自己紹介

最近、フォロワーさんも増えて、何者やねんってのもあるので自己紹介しようと思う。実は以前も近いものを書いたのだけど、その頃よりフォロワーさん増えてるしね。

1981年 6月16日 生まれ(←ここ大事。来月誕生日だよ)
5歳ぐらいからテレビで「ワールドプロレスリング」「4時ですよーだ」「お笑い漫画道場」を見るのが好きだった。その年代にしてはませていた。富永先生のおっぱいで笑ったものだ。

保育園の時にお誕生日会で、「将来の夢は?」という質問をみんなの前で答えるというのがあった。猛烈に嫌だった。
社会に出たことも無いのにそんなもん分かるわけないだろと思ってた。仕方なく「本屋さん」と適当に答えた(時折、適当にサラリーマンと答えるときもあった。ちなみにサラリーマンが何か分かっていない)

その本屋さんと答えたのが、今や本に携わる活動をしている。人生とは不思議なものだ。

小学校の時に上級生から軽いいじめにあう。その時から嫌なこと(人)からは逃げるようになる。でも6年生になるともう関係なくなったけどね。
小学校は強制的にソフトボールをするようになっているので、ソフトボールをしていた。これといって上手くはなかったけど、ランナーコーチは好きだったので、試合に出なくていいからランナーコーチはどうしてもしたかった。
んでこの時、好きだった女の子が広島東洋カープが好きだったので、それから広島東洋カープのファンとなる。かれこれ25年のファン。

中学になると、部活が限られており、かつ強制的にどれかに入らないといけないので、兄がいた陸上部に入る。別に足も速くない。
ただ練習がキツかった。夏休みは毎日12キロ走って、その後クロスカントリー。慣れれば楽勝なんだけど、当時は水分補給禁止でうがいしか許されなかった。なので元々代謝が良すぎる体質なので脱水症状を起こしていた。
あれってちょっとずつ視野が欠けていくんだよ。少しずつ見えてる景色が白くなっていく。もうヤバいときは何度もあったけど、逆になにサボってんだと怒られたり評価を下げられた。

あまりにも様子がおかしいので、病院へ行ったら極度の貧血で即入院となった。輸血が必要なレベルだった。輸血は結局していない。
医者から「よくこれで生活していたね」と言われた。通りで少し歩いただけで息が切れていたものだ。7分ぐらいの登校がゼーゼーといつも言っていた。

高校の時に友達に誘われてバスケ部に入った。自分の意見を持ち合わせていないので、言われたらやるのは子供の時から。
体力は中学の陸上でめちゃくちゃあったので、走り合いなら負けなかった。一年で直ぐにベンチに入った。因みにバスケのルールなど知らない。当時も水分補給は禁止だったので、脱水になり命がけだった。
3年生が夏で引退になり、2年生が中心になった。そしたら仲良かった2年生が急に偉そうな態度を取ってきたので、「たった一年早く生まれただけで偉そうにされるのは謎だな」と思ったので辞めた。年上とか年下とかの概念が嫌いだ。

大学受験を控えたとき、行っていた塾の先生が「学校には寝に行ったらええ。その代わり学校から帰ったら勉強しろ」と言ってたので、その通り実行。4時ぐらいまで勉強して、2時間寝て学校行ってそこから更に寝てた。
でもこれは止めた方がいいと後に思う。学校でしっかり聞いて、家で理解を深めた方が良い。
あと、センター試験に関して、学校と揉めた。「私立に行くのになぜセンター試験を受けないといけない。時間と金の無駄だ」と言った。学校はよく分からない理由で受けるように言ってくる。結局親も巻き込んできたので、親を哀しませるのも嫌なので試験を受けた。

大学は暗黒時代なので、書くことがない。バイトせず馬券で生活費を稼いでいた。9時からWINSにいる19歳はいなかった。こちらは生活がかかっているので命懸けだった。努力も誰にも負けてないと思う。

就職も大手スーパーが受かっていた。就活で受けたのも5社ぐらいだった。「みんな50社や100社受けてて、この人たち何がしたいんだろう」と思った。(僕は大学時代友達がいなくて、ざらに1ヶ月誰とも会話していないってのが結構あった)
大概は最後まで行けたけど、人と話すことが出来ないので面接で落ちてしまう。

地元で介護の仕事につく。なぜ経済学部なのに介護なのか。
それは小学5年生の時に家の裏に目の見えにくいおばあちゃんがいた。うちの家の前にパンの移動販売車が来るので、そのおばあちゃんがパン買いに行ってた。田舎だから田んぼだらけだから田んぼに落ちる可能性もある。なのでうちのおばあちゃんがパンを買いに行くのを手伝ってあげてと言われたので、手伝った。
その時の「ありがとう」という言葉を僕は忘れていなかった。それが介護の世界に入ったきっかけだ。

介護の世界に入った当初は絶望した。決まった時間に有無も言わさず車イスに乗せられ、そして廊下に並べられ運搬するが如く次々食堂に運ばれていく。
食べたらさっさと寝かす。このスピード勝負で遅いと先輩からいじめられる。風呂なんてゆっくり入らせない。そんな事してたら時間が足りない。
これはこの業界に今でも残っている。

長く生きる意味などあるのだろうかと毎日思った。ましてや認知症になると覚えていないからというので暴力を振るっている職員もいた。

でも僕はそのダークサイドに堕ちなかった。だからこそ今、研修講師となり、認知症の疾病感を変えたいと思い活動している。少しでも介護の仕事を楽しめ、利用者が良い暮らしが出来るようにしたいのだ。

とある施設に移った時に、今の仲間と知り合った。それから人生は変わった。それまで人付き合いが嫌だった。早く家に帰りたかった。
でも仲間から人付き合いやご縁の大切さを学んだ。そこから人付き合いが出来るようになったし、人と話すことが出来るようになった。

それから自分の好きなことをやっていこうと思えるようになった。読書もどんどんするようになったし、図書館の構想も始まった。出会いとは分からないものだ。人をこうも変えるのか。

長文にお付き合い頂き、ありがとうございます。
こんな感じの人間です。まだまだ書くことはありますが、読書に戻ります。

どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。

閲覧頂き、ありがとうございます❗ これからも頑張ります❗