「生きずらさ」をわかちあえないことの「生きづらさ」

ジェンダーロールを降りれない

すももさんの以下の記事を読んで「障害としてのジェンダーロール」と題した記事を書きました。

すももさんの元記事は、「男性も女性によって囲い込まれた不利な社会構造のなかにある側面があり、女性も『男性に対して経済的に高望みする』という性役割を降りるべきである」というようなことを主張しています。このあたりは、良くも悪くも、おそらくは結論ありきで書かれたところがあったために、非常にセンセーショナルに受け取られ、元記事は大変幅広い人々の目にふれたようです。

元記事は、ありていにいえば、「女性の生きづらさは男性のせいでありその解消には男性の配慮が必要である」というフェミニズムの主張に対して、「男性の生きづらさも女性のせいでありその解消には女性の配慮が必要である」という主張をぶつけるものでした。これはある意味で男女間の対立を煽りうるもので、実際、元記事を受けて以下のようなブログ記事も書かれています。

この記事の書き手は、「『男性のつらさを理解してほしいのであればまず女性のつらさを理解せよ』という私の主張は私自身にもつきささるブーメランであることも理解している」と譲歩しつつも、「でもさ、いいかげん男の生きずらさ対策として女にケアを求めるのやめなよ」という素直な心情を吐露しています。

ジェンダー論や障害学的な発想がジェンダーに関する問題の解決手段として標榜する、ジェンダーロールを「降りる」という合理的配慮は、多分に社会的強者とみなされる立場に「痛み」を負わせるものです。一方で、合理的配慮という考え方を駆動する、現代社会においては誰もが社会的弱者になりうるし、また実際にある面においては弱者であるかもしれないという事実は、弱者をして弱者のために「痛み」を負わざるをえないという泥沼的状況へと容易に結びつけます。

誰もが社会的弱者でありうる現代において、私たちが採用すべき倫理は、他者にジェンダーロールを「降りる」ことを強制しうるのでしょうか。

自己責任化する「生きずらさ」

先にあげたブログ記事では、「生きづらさ」と表記すべきことばが「生きずらさ」と表記されています。これはおそらくただの誤記でしょうが、この記事ではこのブログ記事にならって、ある種の生きづらさをあえて「生きずらさ」と表記することにしましょう(私自身も、地面が「じめん」なのか「ぢめん」なのかよくわからなくなるような人間なので、この誤記をとくに揶揄するような意図はありません)。

さて、先のブログ記事では、男性の抱える生きずらさに一定の理解をしめしつつも、仮にジェンダーロールを降りたとして不利になるだろう男性の生きずらさを解消するための配慮については、女性の側がおこなう必要はないという趣旨のことを述べています。

ジェンダーロールを降りるという合理的配慮は多分に「痛み」をともなうものですから、男性がジェンダーロールを降りることによって男性の側が相対的に不利になることははじめからわかっていたことです。したがって、この主張はフェミニズム的には間違っていないと言えるでしょう。

むしろ、問題は、男性という集合のなかで一般男性と弱者男性とのあいだにすでに構造的な格差が存在しているという点にあります。それは、すももさんの元記事において示唆される「男性は薄っすら嫌われる」という傾向には人によって強弱があるだろうこと、それに関連して、他者と親密な関係を築いていくことがとくに困難な群が存在するだろうことからも容易に想像されます。

このような、いわばそもそも〈一様でない〉男性という集団に対して、フェミニズムは一様にジェンダーロールを降りることを要求してきました。すでに構造上の困難を強いられている一群にとってそれは、困難を上乗せされることにほかなりません。

私たちは基本的に自らの抱える困難は解消されるべきものだと考えますが、そこにさらなる負担を求められると、自分はすでにこんなに苦労しているのにいま以上に負担を負えというのかと、認知的不協和を強めることになります。これは私の憶測ですが、合理的配慮という考え方を駆動する「現代社会においては誰もが社会的弱者になりうる」という発想は、人々の「自分も社会的弱者である」という確信を強める方向にはたらいており、私たちはこの上負担を強いられるのはおかしいという感情にかられがちです。その結果として、私たちはしばしば、自らを社会的弱者とみとめる人々をして自分たちのために負担を負わしめながら、自分たち自身も社会的弱者であると信じているために、他者から負担を負わされることは拒否するという矛盾した態度をとってしまうのです。

ゲシュタルトの祈り

では、そうして負担を負わされることを拒否する人々を前にして、私たちが採用すべき倫理は、他者にジェンダーロールを「降りる」ことを強制しうるのでしょうか。私は、残念ながら、それはできないと考えます。その公共哲学的な論拠はまだうまく見通せませんが、ひとつの弱い論拠として、他者の生きづらさに共感し、自らその負担をわかちあおうとするおこないの尊さは、そのおこないが主体的な選択であることによると考えるためというのはあります。つまり、倫理や道徳といったポリコレが命じるから助けるということは、命じられなければ助けないといっているに等しく、他者を助けようという思いやりの尊さを損なってしまうのではないかということです。

いずれにせよ、ここで強調しておきたいのは、社会のなかでジェンダーについて困難を抱えている一群の人々のためにジェンダーロールを「降りる」ことを、ポリコレにすべきではないということに尽きます。ジェンダーの問題にかぎらず、他者の「生きずらさ」に共感し、それを「生きづらさ」としてわかちあおうとする態度は、ゲシュタルトの祈りのようなものだと考えると腑に落ちます。

I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.

思うに、あなたの生きずらさは理解したが、私はそれを助けられないというときに返すべき応答は、「助けてくれる人があらわれるといいね」です。それは断じて「自己責任」や「甘え」といった相手を突き放すようなことばではありません。

フェミニズムの背後には、実は、訴えられた社会構造上の困難は社会の成員全員が責任をもって取り組むのでなければならないという強迫的な格率が横たわっているようにみえます。これは強力であるがゆえに致命的な欠陥ともなりうる格率で、実際、そうはいっても助ける余裕がないという人々が援助を断念すると社会の成員としての責任を糾弾されることになったり、本心は助ける余裕がないというだけなのに、訴えられた困難について助けるに値しないものとして切り捨ててしまったりということが起こっています。その結果として現代のフェミニズムは、社会の連帯を呼びかけていたはずが、皮肉にも一部で社会の大きな分断を招いてきました。

生きずらさは誰もがそれぞれ感じているところであり、私たちは誰もがそれを社会における生きづらさとして訴える権利を有しています。同時に、私たちは社会における生きづらさについて、それでも私には関係ないといって負担を拒絶する権利をもつことも認められるのでなければなりません。

そんな一見すると殺伐とした景色のなかで、生きづらさをわかちあってくれる他者に出会えたとしたら。それはとても幸福なことだと思いますし、もしそうでないとしても、助けてくれなかった他者を恨むことのないようにしたいものです。

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