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かこがわ学講座⑤「かこがわ「水の道」紀行」

2022年8月28日(日)10:00~
テーマ かこがわ「水の道」紀行
コーチ 辰巳 公哉さん

加古川は「東播磨のベニス」というくらいまちなかに水路がある。水路の名前は五ケ井用水といい、加古川大堰あたりから水をとり加古川市内を潤す農業用水として加古川の発展に貢献してきた。

加古川の地形について

五ケ井水路は聖徳太子が作ったと言われているが、堤防が出来る前は中津や神吉など市内を縦横無尽に流れており、その流れを利用して水路整備をしていったのではないか。また、市内を取り囲むように野口段丘・日岡段丘という高地があり、段丘の水源確保のためにため池が発達していった。逆にいうと市内にはため池が存在しない。

五ケ井用水について

加古川大堰から流れる五ケ井用水は曇川と合流し市内に流れている。曇川の合流部にある「悪水抜き」は洪水時の排水路。取水は新川井堰、古川井堰から行っており、水路の管理は大野村や今福村など市内の村が管理してる。取水口付近の八幡や神野は無関係。『五ケ井』の由来は管理団体が5つの大きなグループに分かれていたから。取水口の構造は古川井堰(長さ140~200間・250~300m)で取水した水を新川井堰(長さ20~25間・40m)で堤内に流入するようになっている。
堰は毎年築かれており「馬渡り」にある太子岩の水量によって工事日が決められていた。工事の順番はくじ引きで決められており後半になるほど水が集まり難易度が高く溺死する人もいた。なお、水路の幅は各村の取水量によって決められている。

新井水路について

江戸時代、野口段丘の麓にあった播磨町に住む今里伝兵衛が姫路藩に嘆願し、新井(しんゆ)用水ができた。貴重な水を分け与えるため新井水路は1/6に限定し干ばつ時には水を送らないなどの制限が加えられた。なお、新井水路は曇川に合流できないため昔は掛樋、今は逆サイホンで曇川と立体的に交差している。
井=「ゆ」と読むのは井戸の水が川の水より暖かいから、「井=湯(ゆ)」と呼ぶようになった。

加古川本川の整備について

加古川は明治25,29,30,40年と大水害があったため国、県への陳情を経て明治44年に国の川となり大正7年に工事着工、昭和8年に完成を迎えた。
都市化にあわせ下水と上水が問題となっていたが、権利関係の問題から加古川市になってやっと整備が進んだ。また高砂の上水は県が加古川と高砂の間に入りニッケの乗馬クラブ付近に取水口を設けた。

加古川大堰の利水について

加古川大堰でせき止められた水は左岸(東側)は加古川市内の上水と農業用水(五ケ井)として利用、右岸(西側)は農業用水と工業用水として利用されている。
工業用水は平荘湖や権現湖におくられ、高砂から明石までの工業地に給水している。加古川に掛かる水管橋は工業用水用。

終わりに

五ケ井水路は暗渠化され見えないところもあるが、開渠となっているところもあるため市内をめぐるのも面白いと思います。


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