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まほうがとけるまで #1

17時30分 こず枝・ミコヤナ

◆みそら地区/イエローライン/ナレーション:リエフ

「やだ、もう……」
 急ぎ足で病院へ戻りながら、こず枝さん【23歳/女性/看護婦】は腕時計を見ます。こず枝さん、更衣室にマンションの鍵を忘れてしまい、慌ててバスを降りました。忙しかったせいか、うっかりしてしまったようです。春コートのボタンを外し、暑そうにあおぎます。
 日の暮れかけたイエローラインの歩道を行くこず枝さん。その背後からクラクションが鳴りました。思わず音の方を見るこず枝さんを追い抜いて、空色のタクシーが停まります。助手席の窓から、見覚えのある顔。
「さっきはどうも。病院なら乗りますか?」
 こず枝さんが受け持つ患者さんのご家族です。
「お代はいいっすよ。俺も戻るとこなんで」
「それじゃあ、お願いします」
 後部座席のドアが開き、こず枝さんを乗せた車は病院へ戻る道を走り始めます。
「あなたも、忘れ物とかですか?」
 こず枝さんが尋ねます。
「え? いやあ、俺は。兄貴に謝ろうと思って」
 この人はサンジュさん。こず枝さんが受け持つシアンさんという患者さんの弟さんです。今日はシアンさんの付き添いで、今後の方針についての相談をしていらっしゃいました。
「あの後、俺へそ曲げちゃって。空気悪いまま帰っちゃったから」
 胃の腫瘍で入院しているシアンさん、クローン臓器の順番待ちを辞退され、終末期の緩和ケアに移行すると決めました。それが、弟さんには納得がいかなかったのでしょう。
「……兄貴、どうして諦めちゃったんでしょうね」
 こず枝さん、口元に手を当てて思案顔です。
「諦めた、というか」
 こず枝さんは、シアンさんが病状を、ずっと冷静に捉えていたことを知っています。今朝、車に乗りたいと零していたシアンさん。それは、このまま入院を続けても叶うことはありません。
「もっと、前向きなんだと思います」
「いやいや」
 サンジュさん、棘のある笑い声をあげました。
「兄貴は納得してて、そちらはそれで進めれば良いですよ。俺の気持ち置いてきぼりじゃねーすか」
 こず枝さんは、この二人がお互いを大事にしていることを知っています。兄弟と言い合う彼らが、実は血縁にないことも。
「それは……」
「兄貴、めちゃくちゃ格好良い人なんですよ。憧れてるんです。そういう人に負けて欲しくねえなって、俺のワガママすかね」
「ワガママなんかじゃ!」
 こず枝さん、思わず大きな声を上げてしまいました。
「ワガママじゃないです。シアンさんに会ったら、まずそれを伝えてあげてください。きっとお話し聞いてくれますから」
 ミラー越しの視線を感じながら、こず枝さんはたどたどしい言葉を紡いで行きます。
「そのあと、シアンさんのお話を聞いてみてください」
 フロントガラスの向こう、病棟の屋根が見えてきました。
「シアンさんは、病気との付き合い方を変える、という選択をしたんだと……私は、思います。ケアの仕方によっては、ご自宅に戻ることができますから」
「……そっか」
 サンジュさんが、片手で首の後ろを掻きました。
「ちゃんと話し合う、って感じじゃなかったからなぁ。さっき」
 車内の雰囲気が和らいだように見えます。
「兄貴と腹開いて話してみます。ありがとう」
 こず枝さん、座席で恐縮したように縮こまりました。
「着いたらどこ降ろしましょう?」
「ああ、ええと、ロータリーで停まって貰えると助かります」
「かしこまりました」
 空色の車は、日暮れの並木を抜けて、病院のロータリーへ向かっていきました。
 舞踏会が始まるまで、もう少しです。


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