がこの石の上に足を乗せると、石が叫び声をあげるとされる。この石とされる石は現在もアイルランド、タラの丘に存在する。アイルランドは「ファールの島」とも呼ばれる。
 二つ目はルグ神の槍。その槍はいかなる者も殺し、そしてこの槍を持ち手に対してはいかなる者も抗することはできなかった。(余談だが、この槍の名前が「ブリューナク」であるという誤りが、つい最近まで日本語版ウィキペディアに載っていた)
 三つ目はヌァザ神の剣。一度この剣が鞘から抜かれれば、いかなる者もこの剣から逃れることも、またそれに抗することもできなかった。
 四つ目はダグザ神の大釜。この大釜の中身は尽きることがなく、どんな軍隊の腹も満たすことができた。この種の大釜はケルト圏の伝承に頻出し、アーサー王伝説における聖杯との関連が指摘されている。

・妖精
 アイルランドの神話において、妖精とはトゥアサ・デー・ダナンのことを指す。「シー」の項も参照。

・フォウォーレ族 (fomóir, Fomoire, Fomorach)
 古くからアイルランドに住み着く神々。その姿は一本腕・一本脚であるとか、あるいは巨人であるなど、悪魔めいた恐ろしげな姿をしている。端的に言えばかたき役。
 彼らは「侵略の書」において次々とアイルランドに来寇する諸部族に戦いを仕掛け、あわよくば支配しようと目論む。「マグ・トゥレドの戦い」では、トゥアサ・デー・ダナンとの間に壮絶な戦いを繰り広げた。邪眼のバロル、テスラ、インジェッハなどの首長がいる。
 彼らの住む場所は通常ロッホランという異界である。彼らの名前フォウォーレは「海の下」(fo-muir) に由来するという説があり、またロッホラン (Lochlainn) も「湖」(loch) とlinn「湖、海」に由来する。そしてテスラ (tethra) は「海」を意味する。これらのことから彼らは水界と大いに関わるものと考えられており、諸民族の竜や海の怪物などと同じ、混沌をもたらす原初の破壊的な力であると思しい。フォウォーレ族は人間の時代になっても時折現れる。また、フォウォーレ族は後にアイルランドを襲ったバイキング、すなわち北欧人と同一視されるようになった。

・ミールの息子たち (Mac Míled)
 「侵略の書」などに語られる、アイルランド人の神話的祖先。スペインのミール (Míl Espáine) を祖とする一族。その名前は「戦士」を意味する (cf. En. military) が、この事実はアイルランド人の戦士的特質に合致する。「スペイン」は神話的には死者の世界を意味すると考えられている。
 ミールの息子たちは船団でアイルランドにこぎ着け、トゥアサ・デー・ダナンと戦い、これに勝利した。しかしトゥアサ・デー・ダナンを滅ぼすことはできず、彼らが魔法により作物の実りや家畜の乳などを制御したため、交渉を行った。その結果ミールの息子たち、すなわち人間が地上を取り、トゥアサ・デー・ダナンは地下世界を取った。「シー」の項参照。

・フィル・ボルグ
 「侵略の書」において、トゥアサ・デー・ダナンの前にアイルランドを支配していた人々。5人の首長がおり、それぞれが別れ住んだ5つの領地がコーゲドとなった。またフィル・ボルグはさらに3つの集団ガーリオン、フィル・ドムナン、フィル・ボルグに分かれる。彼らはアイルランドで初めて王位というものを確立し、またアイルランドで初めて切っ先のついた武器を用いたとされる。またエオハズ・マク・エルク王の御代には、過ちが行われることはなく、雨は降らずにただ露のみが地上を潤し、そして収穫の得られない都市はなかった。
 彼らは来寇後もフォウォーレ族に襲われなかったが、マグ・トゥレドの一度目の戦いにおいて、トゥアサ・デー・ダナンとフォウォーレ族の連合軍に敗れ、コナハト地方とアラン諸島に逃げたとされる。

・赤枝の戦士団 (Cráebrúad)
 アルスターサイクル、アルスター国のコンホヴァル王の戦士たちの総称。クー・フラン、コナル・ケルナッハ、ロイガレ・ブアダハなど、アルスターの名だたる英雄たちを擁する。その名前はコンホヴァル王が持つ三つの館のうちの一つ〈赤枝〉(Cráebrúad) に由来する。〈赤枝〉は館自体を指す場合と、そこに屯する戦士達を指す場合がある。「赤枝の戦士団」という表現自体は恐らく原文には見つからない。またこれゆえにアルスターサイクルは「赤枝のサイクル」とも呼ばれる。

・フィアン(フィアナ)(fían; fíanna)
 フィアンとは、狩猟と戦いとを宗とする「戦士団」を意味する一般名詞である。しかしアイルランドの神話においては、特にフィン・マックール率いるそれを意味する。フィアナはフィアンの複数形である。これらフィアンは、外敵からアイルランドを守るものとされていた。しかし現実的には、彼らがいた時代に外敵が来襲したことはないらしい。彼らは夏は狩猟によって森で暮らし、冬になると村々に逗留した。これら戦士団の存在は、ケルト人ではない土着アイルランド人や、地域共同体から追い出された人びとの受け入れ先として機能したとの指摘がある。


◆文化
・ゲシュ (geis)
 個人や集団に課せられる禁忌。しばしば「タブー」と訳されることがあるが、タブーとはポリネシアにおいて集団に課せられる禁止事項であり、厳密に言えば異なる。ゲシュも現実では主として集団に課せられるものだったが、伝承の中では特に個人に課せられる禁忌を指し、そして物語の中でそれが言及されるとき、必ず不可避的に破られ、英雄の破滅をもたらす。その意味において、ゲシュの存在そのものがその個人の破滅の予言である。最たる例は「ダ・デルガの館の崩壊」におけるコナレ大王の死、またクー・フランの死である。

・戦車 (carpat)
 現代戦における戦車 (tank) ではなく、馬に曳かせる戦闘用車両の戦車 (chariot) 。アイルランドにおけるそれは二頭立ての二輪車両である。その車体は木材と金属の両方から成っており、特に高貴な者の戦車は複雑な装飾がなされている。戦車は馬、車体、戦士、そして御者から成る。乗り降りは後ろから行い、前部から「ながえ」と呼ばれる木または金属の棒が延び、先端についた「くびき」が馬のくつわに繋がる。
 高速で走り回り、戦士は投槍や投石などで攻撃する。御者はしゃがみ、手綱で馬をさばく。車体にはトゲ、車輪には鎌といった武装がさらに付け加えられるという描写が伝承に見られる。
 戦車は手の込んだ兵器であるため、これを所持することはステータスの誇示となる。戦車を持つ戦士 (eirr) という語は、伝承の中で、戦士の中でもより階級の高い、優れた、エリート戦士達を意味する語として使われている。
 現実的な実戦における戦車の使用は、大陸では紀元前までのことであり、ブリテン諸島側ではもう何世紀か長かった。古代ローマのカエサル (BC 100-44) は、ブリテン島のケルト人が戦車を使っていたことを知って驚いたという。アイルランドの戦車がいつまで実用的だったのかは資料が不足しているようだが、伝承が文字化されたのはさらにずっと後のことであり、その時点で既に戦車が実用的な兵器ではなく過去を偲ばせるものであったことは想像に難くない。それゆえにこそ伝承に出てくるのだろう。

・馬 (ech)
 馬は牛ほど重い物を引きずることもできないため、生産にはさほど役立たない。その上食餌には気を遣わなければならないため、経済的にはコストの方が大きい。それでもなお、戦場において重要な役割を果たすため、戦士社会であるアイルランドではどの動物よりも重んじられた。また、馬の維持には様々なコストがかかるため、馬の所有はステータスの誇示の役割を果たした。これは戦車も同様である。この事実は「馬」(ech) に由来する人名Eochaid, Echaid, Eochuが伝承の中に頻出することからも推察される。例えばトゥアサ・デー・ダナンの王ダグザの別名はエオハズ・オラサル (Eochaid Ollathair) 、〈偉大なる父〉エオハズという。

・王権 (flaith)
 アイルランドの神話における王権は重要な概念である。王権は王の家系の所有物ではなく、むしろ王が一時的に保持するもの、と考えた方が良い。そして伝承などを勘案するに、王権は本来トゥアスの領土そのものである大地女神に属するようである。すなわち、王たる男がトゥアス=大地女神と神婚を行うことによって、大地を満たし、豊潤にする、という一種の観念がある。「霊の幻視」(Baile in Scáil) では、伝説の高王〈百戦〉のコンが、トゥアサ・デー・ダナンのルグ神とその傍らの女神から黄金の杯を授けられる。この杯はコンの王権を象徴しているとされる。

・フィドヘル (fidchell)
 チェスや将棋に似たボードゲーム。トゥアサ・デー・ダナンのルグ神がアイルランドにもたらしたと語られる。伝承においてしばしば言及されるが、どうやらこのゲームは王としての資質と関係すると考えられていたらしい。「マグ・トゥレドの戦い」でトゥアサ・デー・ダナンの王位を得る直前にルグがフィドヘルを指している。また「フィンの少年時代の功業」で、身分を隠して傭兵となったフィンが王にフィドヘルの指南をし、偉大なるフィアンの長だったクウァルの息子であると見抜かれる場面がある。

・オガム文字 (ogam)
 アイルランドにおける最初の書き文字。ラテンアルファベットに対応する20種類の文字がある。いくつかの直線の組み合わせによって書かれる暗号的な文字(下図参照)。

(オガム文字。http://linesofthedragon.com/wordpress/druidry-wicca/druidry-101/ogham/より。2018/7/28)
 オガム文字は一つ一つに植物が対応するという説があるが、これは間違いである。オガム文字は主に立石の碑文として残されており、石の角に縦書きで刻み付けられることが多い。石碑は墓碑と土地の所有者を示すものの二通りがほとんどである。
 伝承の中では、特にクー・フランがオガム文字を木に刻み込み、それによって魔法をかける。初期アイルランドで言葉や文字を操ることは魔法として受け取られ、それは詩人がしばしば魔力を持つとされたことにも見られる。

・集会 (oenach)
 アイルランド社会における、祭りと会議と娯楽的競技会とを行う場。宗教的な儀式であると同時に、重要な決定や裁決などが行われ、さらに競争などの競技が行われた。これへの参加は共同体所属の必須条件とされた。伝承の中では、死した女神を埋葬し、その女神を記念する集会を毎年行うようになった、という集会の起源が語られる。

・饗応 (fled)
 アイルランド社会では気前の良さは非常に重視され、吝嗇は何にも劣る汚点と考えられた。アイルランドにおいて、自分の住居を持つ者は、館を訪れた客人を歓待しなければならなかった。客人としなければならない身分の範囲は、主人のくらいが高いほど広かった。王ともなると、原則として権利を持つあらゆる階級を歓待しなければならなかった。そして法によって定められるこの義務に違反すれば、客人の名誉の高さに応じて補償金を払わなければならなかった。また、主従関係のなかには、主人の歓待の義務も含まれていた。
 また、訪れたどんな者にも歓待を行う、ブリウグ (briugu) という身分が存在した。これはある種のインフラ的な機能を果たす代わりに、より高い名誉を得、それは王にも匹敵した。

・数
 特別な数というものはしばしば神話に限らず存在するが、アイルランドに限らずケルト人全体において「3」という数は特別な数であった。またその倍数である9、27、150なども時折出てくる。伝承の中で、三兄弟として出てくるにも関わらず、実際には一人の人物のように行動する(ウシュリゥの息子たちなど)ものがあるが、3という数字によってその人物が強められる、というような思想からきている。
 モーリーグ、すなわち「モーリーガンたち」も同じである。彼女らは死と恐怖と戦いの三人の女神であり、カラスに変身するが、二人ないしは三人で一緒に出てきて、一緒に行動することが多い。そのうちの一人である女神マハは、さらに三人いる。予見者マハ、戦士王マハ、農夫の妻で馬の女神マハである(下記の「エウァン・ウァハ」の項目参照)。「トリスケル」(triskèle) と呼ばれるケルト美術に頻出のパターンも、中心から3つの渦が放射状に描かれるものである。
 また、「7」という数も次によく出てくる。これは恐らくキリスト教の影響と考えてよいだろう。例えばクー・フランは瞳が7つ、手足の指が7本ずつである。想像すると気持ち悪い外見だと我々現代人は思ってしまうが、一方で彼は普段は非常な美男子とされる。

・跳躍
 伝承の中で、英雄たちはしばしば信じられない距離や高さを跳ぶ。あたかも跳躍の能力が戦士としての資質を示すかのように。英雄クー・フランの秘儀の一つは〈英雄の鮭跳び〉(ích n-erred) と呼ばれる跳躍である。

・英雄の分け前 (caurathmír, mír curad)
 宴会において、その場で最も優れた戦士のみが許される、豚肉の最も良い部位。「ブリクリウの饗宴」(Fled Bricrenn) などにおいて争点となるが、現実にも存在した。ただし現実には腕っぷしだけではなく詩の腕前などでも競い合ったようである。

・ブローチ
 外套を留めるピンと環がついたブローチ。最も有名なのはアイルランドの国宝の「タラのブローチ」であり、金と銀からできており、精緻で美しい紋様が刻まれている。

(タラのブローチ)
 伝承の中でもブローチはしばしば言及され、特にエウァン・ウァハの起源物語で取り上げられる(下記「エウァン・ウァハ」参照)。

◆地形
・大地
 アイルランドの女神は多くが大地女神、地母神であると言われている。それは特に、土地そのものが女神と同じ名前を持っているところに現れている。例えば、アイルランド、アイルランド語でエーリゥ (Ériu) 、と同じ名前のエーリゥという女神がいる。彼女はトゥアサ・デー・ダナンがアイルランドを支配していた時代において満たされずに暮らし、ミールの息子たちが来寇した時には彼らと話し、自分と他二人の女神の名前をアイルランドの地に名づけることを約束させた。女神たちはミールの息子たちが繁栄するだろうと言った。これは大地女神が王権を認めたことを示している(「王権」の項参照)。また、死した女神を埋葬した土地に女神と同じ名前をつけ、その女神を記念する祭りを毎年催し、お返しに女神は豊穣をもたらす、というパターンが存在する。

・丘 (bri, céite, cnoc, etc.)
 丘は神話的な地形である。「シー」の項にも書いたように、この下は神々あるいは妖精の世界となっている。またその上も神聖な場所であることもある。例えばアイルランドの観念上の中心であると考えられているウシュネッハの丘の上では、コーゲドの境界線が一点で交わっているとか、あるいはかつて聖なる火がそこで灯されていた、といった伝承がある。
 固有名詞にも丘に由来するものが多い。下記のブレグ (Breg) 平原やシーの一つであるブリー・レース (Brí Léith) 、また地名ではないが女神ブリギッド (Brigit) などは、「丘」を意味するbriに由来すると考えられている。
 アイルランドは標高の高い山が少ないが、起伏は激しく、丘がとても多い。丘を神聖視するのにはそのような理由もあるだろう。
 アイルランドの地名で、クノック (cnoc) という語がついているものがあるが、それはアイルランド語で「丘」を意味する語である。

・平原 (mag)
 アイルランド語で平原はマグ (mag) という。アイルランドの伝承では平原がよく出てくる。一つには戦場としてであり、「マグ・トゥレドの戦い」は「塔の平原」を意味するマグ・トゥレド (mag tuired) における神々の戦争である。もう一つには集会の場としてであり、「マグ・トゥレドの戦い」ではフォウォーレ族が集会を行っている場面がある。
 また一つとしては、異界としての平原である。だだっ広い平原はどこか異世界の趣があるようだ。特に霧で視界がきかないときは道に迷うこともあったらしく、その結果異界に迷い混むというパターンがある。「クー・フランの誕生」などはそれに類するもので、五里霧中の状況で平原の中で迷ったコンホヴァル一行が人を遣わすと、ルグ神とコンホヴァル王の妹デヒテラのいる館に行き合うのである。
 「侵略の書」においては、代わる代わる来寇する諸部族が、国づくりの一環として○○個の平原を切り開いた、それは○○の平原である、などといちいち言及される。これは、平原がアイルランドにおいて主要な地形の一角であることを示していると考えていいだろう。
 平原が神話においてクローズアップされる理由は、アイルランドの植生に由来するだろう。アイルランドは全体として土地が貧しく、木は育ちにくいようだ。その上よく雨が降るものだから、草は生い茂る。その結果視界を遮る樹木の少ない、見晴らしの良い平原が生み出されるのだろう。「エメラルドの島」とも呼ばれるアイルランドの特徴的な自然的地形である。
 平原を意味するマグ (mag) が英語化されたものがモイ (moy) であり、アイルランドの地名にでてくるモイ○○というのは元はこれ。

・山 (slíab)
 アイルランド語で山を表す単語の一つはスリアヴ (slíab) 。現在もアイルランドに残るスリーヴ・○○という地名のスリーヴ (slieve) というのはこれである(スリーヴ・ブルームなど)。アイルランドの伝承の中で、山というのは比較的印象が薄い。そもそもアイルランドに高い山はあまりなく、丘の方が圧倒的によく出てくる。そもそも山と丘の区別自体明確でなく、両方の意味を持つ単語もある(crúachなど)

・河川 (ab, búas, etc.)
 ケルト人は全体として水に対する信仰を持っており、アイルランドの場合も例外ではない。代表的なものは河川であり、特にボイン河(アイルランド語でボアン (Bóann))やシャノン河(アイルランド語でシナン (Sinann))などは女神に神格化されている。
 ボイン河はアイルランドの中で最も大きく、女神ボアンはトゥアサ・デー・ダナンの王ダグザなど主要な神々との間に子をもうけるほど重要な役割を持つ。また、ボイン河の畔にあるとされる異界ブルー・ナ・ボーニャ (Brug na Bóinne) は、ダグザの住居であることも、ダグザとボアンの息子である愛と若さの神オイングスの住居であることもあり、神話に頻出である。この名前は「ボイン河の館」を意味し、実在の石器時代の地下遺跡群を元としている。その中で最も有名なものはニューグレンジの遺跡であり、その地下室は冬至の明け方にまっすぐ光が差し込むよう計算して作られており、太陽崇拝の痕跡としばしば考えられる。
 ボイン河とシャノン河の起源譚は両方とも聖なる井戸と関連付けられており、不思議なことだが、井戸から噴出した水が河となったり、河の水源が井戸であるとされたりすることがある。同じ淡水としての類推から来る神話的観念であろう。
 また河や井戸はそれ自体意志を持つかのように、侮辱を受けると水を噴出させて躍り上がり、その水は侮辱者を飲み込むか、侮辱が撤回されるまで追いかける。また飲み込まれると不思議な力で目や肢などの部位を奪われる。

・井戸
 アイルランドには聖なる井戸の信仰が根強く、無数の聖なる井戸が実在する。井戸は癒しの力、罪の清めの力、反対に裁きの力を持つとされる。また井戸は地下世界と通じる道とされることもある。「河川」の項も参照。

・池・湖 (loch)
 河川や井戸と同じく池や湖もまた信仰の対象である。湖の中に浮かぶ島は異界の立地パターンの一つである。また、湖はロッホ (loch) というが、ロッホラン(「フォウォーレ族」の項参照)は湖の底の異界であるという説がある。このアイルランド語は今でも地名に残り、例えばグレンダロッホは「二つの (dá) 湖の (loch) 谷 (glenn)」という意味である。
 「侵略の書」では、代わる代わる来寇する諸部族が国づくりの一環として、平原と並んで湖を作る。ここで特に、墓を掘っていると湖が噴出した、というパターンが見られ、地下世界=水界という宇宙観が垣間見える。神話における異界は地下世界か水の世界のどちらかであるが、その両者が同じものを指しているとしたら面白い。

・海 (tethra, bóchna, fairrge, etc.)
 他の神話体系と同じく、海もまたアイルランド神話のなかでは重要である。特に海はフォウォーレ族との結びつきが強い。この点は「フォウォーレ族」の項目で既に言及した。フォウォーレ族はアイルランドではなく、トーリー島やヘブリディーズ諸島といった周辺の島に住み、海を渡ってアイルランドに来襲する。海から来襲する脅威という点で、後にはスカンディナヴィアから来る海賊と同一視された。
 海の神格としてトゥアサ・デー・ダナン側に属するのがマナナーン・マク・リールである。マナナーンはブリテン島とアイルランドの間にあるマン島と関連が強く、マン島は彼にちなんで名づけられたと言われる。マナナーンはトゥアサ・デー・ダナンの王ともされることがある一方、トゥアサ・デー・ダナンに確と属しているとも言い切れない面がある。日本の記紀神話にもみられるような、山岳(陸地)の民と海洋の民との対立を思わせる。マナナーンはルグ神との関係もあり、彼に馬や剣、兵を貸し与える。ルグの持つ剣「フリャガルサッハ」(Freagarthach) 、あるいは英語風の「フラガラッハ」(Fragarach) の方が良く知られているが、はマナナーンの剣である。「答える」(fris-gair) という動詞に由来し、「答えるもの」という意味で解釈される。
 海界は異界につながっている。海の向こうにはしばしば楽園があるとされ、日本の常世の国や竜宮城に似ている。実際「常若の国のオシーン」は「浦島太郎」とそっくりで、若き英雄オシーンが常若の国の王女ニアヴに誘われ、常若の国という楽園で王女と結ばれ、楽しく過ごす。しかし故郷の仲間たちが恋しくなり、「絶対にアイルランドの土を踏んではいけない」と言われ馬に乗って戻るが、アイルランドでは300年が経っており、懐かしい人も場所も、見る影もない。ふとした拍子にアイルランドの土に足を付けてしまったオシーンは、300年分の歳を一気に重ね、盲目で弱弱しい老人になってしまう。オシーンはキリスト教の聖人に自分と仲間たちの物語を語り伝え、それ故にそれらの物語が残っている、という。
 「冒険物語」(echtrae) と「航海物語」(immram) という二つのジャンルがアイルランド神話にはあり、それらはいずれも海界の彼方の異界が出てくる。異界は楽園であることもあれば、恐るべき怪物や奇奇怪怪な地形などが現れたりもする。「ブランの航海」(Immram Brain) や「マイルドゥーンの航海」(Immram curaig Maíl Dúin) 、「コンの息子アルトの冒険」(Echtrae Airt meic Cuinn) などがある。これらの諸物語については、松村賢一著『ケルトの古歌『ブランの航海』序説―補遺 異界と海界の彼方』(1997) が非常に参考になる。

・浅瀬 (áth)
 浅瀬は決闘の場所として認知されており、例えば「クアルンゲの牛捕り」におけるクー・フランの決闘の戦場は大抵浅瀬である。

・砦、要塞 (dún)
 砦と聞くと中世ヨーロッパ的な石造りのものを思い浮かべるかもしれないが、アイルランドにおける砦とは居住地を兼ねた要害であり、丘の上に築かれ、周りを土の壁でぐるりと囲った中に建物が造られる。神話中の王や貴族の館は大抵このような砦だったと考えてよい。エウァン・ウァハやクルアハンなども砦である。「エウェルへの求婚」中で挿入されるエウァン・ウァハの起源物語は、この塁壁工事の様子を語っている。エウァン・ウァハのあったとされるナヴァン・フォートの丘の砦跡は現在でも見ることができる。

(エウァン・ウァハ(ナヴァン・フォート)、medievalhistories.comより)
 「マグ・トゥレドの戦い」ではブレス王の圧政下でトゥアサ・デー・ダナンの王ダグザが砦の造営を課されているが、重労働でダグザは疲弊している。ダグザのような地位の高い者に奴隷にさせるような力仕事をさせているという点で秩序が逆転した状態を表している。


◆地名
・アルスター (Ulster, Ulad)
 コーゲドの一つ、北部の国。アルスターの人びとを指すアイルランド語はウラド (Ulaid) で、アルスター地方そのものも指す。アルスターサイクルの主舞台。アルスターサイクルではコンホヴァルが王として治め、彼の戦士の中でも最も優れた英雄がクー・フランである。伝承の中ではコナハトとはライバルのような関係。現在、ほとんどが北部アイルランドとして英国領になっている。

・エウァン・ウァハ (Emain Macha)
 アルスターの首都のような位置づけ。コンホヴァル王の王宮がある。エウァン・ウァハの起源物語は二通りあり、どちらも女神マハ (Macha) に関わっている。この名前は「マハの双子」もしくは「マハのブローチ」という意味であると伝承の中で語られる。
 前者の名前の由来は以下のようになる。ある時アルスターの男クルンフーのところに女神マハがやって来て妻となった。彼女は妊娠した。ある時クルンフーがエウァン・ウァハに集会に行き、馬の競争を見ていたが、「妻はどんな馬よりも速く走れる」と言ってしまい、王の命令で妊娠しているにもかかわらず、マハが競争させられた。マハは競争に勝ったが、双子を産んで死んでしまった。そのためそこは「マハの双子」、エウァン・ウァハと呼ばれている。死の際マハはアルスターの男たちに呪いをかけた。彼らが最大の危難にあるときに、九夜産褥の苦しみを味わう呪いである。
 もう一つの由来は以下のようである。アルスター出身の三人の王、アイドとディソルヴァとキンバイスがアイルランドを交替で統治していた。ある時アイドが死に、娘のマハが自分の番に王位を要求した。しかし女であるが故に拒否され、戦いとなり、マハが勝った。マハが王位にある間ディソルヴァが死に、その五人の息子に対し再びマハが勝利し、彼らは逃げた。マハは残ったキンバイスを夫とした。放浪しているディソルヴァの息子たちを捜すため、マハは醜い籟病患者に変身した。彼女は五人に言い寄り、森の中での供寝に誘い、一人ずつ魔法で縛り上げた。五人をアルスターに連れ戻し、エウァン・ウァハに塁壁を作らせた。その際、マハは塁壁を作る線をマントを止めるブローチの針で引いた。故にその場所は「マハのブローチ」、すなわちエウァン・ウァハという。これは円形の塁壁がブローチの環状部分に見えるということも重ねてあるのかもしれない。ブローチの形については「ブローチ」の項目参照。

・ムルセヴネ (Muirthemne)
 クー・フランが住み、守るとされる平原。鍛冶師クランの家もここにある。アイリッシュ海に面しており、ダンダークとボイン河口であるドロヘダの間にある。その名前は「海の暗闇」を意味するという指摘がある。

・スリアヴ・フアド山 (Slíab Fúait)
 カウンティ・アルマーのフューズ(the Fews, na Feá;「森」)の最も高い地点であり(カウンティ・アルマーはエウァン・ウァハのあるカウンティでもある)、神話に頻繁に登場する。例えばクー・フランが二頭の愛馬〈マハの灰色〉と〈サングレンの黒色〉がを見つけたのはこの地の近くの湖からである。この山はミールの息子たちのひとりフアド (Fuad) にちなんで名づけられた。アレン・マク・ミーナの住居があるのもこの山である。ディアドラもこの場所を通ったことがある。その他にも幾多もの伝説に登場する。

・赤枝 (Cráebrúad)
 コンホヴァル王が有する三つの館の一つ。梁が赤く塗られていたためにその名がついたとされる。この館では武器の持ち込みは禁止され、しばしば王と彼の戦士達が宴会を行った。他の二つは「輝く宝物庫」(Téte mBrec) とこれまた「赤枝」(Cráebderg) であり、前者にはコンホヴァルらの武器が、後者には敵の首級や略奪品が置かれた。

・コナハト (Connacht, Connaught)
 アイルランド西部、コーゲドの一つ。英語ではコンノート (Connaught) というが、他三つのコーゲドと異なり、アイルランド語コナハト (Connacht) の方が好まれる。伝承の中では特に、アルスターのライバル国であり、女王メズヴの支配する敵役として知られている。

・クルアハン (Cruachain, Cruachan Aí)
 コナハトの王宮。非常に大きく壮麗な砦。crúach「丘、山」に由来する。ラスクローガン(Rathcroghan; Ráth Cruachan「クルアハンの砦」)の遺跡が実在する。クルアハンは女神エーダインの侍女クルアフ (Cruachu) ないしクロヒェン (Crochen) にちなんで名づけられたと語られる。

・レンスター (Leinster, Laigin)
 アイルランド東部、コーゲドの一つ。アイルランド語ではラギン (Laigin) 。フィアナサイクルの主舞台。アルスター(ウラド)と同じく、元々はこの土地に住んでいた人びとのことをラギンという。láigen「槍」に由来するという説がある。レンスター王の砦はドゥーン・アリネ (Dún Ailinne) という。

・マンスター (Munster, Mumu)
 アイルランド南部、コーゲドの一つ。アイルランド語ではムム (Mumu) 。アルスターサイクルにおいて、マンスターの王はクー・ロイ・マク・ダーレ (Cú Roí Mac Dáire) 。クー・ロイは魔術師であり、クー・フランのライバルとして度々登場するが、一方で「ブリクリウの饗宴」では戦士達の資質を試験し、クー・フランのそれが最高であると認める役割も果たす。
 東と西で別々にコーゲドの一つとして数えられることもあり、その際は東マンスター (Aurmumu) と西マンスター (Iarmumu) となる。これは実際の政治的・地理的な東西への分極を反映したものと考えられているが、12世紀には実際に北マンスター (Tuadmuma) と南マンスター (Desmuma) に分かれている。
 マンスターの首都はキャシェル (Cashel) 、グレンナウァン (Glendamain) 、クノック・アーニェ (Cnoc Áine) の三つが交替で担っていた。南マンスターの王城はテマル・ルアフラ (Temair Luachra) であり、ここは伝説のクー・ロイ王の住居と考えられることもある。

・ミーズ (Meath, Mide)
 コーゲドの一つ、中央に位置する。アイルランド語ではミデ(Mide) 。その名前も「中心」を意味するmidに由来する。伝承によると、この名前は「侵略の書」のネヴェドの一族のドルイドであるミデにちなんで名づけられた。他の四つと異なり、現在は数あるカウンティの一つに過ぎない。アイルランドの中心であるウシュネッハの丘を擁する。ミーズの王は高王としてタラの王宮に住むとされたが、高王は観念・神話上の存在でしかなかった。

・タラ (Tara, Temair)
 ミーズの王である高王の宮殿の丘。アイルランド語ではテマル (Temair) 。伝説では歴代の高王がこの地に住んだとされる。古来から宗教的に重要な地であり、数多くの儀礼が行われてきた。この地には「トゥアサ・デー・ダナンの四つの宝物」の一つ、リア・ファールが昔からあるとされ、現在もリア・ファールとされる石がこの丘に存在している(「トゥアサ・デー・ダナンの四つの宝物」参照)。「侵略の書」によれば、テマル (Temair) はミールの息子たちの首長の一人エーレウォーンの妻テア (Tea) にちなみテア・ムル (Tea Mur) 、「テアの壁」に由来するとされる。

(リア・ファール、タラの丘。Wikipediaより)
 この地に実在した宴会場は伝承にも語られ、Tech Midchuartaといい、「蜂蜜酒の巡る館」のように訳すことができる。

・ウシュネッハ (Uisnech)
 ミーズにある丘。アイルランドの中心にあると考えられてきて、コーゲドの境界線が一点で交わるとされる場所を示す石がある。その頂上では聖なる火が焚かれてきた。その火を最初に灯したのは、「侵略の書」によれば、ネヴェドの一族のドルイドのミデであり、その名前がコーゲドの一つのミデの由来である。

・ブレグ (Breg, Brega, Bregia)
 ミーズにある平原。英語ではブレギア (Bregia) 。タラやブルー・ナ・ボーニャはこの平原に位置する。その名前は「丘」を意味するbriに由来し、「侵略の書」によればミールの息子たちの首長の一人ブリャガ (Breaga) にちなんで名づけられた。また同じく「侵略の書」によると、フィル・ボルグ族の王妃でありルグの養母でもあったタルティウ (Tailtiu) が森からこの平原を切り開いた。しかしその仕事によりタルティウは死に、この場所で自分を記念する集会を毎年開いてほしいとの遺言に従い、ルグがその場所をタルティウと名付け、集会を創始した(ルグが属するトゥアサ・デー・ダナンが来寇したのがフィル・ボルグの後である、という既述と矛盾する)。

・トーリー島 (Tory Island, Toraigh)
 アイルランド本島の北に浮かぶ小さな島。伝承において、ここはフォウォーレ族の邪眼のバロルの住む島とされる。トーリー島のバロルは民話にも伝えられる。

・ロッホラン (Lochlainn)
 フォウォーレ族の住むとされる異界。loch「湖」、linn「湖、海」に由来すると考え得る。海の下に位置するという説もある。フォウォーレ族がその性質故に海賊と同一視され、それに伴いロッホランもスカンディナヴィアと同一視されるようになった。

・常若の国(ティル・ナ・ノーグ)(Tír na nÓg)
 直訳すると「若さの国」。海の彼方にある不老不死の楽園であり、「常若の国のオシーン」で英雄オシーンが招かれる。
 この他にも、「生命の国」(Tír na mBéo) 、「女人の国」(Tír na mBan)、「約束の地」(Tír Tairngire) といった似たような名前の異界があり、どれも海の彼方に座する。


◆その他
・島嶼ケルト/大陸ケルト
 現実のケルト人は、居住地域によって大陸ケルトと島嶼ケルトの二つに大別される。島嶼ケルトとはブリテン諸島(ブリテン、アイルランド、その他周辺の諸島)に住むケルト人を指す。伝承を文字として記録して残したのは、島嶼ケルトの一部の集団のみである。かつては島嶼ケルトは大陸からの移住によって発生した集団であると言う説が定説だった。しかし近年の考古学的、そして分子生物学的研究により、大陸ケルトと島嶼ケルトとの間には遺伝的繋がりは希薄であるという説が濃厚になってきた。
 ここで改めて持ち上がるのが、「ケルト人とは何か?」である。近代以降に用いられる「ケルト人」という言葉は、特に言語学的文脈で持ち上がってきた用語であり、古代における「ケルト人」に相当する語が指す範囲は、現在我々がこれを適用する諸集団のうち、ごく一部を指す。つまり、我々が「ケルト人」と呼び指す人々の多くは、自称としても他称としても「ケルト人」ではなかったのだ。彼らはガリア人だったり、ブリトン人だったり、カムリ人だったり、ヒベルニア人だったり、ゲール人だったりしたのだ。
 ケルト人を規定するのは難しい。なぜならば、我々がケルト人と呼ぶところの人びとの文化は、地域によって異なっており、しかも隣接するゲルマン人やローマ人のものと似通った部分も多々あるからである。例えばケルト人は優れた騎手であるが、それはゲルマン人も同様だ。結局のところ、今我々が「ケルト人」と呼ぶ人たちの確実な共通点は「ケルト人はケルト諸語を話す人々である」ということだけとなる。
 そこで、遺伝的にも異なり、文化的にもバラつきのある諸集団を「ケルト人」という一つの枠組みの中に入れておくことに、一体どういう意味があるのか、という疑問も生じてくる。これからこのケルト人という概念をどのように考えていくべきか、またその区分が何を意味することになるか、ケルト研究はまだまだこれからといった様相を呈している。


参照文献:
James MacKillop, A Dictionary of Celtic Mythology, 1998.
Fergus Kelly, A Guide to Early Irish Law, 1988.
その他各伝承

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