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デザイン思考とタイムマシン経営

みなさん、はじめまして。パシフィコ・エナジー株式会社の水田洋一郎(みずたよういちろう)と申します。2023年の4月より当社のCOO(最高執行責任者)を務めております。

この場をお借りして、私の日本のエネルギー市場・再エネビジネスに対する思いなどをお話させて頂ければと思います。

まず、簡単に自己紹介ですが、私は転勤族の父の元に生まれ、かつ、自身も寮に入ったりなどもしていましたので、上京するまでの18年の間に九州の内3県、四国地方、中部地方、中国地方の各都市を転々としておりました。また、転校に加え、幼稚園からある附属系列の中学校、それとは別系列の中高一貫校の高校に進学することになりましたので、常に「ヨソ者からはじまって、どうやって既に出来上がっているコミュニティに受け入れてもらうか」というチャレンジを繰り返した幼年期・青年期だったと思います。

環境が変わるたびに本当に色々な苦労がありましたが(それぞれユニークであって、似たような境遇の方とお話しても、苦労や感じたことは人それぞれ微妙にニュアンスがことなるかもしれませんが)、それを突き詰めると価値観の相違とどう向きあうかというところに行きついくのかなと思います。行った先々における、文化的価値や優先度は、そのローカルにおけるヒエラルキーや考え方に従っていて、まずそれを自らが受け入れないと決してコミュニティには受け入れられなかったと思います。夫々の地方においては、大の大人でさえも決して普遍的ではないことを断定的なものいいで決めつけることに対して、ヨソ者の自分は幼いながらにも違うなと思うことも多々ありましたが、それを受容しないと生きていけないので、おかしいなと思いながらもなんとなく順応したような感じで生活をしていました。この頃は、立場や考え方の違いを並列的・俯瞰的に見るだけで終わっていて、確固たる自分の考えや思いというのは非常にふわふわした形のないものでした

ただ、高校に入るころには、自分の存在意義や社会に対する問題意識みたいなものを議論・共有できる友人たちに出会うことが出来て、自分の中で明らかに変化し始めたと思います。物事を多面的にみて、何が本質かということを、世界・日本の歴史、文化・芸術、エネルギー政策に至る様々なトピックについて、夜通し真剣に話し合いました(勿論しょうもない軽い話も多かったですが)。この経験は、それまでの人生にはない画期的なものでした。
話は逸れますが、当時は九州にある高校の寮で生活していました。寮は朝晩3回の点呼をはじめ軍隊的な環境ではありましたが、寮の玄関と門が24時間解放されていて、バレない限りは出入り自由でしたので、よく夜中に外にでて、友人と語り合ったものでした。
当時はバブル崩壊後で丁度「失われた10年」といわれていた頃で、アジア金融危機や銀行業界の再編、大手金融機関の破綻・国有化など経済的に暗いニュースが支配的でした。また官僚批判がものすごく熱をこもっていた時期で、過去の検証や建設的な未来像の提示もなく、今の状態は政治家と官僚が悪いという一方的で無責任な議論が主流だったように思います。この時は、世の中の報道はおかしいなと強い憤りをもちましたが、世の中はこうあるべきだという自分なりの考え方を具体化することはできず、無力である自分を前にして、ただ世の中にインパクトがあることがしたい、という思いだけが少しずつ醸成されてきたように思います。

高校の同級生と

その後、大学進学で上京するわけですが、当初2~3年は東京の雰囲気に馴染むことを優先させてしまいました(郷に行っては郷に従えというモットーに忠実だったというのは言い訳です)。当時、大学近くに住んでいましたが、近場には誘惑しかありませんでしたし、すぐに大学に通わなくなりました。毎日飲み会やバイトをして、貯めたお金でバイクツーリングで北海道とサハリンを制覇したりバックパッカーで世界中を旅するなど、学生時代をフルで楽しみました。


北はサハリンまで・・自分より先に世に誕生したおんぼろバイクでツーリングを楽しんでいました。
イスタンブールにて。沢木耕太郎さんの深夜特急をバイブルにトータル30か国ぐらい行きました。

一方で、高校時代の問題意識(世の中にインパクトがあることがしたいという点)を全く行動しないまま放置しているという罪悪感がずっとありました。
そこで丁度就職活動という、人生においては重要なイベントの一つを契機に、改めて問題意識を自分の中で再整理することになります。3年生になり専門課程に入ると簡単には単位をとらせてくれないとなって最低限の勉学には励むようになっていました。その中で、現役の官僚の方が講座をもっていて、その授業で強い感銘をうけました。紙面の都合上割愛しますが、(もしご興味を持っていただいた方は※脚注1をご覧ください)、大きなポイントとしては「組織における意思決定の過ちを回避すること」です。組織・グループとして正しい決定をするには、まず自分がそういう意思決定のプロセスに関与できるような人間にならなければいけないと考え始めます(それも大きなインパクトを与えることができる組織において)。

そのタイミングで、たまたま某総合商社のインターンシップが募集していることを見つけインターンシップでは鉄鋼原料本部で原料炭を扱う部門に1ヵ月弱お世話になりましたが、その際、商社ってこんなにダイナミックなことをやっているんだと衝撃をうけました(当時はまだまだ商社=貿易会社というイメージが主流)。資源が乏しい日本ですが、総合商社は欧米の資源メジャーと渡りあって資源権益を獲得し、日本の資源問題を解決するというビジネスを肌で感じさせて頂き、その規模の大きさ・社会的インパクトの大きさに驚嘆しました。今ではあたりまえの事業投資という概念が、当時は非常に斬新に感じましたし、また、やりがいを感じました。

総合商社でのインターンでお世話になった部署の方々と

総合商社に行きたいと思い就職活動をした結果、三菱商事に入社することとなります。入社時はインターンで垣間見た資源ビジネスなどに携わりたいなどと色々考えましたが、組織の意思決定に対する関心の方が若干上回ったのだと思います。人事面談では俯瞰的にビジネスをみたい、意思決定サイドに近い部署に行きたいという希望を伝えました。その結果、CFO傘下で全社の連結決算や税務、並びに、投融資審査機能を備えた部署に配属されることになりました。同部署は100名を超える大所帯でしたが、非常に優秀な上司・先輩に恵まれ、社会人の基本の基から非常に多くのことをご指導頂きました。また、入社6年目にはニューヨークに赴任させて頂きデリバティブトレーディングのリスクマネジメント業務をやらせて頂き、2011年に帰国し、私が現在お世話になっている業界である再生可能エネルギーをはじめとした国内・グローバルの電力事業等の投融資案件審査業務や、中東のペトロケミカルプラントを保有する日本のナショナルプロジェクト合弁会社への兼務出向、トレーディング会社の非常勤監査役などの経験をし、トータルで15年弱お世話になりました。
当時上司には「仕事の報酬は、仕事」とよく言われましたが、20代、30代は本当によく働いたと思います。ニューヨークでは8営業日内に北米事業会社の四半期の連結決算を〆ないといけず、徹夜に近い残業を毎四半期していましたし、東京の投融資審査をやっている時も年に100件以上の案件を担当していたので、重い案件が重なるとその週は毎日AM3時ごろまで残業しその後1時間ぐらい飲んで帰るみたいな生活が常態化し ていました。
「商社はいかにトラブルシューティングをうまくやるかが仕事」「期待値をコントロールしろ」「物事の8割は準備で決まる」「仕事は追われるものではなく追うもの」「MECE(もれなくダブりなく)」「GRIT(Guts, Resiliency, Intensity, and tenacity →日本風にいうと気合・根性ということなのですが、これは万国共通なのだと」など、記憶に残る名言・アドバイスは挙げるとキリがありませんが、激務を通じて社会人としての基本動作や精神面で大切な考え方を教えて頂きました。また、スキル・経験といったハード面でも、トレーディングやアセットビジネスを通じて得た経験が、巡り巡って今の仕事に繋がってきている(Steve JobsのConnecting the dotsのように)点は非常にありがたいことだと思っています。

会社の全社イベントの幹事もやり1000人以上の社員に来てもらい非常に盛り上がりました。
転職直前でしたが、最高にいい思い出です

そんな中、転機が訪れたのは不惑を前にした2019年の夏です。
30半ば以降、私の中にある色々な疑問や思いが少しずつ大きくなってきていました。激務もあって、それまではずっと盲目的に社内ばかりみていましたが、30代半ばになると、社外で活躍・成功している同世代の友人が羨ましくなってきます。自ら創業した会社をIPOにこぎつけた経営者や、XXビジネスの第一人者として有名人な弁護士、同じようなサラリーマンではあるものの関与した作品が一世を風靡していたり、と様々ですが。私も一生懸命頑張って組織の中ではそれなりにやっているという自負はありましたが、どうしても見劣りしてしまうなと。また、入社時はコーポレートスタッフとしていろんなビジネスに関与し、俯瞰的にモノをみてアドバイザー的な立ち位置で仕事をすることで、その先に「何か」あると強く信じていました。一方で、その「何か」って待っててもこないのではないかと考え始めます。「何か」をつかんだように見える友人や同級生は自分から「機会」を取り「結果」に結び付けています。このままでは自分は世の中に形に残る貢献みたいなことが一切出来ていないなと一種の焦燥感にかられはじめ、このまま組織の為に働き続けていてよいのだろうかという疑問を持ち、転職を考え始めます。

そんな矢先、海外電力事業で投融資案件を見ていた際に対面にいた先輩がパシフィコ・エナジーに転職したというので、話を聞いてみたのです。そうしたら目から鱗の連続でした。
私は2012~15年ごろ(日本のFIT価格は36~40円/KWh)再エネビジネスの投融資案件審査担当をしていました。その当時私は再エネビジネスの永続性には極めて懐疑的でした。その理由は単純で、巨額な設備投資額をFIT売電(固定価格買取制度、実質的に補助金)で回収するビジネスには結局限界がくるだろうと踏んでいたからです。一方で久々に再会した先輩(2019年夏ごろ)がいうには、なんと、世界では3円/Kwhを切る事業者ができていると。日本でも15円/Kwhで開発をしようとしている会社があり、最早、補助金に頼らずとも自立できるところまで再エネビジネスのトップランナーは到達しているんだと知ることになります。
たった5年でのスピード感・イノベーションに強烈な可能性を感じました。ちなみに、日本において15円案件にチャレンジしていたのが、まさにパシフィコ・エナジーでした(ちなみに、その15円案件は2023年1月に無事商業運転を開始しています)。

ちなみに私の好きな本の一つにピーター・ドラッガーの「マネジメント 基本と原則」という本があるのですがそこにはこういうくだりがあります。

「あらゆる組織が事なかれ主義の誘惑にさらされる。だが、組織の健全さとは、高度の基準の要求である。目標管理が必要とされるのも、高度の基準が必要だからである。
成果とは何かを理解しなければいけない。成果とは百発百中のことではない。百発百中は曲芸である。成果とは長期的なものである。すなわち、まちがいや失敗をしない者を信用してはならないということである。それは、見せかけか、無難なこと、くだらないことにしか手をつけない者である。成果とは打率である。弱みがないことを評価してはならない。そのようなことでは、意欲を失わせ、士気を損なう。人は優れているほど多くの間違いをおかす。優れているほど新しいことを試みる。」

当時の私は、まさにドラッカーのいうようなPhilospphyをもつ会社を探していたんだと思います。難易度の高い開発案件と価格破壊に挑戦し成功と成長を続けるパシフィコ・エナジーはまさに「曲芸師軍団」だと思いました。私は安定を捨てて、挑戦することを決めます。

入社後は建中・運開済みの太陽光案件(1.4GW)のアセットマネジメントを統括するポジションを約3年半務めました。ハイスピードなプロジェクト積み上げには当然不測の事態が伴います。トラブルシューティングはなかなか大変で痺れることが多かったですが、その頃はスタートアップ企業から徐々に脱皮していくタイミングでもあり、業務の標準化・システム化などやりがいがある仕事を色々やらせてもらいました。

地域共生は非常に大切なテーマの一つであり、
パシフィコ・エナジー主催で地元との交流会を実施しています。

前置きが非常に長くなってしまいましたが、2023年4月からはCOOとして太陽光のアセットマネジメント部門、電力トレーディング部門、DX部門を統括するポジションを拝命しております。就任にあたっての思いを最後に少しだけお話させて頂きたいと思っています。

日本では失われた30年といった言い方もしますが、私はそもそも失われた30年という言葉が好きではありません。高校時代の回想で「失われた10年」の話をしましたが、これが失われた20年となり、今では30年まで延長されています。今更30年前を回顧してノスタルジーに浸って一体何になるのでしょうか。昔はすごかった、あの頃に戻りたい・取り戻したいと、本当の自分はすごいと言わんばかりに過去に目を向けていて、今の自分をしっかりと見つめなおすことを忘れていないでしょうか。
今後の未来はそういったノスタルジックさをとっぱらって、よりクールに現実的にできることに絞るべきではないでしょうか(例えばロケット・半導体・航空事業など最終製品としての純国産にこだわらず得意分野に特化すべきという考え方です)。
また、一見、二律背反するような物言いとなってしまいますが、未来の目標・ターゲット設定は、いまあるものを所与とせず、こうあるべきだというパッションをもってデザイン思考で考えるべきではないでしょうか(例えば、イーロン・マスクが学生時代にインターネット・クリーエネルギー・宇宙で人類の進歩に貢献すると決め、それに向けてチャレンジしたように)。

私は今、電力産業に身を置いておりますが、業界の今後は不透明性が高いと考えています。自由化の波が押し寄せ、東日本大震災後の原子力発電所のあり方、脱炭素化の流れの中での火力発電所のあり方、再エネの台頭による系統や需給管理のあり方、水素やアンモニアといった新技術をどう発展させていくかなど問題は山積みですが、この問題はどう捉えられるべきでしょうか。

少なくとも、過去への回帰/組織や制度維持を目的とした惰性的継続性の結果、によるもの、パッチワーク的に短期的視点で物事を進めてはいけないと思います。。
例えば、過去投資した設備の費用を回収する為、従来の組織・ルールを維持する為の惰性・帳尻合わせでエネルギーミックスがあってはいけないと思っています。常に「あるべき形」からエネルギーミックスの議論が開始されるべきであって、既存の一部をあきらめざるを得ないという不都合な真実にも真剣に向き合う勇気が必要ではないでしょうか。
正しい定量評価も踏まえた議論の結果、除去を余儀なくされる資産があるかもしれません。また、キャリアパスに影響がある人もいらっしゃるとも思います。ただ、相対的国力が低下している今の日本が、和をもって貴しとなす、に固執するのは限界はないでしょうか。
仮に国のポリシーの都合で不都合な転換をせざるを得ない場合は、それこそ政治と行政の出番ではないでしょうか。国民が得られる富の最大値を獲得するにあたって不利益をこうむらざるを得ない方々がいる場合は、最大限補償をする。こうしたほうが、過去のルール・制度を維持するよりもよっぽど全体の為になるわけです。

欧米諸国におけるエネルギー業界は官民一体となってパッションをもってあるべき未来を設定し、そのデザインを目指した目まぐるしい変革・改革を繰り返しています。また官民一体となって現実的かつクールな視点と金勘定で世界中の枠組みから変えようとしています。欧米諸国が先行して示す姿は日本のあるべき姿として参考になります。再生可能エネルギーと蓄電池は日本で間違いなく必要な電源・資産です。
私には自らエネルギー産業の未来を設定し、それにチャレンジし、結果まで残すという力は残念ながらありませんが、タイムマシン経営で、あるべき姿の青写真を目標に、先行して生み出されたテクノロジーを使って、日本のエネルギー業界に貢献していく、ことは微力ながらできるのではないかと思っています。

そういった観点で、一事業者としても声を上げ続けたい。再エネの価値・潜在力をわかってもらいたい。そういう活動を今後も続けて行きたいと思いますのでご指導・ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いします。

※脚注1:その方は野中郁次郎先生の失敗の本質を挙げ、同書を考察した本を自ら上梓するほど第二次大戦の組織論としての失敗の研究をされておりましたが、たくさん面白い話をして頂いた中で、特に以下の話が強く記憶に残っています。
「真珠湾攻撃で新たな戦略的な成功体験を得た日本軍が、戦艦大和と武蔵を作り続け大艦巨砲主義から抜けられなかったという致命的な戦略の失敗について、その本質は何かというと、旧日本海軍が同組織、並びに軍艦製造の技師・工員の職があぶれるのを旧日本軍が忌避し、惰性に任せ変革ができなかったことにある」という話です。これは当時の私からすれば目から鱗が落ちるような話でした。一般的には「過去の成功体験に固執」した結果という解釈がされがちなこの話なのですが、「組織の維持に固執」した結果という研究です。戦略を立案する層はスーパーエリート層であるわけですが、そんな仕様もない理由でこんな間違った戦略を採ることがあるのかと、大変な衝撃をうけました(大企業でそれなりの期間勤務した今では、これは実は無視できない大きな問題だとわかってきましたが)。


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