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ムッとすること

珍しくムッとすることがあった。
基本的に、なんにも考えていない性質だから、イラっとする感情を自分では確認できていることが少ないと思うのだけれど、家では無口だからか
「気難しい」
と言われる。自分では、そう思わなくても一番近くにいる家族がそう感じるのだから、そうなのかもしれないとも思う。

そんな怒りっぽいのか、フラットなのかよくわからない私が、久しぶりに自分でも「ムっとするなぁ」と思うことがあった。
ムッとすることは、言ってしまえば取るに足らない小さなことなのだ。
具体的には、「〜〜みたいな人を紹介してくれ。」というお願いをされたのだけれど、その条件に見合う人を知らなかったので、助けになれない旨を伝えた所、「ありがとう」等一切ないということがあったのである。
そうゆうことがないことにムッとしてしまう自分が恥ずかしいのだけれど、一言御礼くらいあってもいいんじゃない?と思ってしまう自分がいた。

ただ、向こうに失礼なことを言われたり、されたりという訳ではないから、このムッとした気持ちのやり場に困ってしまう。
失礼なことや嫌なことを言われただけなら、こちらも反論のしようがある。
言いたいことを言って、嫌なことをサラリと流して終わり
けれども、「なにかをされない」形での失礼をされた時の気持ちは、どうしていいものかと迷う。
「こうゆうの失礼だと思う。」とこちらからいうのもなぁと思ってしまう。
きっと彼にとっては、御礼するまでもないということなのだろう。
それくらい私は彼にとって取るに足らない存在なんだろう。
因果応報とかいうけれど、私がムッとしていてもあちら様に影響がある訳ではなく、何かに躓いて「あの時、御礼を言わなかったからだ…。」なんて思うこともないのだろうと思う。ちょっと悔しいけれど。

ムッと思った気持ちが、ふわっと消えてくれれば一番いいのだけれど、喉に小骨が刺さったのと同じように中々簡単に消えてはくれない。

ムッとしている気持ちが消えないことにムッとし始める。ムッと無限ループに陥ってしまいそうである。

あったかいお茶でも淹れて、それを飲み干すまでには、はじめの「ムッ」が消えていますように。
そう思って、お湯を沸かした。
面倒になって、結局マグカップに入っているのはなんの変哲もない白湯だけれど。
いつも、何の気なしにやっていることを、丁寧にやると心がちょっとあたたまるのはなんでだろう。何気ない動作を丁寧にすること、時間をちょっとかけてあげることは自分をまるっと大切にしてあげているのと一緒だからかもしれない。
ムッとしている自分をも、ふわっと包み込んでくれる湯気で、小骨もどうやら物体から気体(あくまでイメージ)に変わっていく気がする。

マグカップが空になるころには、お腹も心もあったまって、喉にひっかかっていた小骨の存在はなくなっていた。

日常に潜む「ムッ」をうまく成仏させるクエストは、意外と楽しい。



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