サイゼ論争について思うこと

こんばんは、Liliyです。またもこの季節がやってきましたね、サイゼ論争……そしてまたきっと別タイミングでやって来るのでしょうとも、きのこたけのこ戦争。この手の話をし出すと、私の悪い所の1つ、ある種の潔癖さが出てきてしまうので、読む方によっては非常に不愉快な気分になるかもしれません。別にそういう価値観があっても良いと思う、ただそういう人間はグルメを名乗らないで欲しいとか食べるのが好きとか言わないで欲しいと個人的には思っちゃうよのお話です。

再三言ってますが、どう生きるか・どう選択するかは本人の自由です。好きにしてください、ただ選んだからには責任を取りましょうよ、だし主張するなら主張する権利を得るべく行動と努力をしましょうよ。それが出来ないなら私はその意見を尊重しようとは思わない、と言うそんな性格です。だから取っ付き難いとか怖いとか言われんだよお前、って話ですが変える気はありません。

では目次。



そもそもサイゼ論争って

発端が何だったか覚えてないのですが、店主はサイゼの陰謀だと思っています。定期的に出る論争、初デートでサイゼは「あり」か「なし」か、です。ただ毎年恒例の風物詩的なものなので、基本的にはノータッチ、サイゼうめぇだろに落ち着く所までがオチだと思っています。

この論争って、何を起点にするかで全然話が変わってくる訳なので答えも何通りもあると思ってるんですが、今回の論争はどうやら絵師さんが、おっサイゼ論争け?じゃぁこの絵を描いてアップしよ(凄い……)ってあげたイラストに一部の方々が「サイゼ(程度で喜ぶ)女という理想論を具現化したイラストで嫌だ」みたいな主張です。

この件についてツッコミどころですが、絵のタイトルはサイゼで喜ぶ彼女、であって別にサイゼのご飯に喜んでる女性の絵であってその経緯が何なのかは定かじゃないって所なんですよね。作者さんがその絵に「サイゼの連れてっても喜ぶ女って理想的だよね」と言ったわけでも無いですし。

色んな解釈はあるけれど、単純に美味しそうに食べる君が好き、とか些細なことでも喜ぶ気は素敵とかそういうイメージのあるイラストで、私は別にそんな理想の具現化や押し付けだとは思わなかったです。そう思う方々は過去にそういう経験があったのでしょうか……?だとしたら、お疲れ様です。実際にそれが試し行動だったり、或いはそんな女になれよっていうモラハラ的な圧力を、実際に言われたのなら怒っていいです。現実世界でおきたことならね。

イラストは作者が明言しない限りはどういう意図で作られたのかなんてわからん訳で、その解釈は結局自分の主観・想像の範囲にしか留まらないんですよ。学生の頃に作者の心境を述べよ、っていう設問が嫌いでした。だって私は小説書いてる時夕飯何かなって考えながら書いてたりするし、必ずしもその描写に深い意味がある訳じゃないもの。っていう。

そう思ったのは、そう思った側の問題であって作者の問題ではないです。そこはイコールじゃない、だからこそこの起点となる話はとっっってもくだらん。知らん!ていうか、絵師に迷惑かけんな!としか言えない話です。Tosしとけ。

初デートにありかなしか

店主的には答えが幾つもあります。それこそTPOじゃね?だしケースバイケースだろ、って思うんですよね。

・婚活で初めまして

まず婚活のシステム知らないんですけどマッチングアプリとかと同じでいいんですかね?それともお見合い的な?もし後者ならお互いの事を何も知らないのだから、好き嫌いもアレルギーも分からないですし経済状況も、お金の使い方や価値観も分からないんだからファーストフードって選択肢はとりあえずはナシじゃないですか?と私は思います。

話によれば試し行動で、お金にどういう考え方なのかといったテストみたいなこと抜かす奴が居ますがファーストコンタクトでそれはないです。婚活だし高いお金かけてるし、真面目に取り組んでるのは分かるんですけ人の縁や相性はコスパで考えるだけ無駄なんですよね。という人間と生きていくってお金がかかることだし。仮にさっさと決めたいって意見があるにしても、もしもーし目の前に居るのは人様の子供で、人様の友人ですよー同じ人間なんですよー機械じゃないんですよー?って話だし、お前も同じように見定められたいんか?です。仮に逆に高いお店連れてかれて、試したって言われても怒らないんでしょうか?怒らないならまあいいんじゃないですかね、大分に失礼な人だけど。

そういう意味で私は婚活の場合はナシじゃない?とりあえず、最初からランチ・ディナーに行かなくてもカフェとかある訳だし。カフェにだって珈琲館からドトールからタリーズの様なチェーンもあれば道行く先にあるカフェもあるじゃないですか、とりあえず、そこでお互いを知ってからでも良くないか……?です。そこでお互いの好きな食べ物を知れたり、普段どういう場所に行くかとか、どんなお店が好きかとか話し合えばいいのに、圧倒的なリサーチ不足なんですよね……対話しなよ。それこそ、ターゲッティングもせずに営業したって買ってもらえるわきゃないんだからさ、っていう話。

逆にマッチングアプリとかみたいなチャットしてから、とか対話してからなら話の流れや、話聞いてから、とかだったらわかります。というかしろ、って話ですけどね。その上で決まったらいいと思うし、なしでは無いんだよなと思います。別にいいじゃん、お互いリサーチしていける口だったらさ。それで。納得してるなら他人がとやかく言うことじゃないよなあ?と……


・夜職とかコンサバとかその関連

その相手がいいよ!って行ったらありだけどそうじゃない限りやめろ。普通にさ、アフターにせよ同伴にせよ何を夢みてるんだか知らないけど、時間外営業なんだよね。プライベートの時間使ってノルマだったり業績上げたりお賃金の為にやってる訳で、勿論全員が全員じゃないけど一般的に考えたら残業。これ夜職に限った話じゃなくて、個人営業の店とか付き合いでご飯とか半分プライベート・半分仕事な訳ですから、お互いに気を使いましょうよ。奢りでもそうだし、折半でもね。せめて普段食べない様なもの選ばん?みたいな。美味しいもの食べて、食べさせてやって!!という話。まあファーストフードだって美味しいんだけどさ、わざわざ労力も時間もかけてるんだから、ね。

ちなみに、考え方によっては「来ていただいてる、買っていただいてる」のだから客側がワガママ言えるみたいな考え方もあるみたいですけど、それについては私はうっるせ〜〜〜商品を売ってる、時間や接待を売ってる間だけの話だボケ!って感じですね。気持ちのいいサービスをしてもらうのが当たり前、なのが日本だけど、ならチップ寄越せって言う話。

だから店主の例だと気持ちのいい接客をする相手は、何かとお金使ってくれた人だったり気遣ってくれたり、あとは食事なら奢ってくれる人だったりそういう人にはやっぱり感謝もあるし、サービスしちゃうぞ☆になる訳です。だって多めに貰ったものってそれ以外に返し方なくないですか?誕生日なら祝ったりね。

でも逆に買わなくなったりやらなくなったりしたらそういうサービスもしなくなりますよ。私はそういう所現金なもんで。というか普段良くしてくれる人に返さないといけないのに、それをしなくなって人にかまけてる余裕ないです。個人でやってますから……気持ちよくサービスしてもらいたかったらチップを払え。私はチップ制度を導入してるんだからさ

・それ以外の人達

それこそケースバイケースだろ〜〜。なんですよね、と言うか、対話しろ対話。っていうのに限った話なんですよ。

相手に選んで貰って文句言うくらいなら、最初から案だしをすれば良くない?って思う。相手が勝手に決めた場合は文句言うのもありだけど、少なくとも約束を決める時にリクエストは出来るじゃん。「新しいお店行ってみたい」とか、「オシャレなとこがいいな〜」とか「チェーンとかファーストフード以外がいいな」とかね。

それらを伝えない、言わないでいざ連れてかれて相手への心象や評価を下げるのはあまりにも傲慢だってわかって欲しい。というかその評価や心象を持つ資格すらないんだよね、自分を恥な。ってレベル。だってさ、何のために人間は言葉っていうものがあって、会話っていう方法があるのさ。手段がないならまだわかるけど、手段があるのにその手段を自分の理由で選ばなかった、ならその結果に対して文句を、ましてや相手に押し付けるのは責任の転換でしかないだろ。最初から伝える努力をしなさい、んでその努力を踏みにじられた時に怒りなさい。自分の機嫌は自分で取れって私はよく言います。相手に押し付けちゃダメでしょ、それは。言わなくてもわかるでしょ、常識でしょ、マナーでしょみたいな考えは、勿論わかるし、あるべきだと思う。でも同時に「絶対」ではないんだよね。宗教の違いと同じくらい常識も一般論もバラバラ。じゃぁどうしたらいいの?って思うなら、大切にするのはルールじゃなくて、道徳にしたらいい。

道徳で考えるということ

道徳で考えるって。なに?と思ったら相手への思いやりだと答えて起きます。例えば上記の例だと、どういう店がいいか伝えないなら文句を言うなも、選ぶ側の相手への配慮をまず、自分がしてないでしょ。って話。そういうの言うと困らせるかな?って思って言わないのもひとつの配慮、でもその配慮をしたからにはやっぱり文句言う権利はないよね。海外なんかもそうだけど、主張しなかった、はイコール、何でもいいってことだから。嫌なら嫌って言わないのに後から嫌って言うのは思いやりが無いだけじゃなくて自分勝手なんよな……というやつ。

自分が配慮してないのに、配慮されないことに怒るのはお門違いよね。だからこそ主張する、っていう思い遣りが必要でしょ?どんなことでも、理不尽なことも多いけど、まずは自分から、なんだよね。例えやって貰えなかったとしても、自分からやり続けるしかないし、もしやるの辞めたならその事に何かを感じる権利を失うことになる。


店主の食事に関しての話

その議題に付随して私の食についての価値観だけど、私は高級な食事も安価な食事も、どちらも好きでそれらは常に楽しんで食事をするべきだと考えてるタイプ。

これは本当に再三言ってるんだけど、食べるということは生きるということで、生きるということは食べるということであり、食べる事を楽しまないということは、生きることを楽しまないということに匹敵する、ってはなし。別にたくさんの娯楽や趣味があるし、食べること以外にもたくさん人生の楽しみってあるから、そうではないということに対してダメだとは思わないけど、でも食べるって生きることに直結するから、食べる楽しさを忘れたら人生は味気なくなるんじゃないかな、とも思う。

その上で私のサイゼ論争の話は、そもそもバカバカしいと思う。「価格」とか「店の格」とか無駄なこと考えてる暇があれば目の前の食事を楽しむことこそ!本当に食べるのが好き、なんじゃないか?余計なこと考えてると味も劣るぞ。まあだからラーメン屋で髪の毛の結ばずにかきあげまくる人も、ハンバーガー屋でちまっちま食べる人間も(フォークとナイフ使えばいいけど、ファーストフードのハンバーガーは潰して食べるのが美味しいと思うよ)、手に油がつくとかが嫌じゃ無ければケンタッキーでかぶりついて食べないのも、私はあんまり好きではない。もちろんベトベトになるのが嫌、とか散らばるのが嫌とかそういう不快が理由ならいいんじゃない?だけど、それが見栄とか映えとかそういうのだと、ならそもそも店に来んなよと思う。別の店に行け。

それで、この論争の本質は結局、店選びにその相手をいかに考えたかが体感出来るか否か、だと店主は思う。

ファーストフードや日常でいける店、安くて早くてうまい店、はその程度にしか自分を考えてくれなかったとか、デートなのに、特別な日なのに全然考えてくれないとか。思うけど、でも特に男性はそういう案だしが苦手な傾向ありますよね、って思うし。なら、2人で考えればよくない?って私は思うし、ファーストフード=考えてないっていうのは決めつけが過ぎるよね。

店主の同居者もそうだけど、あんまりそういうのを発案するのが得意じゃなくて、聞いてもなんでもいいとか、どれでもいいって多いんだよ。本当に思いつかないし、考えても出てこないんだってさ。だから私は一緒に考えるようにしたし、どうしても相手に考えて欲しい時は「調べて」「ひねり出して」って言う。そうやって積み重ねていけばいいのにね、って。

結局こういうのは「やってもらいたい人」と「やってあげたい人」と「やりたいし、やってほしいひと」っていうのにわかれてるよね、って。やってもらいたい人は、やってあげたい人と一緒になればいいし、やりたいし、やって欲しい人は同じ人を探せばいい。

店主は、そもそも「やってあげたい方」で、やってもらいたい欲はそんなに多くない、たまにやってよ〜〜〜!!ってなるくらいの人間。だから、相手がやってくれなかった=その程度の人間なのかな?みたいな話は本当にどうでもいい。人間なんてやりたかったらやるし、やりたくなかったらやらん。その上で、相手が自分と同じ知識量だとは限らんし、同じ価値観であるとも限らんから、そこはもう対話でしょ。当たり前だと思うな、自分の価値観と常識。むしろ疑わしきは自分……で、その中で選び抜いた価値観はもう自分の譲れないところ、だし、譲れないなら主張しよう。みたいな話しよね。私はこう!って言い切るの、マイナスな事じゃない限りはいいと思うよ。その上で店主が大事にしてるのは、もし、価値観が衝突した時に、相手が納得出来るだけの説明を持ってきたら手のひら返す様に意見を変える。だって相手の話に納得した時点で、それは「そういう見方」が自分の腑に落ちたんだから新しい価値観にアップデートするタイミングでしょ?

特別視の話

でも「特別な日」や特別なシチュエーションって大事じゃない?って話。人伝に聞いたけど、私はそこに関心がないように見える、とか拘ってないように見える、とかそういう印象を持たれてたらしい。これだけ話してるから自分の食べ物は拘ってる、とかね。

だとしたらうちの顧客面々から栄養補助剤は届かねーんだよな。っていうさ、話で。

店主は、そもそも母親が食べた人間が全員認めるメシウマだった訳ね、その上に幼い時は裕福な家庭だったし貧乏貧乏いいながら外食は1週間に1回、2回は普通みたいな家に育ったわけ。一人娘だったし、父も母も食べることが好きで、親戚だったり付き合いのある人だったりから新鮮でお高い食材が届く家だったし、田舎が青森だからフルーツとかも。その上で家がアウトドア派で、山に川に海に、スキーに海水浴、キャンプ。温泉巡りや、遊園地巡り、凄い連れ回されて、だから車で五時間走ってるとか平気だし、虫も動物も大体は平気。ご当地グルメも食べるし、行った先々で色んなものを食べてきた。だからレストランでも高級な所から激安店まで網羅して、どこの地域ならこの店、とかあそこに行ったらどのメニューとかそういうの全部頭に入ってる。開拓するのも好きだし、父も母も料理に凝るタイプだったから私も凝った。釣りも山菜採りもしたし、釣りは船釣りで、釣った魚を食べたりね。とにかく食には恵まれ過ぎてる環境、そんで母親譲りで舌の味蕾っていうのかな?発達してて細かいグラデーションで美味しい、不味いがわかる。

まあでもこれはある意味不幸なことでもある。例えばだけど

最高にうまい、めっちゃうまい、うまい、普通にうまい、それなりにうまい、普通、普通よりまずい、まずい、めちゃまずい、最高にまずい、食えたものでは無い

みたいなグラデーションがあるから、食べ物を食べた時に普通に評価をしてしまうんだよね、自動に。大抵の場合は普通にうまい、で満足できるけど私はめっちゃうまい。じゃないと満足はできなくて、まあ故にそういう店を見つけたら永遠と同じもの食ってるみたいな事になるんだけど、結果論言えば母親の飯・類する味、師匠の料理(追及するので)、私の作った料理、企業努力の賜物、外食たいな順番になる。ちなみに同居人はそれなりに美味しく作れるので助かってる、料理嫌いだけど……

で、まあこれは経験的な問題なんだけど私は一人暮らしらしい一人暮らしをした事がなくて、基本的に料理は誰かのために作ってたから、単身赴任とかで1人になる迄、一人で食べるって事がなかったんだよね、だから1人になって途端に料理しなくなったし、コンビニと出前と外食だけになった。特に多いのが出前なんだけど、それが酷くなると食べること自体をしなくなった。なんか一人で食べるならカロリーメイトでもいいよね、ってなっちゃうの、さっきも書いた通り私は何かをしてあげたい側の人間だから、自分の事になると途端に興味をなくすんだよね。

そもそも美味しくないし。たまーに、気分が乗れば外に食べに行く程度で本当に頓着しなくなる。結局その時にわかったんだけど、どこで食べるか、何を食べるかとか凄くどうでもよくて、結局は人間の味覚って誰と食べるかなんだなって思ったわけです。まずい訳じゃないんだけどね、それを知ってしまったし、それ以上に私は師匠と出会って直ぐに師匠と一緒に食べた、師匠のお母様が買ってきてくれた一部店舗にしかないチェーンのたこ焼きが凄く美味しかったのを覚えてる。実際に美味しいってのも本当だけど(あの店なんであんなに少ないの?)思い出補正っていうんだろうね、あの味が最高にうまいに分類される、でもそれはその人と一緒にじゃなきゃそこまで美味しくならない。

それを知ってるからこそ、行き着いたのが「好きな人」といければどこだってそれは特別な場所。になったんだよね。だからむしろ逆で、自分は好きな人となら何食べてたって基本的には、楽しいからどこに連れてかれようが、値段がどうだ、とか格式がどうだとか興味無いし、かと言って別に、好きじゃない人の場合もいうて何食べても、どうあがいても特別な思い出にはならないから、なんでもいい、美味しければいいなになる。逆に誰かを連れてく時は、その人にとっていいお店になって欲しいから相手の予算と、味の質と、雰囲気、それなりの所を選ぶ。というか選ぶのが楽しいっていうのもあるしね……まあ栃木に住んでから選択肢かゴミというか、車がないと何処にも行けないなので本当にカスだけども。

引っ越したら解消されるので良しとします。

あと拘ってないというよりも、私はめちゃくちゃパーソナルが狭いので「誰か」と食べるのは疲れるし、食も細くなるし、楽しめない節があるからあんまり食事に行きたがらないのはある。

「好きな人」とならいくらでも色んなお店行けちゃえるんだけどね……

なんだろな、結局私にとって食べるって行為は娯楽でもあるから1人の時でもそれなりには楽しむようにしてるけど、やっぱり他人と交わしたいし、その上で俗世の私にとっては、いやしくもみえるし、強欲にも傲慢にも見える価値観って邪魔なんだろうなって思います。実際に傲慢なのか、強欲なのか、卑しいかは別問題だけどね。私の主観の話なので。だから、そういう人たちの評価が下がるとかはないし、文句もないというか好きにしてどうぞ、だけど私個人の価値観はそうだし私は、そう思うから気にしない、って見方をしてるよ。と言う話。というかまあ色々書いたけど食べるのにごちゃごちゃ考えてるの、食材に失礼。人間のエゴなんてどうでもいいよ、生きるために食え!


って感じですね〜。誰にも強要はしないので、各々楽しい食事をとってくださいね。

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