北海道オールスターズ

「言わなきゃいけないことがあるの」

言葉そのものより、絞り出すように声を発した彼女のこわばった表情が、何より事態の深刻さを物語っていた。最高潮に盛り上がっていた気分と下半身は、瞬く間に萎えていく。甘い言葉はもう十分に交わしたはずなのに、これ以上何を伝えるというのか。急なショックで停止した脳が再び動き出し、最悪のシナリオを描き始める。心臓は、嫌なリズムで鼓動を早める。

時計は24時間巻き戻る。

手ごろな居酒屋を求めてさ迷い歩く。初めての北海道の夜は11月だというのにそれほど寒く感じられない。見知らぬ通りの不思議な雰囲気が、気分だけでなく体温まで上昇させていた。

日本全国で開催される学会への参加は、関西の山奥にある研究室に籠りっきりの大学院生活の数少ない楽しみだった。生活費の大部分を奨学金に頼り、泊まりの旅行などする余裕はなかった。そんな状況でも、とにかく研究成果さえ出せば、研究室の資金で秋田、松本、東京、ハワイなどへ行くことができた。いつしか、学会終了後に初めて訪れる繁華街で安酒を浴び、キャバクラで〆るのが研究室の恒例行事になっていた。

北海道の夜も、同じように楽しむはずだった。いつもと違ったのは、ふらりと入った居酒屋の店員に見とれてしまったこと。ビールを頼む前に気が付けばその子に話しかけ連絡先を尋ねていたこと。そして、店を出るときに連絡先を教えて貰い、次の日に会う約束を取り付けたこと。自分の人生にこんなことがあるのかという心地よい驚きとともに、ガッツポーズのまま眠りについた。

翌日の午後レンタカーで待ち合わせ場所に向かう道中、不安な気持ちが急に湧き上がる。約束をすっぽかされるんじゃないか。バイト中に声をかけてきただけの金もない学生に、わざわざ会いに来るわけがない。考えをめぐらすほど、分の悪い賭けに乗ってしまったことを理解する。約束の時間である7時の随分前に着いてしまった自分を呪う。30分以上も悶々として過ごさなければならない。

足先が冷たい。北の大地にいることを思い出す。北海道の端っこで来ない相手をただ待つ自分が滑稽に思えてきたそのとき、小走りの彼女の影が目に入る。薄茶色の長い髪を見て安心するとともに、緊張感が高まっていく。こんなにキレイだったっけ。何の話をしよう。明日北海道を発つまでに、なんとかセックスしたい。読み取られてはいけない言葉と欲望が、いまにも溢れだしそうに暴走する。

差しさわりのないトピックから会話の糸口を見つけようと試みる。どうやら彼女は自分と同い年の22歳で、北海道の外れにあるこの小さな街で生まれ育ったらしい。心配は必要なかった。トークスキルは彼女の方が一枚も二枚も上手で、主導権はいつの間にか手の届かない遠くへ。

悟られないようにまじまじとその顔を観察すると、ロシアの血でも混じっているのかと思うほどの薄い色の目と白い肌。数か月前に彼氏と別れたばかりらしいが、こんな風に声をかけてきた男とちょいと出かけることも珍しくないはずだ。ドライブも会話も、行き着く先を決めるでなくダラダラと続けた。高校時代のしょうもない失敗談が、ただただ面白かった。

「わたしが通ってた高校に行ってみない?」

固く閉じられた門を飛び越え、聞いたこともない街の、見たこともない高校の暗闇に潜入する。寒いねとつぶやく彼女の手を握ることは、もはや難しいことではなかったけれど、脈拍の速さは自己最高記録の更新寸前だった。出会ったばかりなのに、彼女に対する感情を「好き」の二文字以外で表現できなくなっていた。

車に戻り時計に目をやると、もうすぐ日が変わる。限られた時間しか残されていないこを知り、ずっと言いたかった台詞を絞り出す。

「そろそろ行こうか?泊まっていくよね」

彼女は頷くでも首をヨコに振るでもなく、道案内を始めた。急に口数の少なくなった2人は、これまで本州で見慣れたものとはカタチの違う、奇妙ないでたちのラブホテルへと吸い込まれていった。

交わす言葉が減っていくのと反比例するように、気持ちが高まっていく。彼女も同じ気持ちのハズだ。それなのに、さっきまであんなに柔らかかった表情が、みるみる内にこわばっていく。

時計は開始時点に追いついた。

「言わなきゃいけないことがある」、に続いたのは滔々としたネタばらしではなく、しばらくの沈黙。これが美人局ってやつか、もしかして男の娘だったのか、研究室仲間が仕掛けた壮大なドッキリだったのか。あり得ない想像が出尽くした頃、重い口が開かれた。そして、彼女は自分が処女であることを告げた。

なんだそんなことかと安心するとともに、疑問が浮かび上がる。こんなにキレイなのに、つい最近まで彼氏がいたのになぜ。何より不思議なのは、なぜそれほど深刻な顔をしているのか、そんなに重大なことなのになぜ昨日会ったばかりの男とホテルまで来たのか。

元彼とは何度もセックスしようとしたが、激しい痛みのために断念することが続いたのだという。度重なる失敗に気まずい空気が積み重なり、ケンカの頻度もあがり、ついにはフラれてしまったらしい。セックスができないせいで好きな人と一緒にいられないのなら、どうでもいい人と、出会ったばかりの男とセックスして、嫌な記憶を吹き飛ばしたい。そんな気持ちで、遠い街から来た大学院生ついてきたのだ。

感情の高ぶりを抑えることはできなかった。抑える必要もないと思った。彼女が前向きになるきっかけになりたい。何より、この傷ついた心と向き合い、一歩を踏み出そうとしている人を抱きたい。彼女も同じ気持ちだった。

長い時間を費やしたその試みは、上手くはいかなかった。かける言葉は出てこない。気まずい沈黙を破りたくて口から出てきたのは、いかにもチープな台詞。

「いつか優しい誰かが現れて、このトラウマを乗り越えさせてくれるよ」

安っぽい言葉には違いないが、本気でそう思った。こんなにいい人に、いい男が現れないはずがない。誰かが、きっといるはずだ。もう少しの沈黙の後、今度は彼女が言葉を絞り出す。

「その誰かは君じゃないんだよね?」

そうだ、とは言えなかった。明日家に戻ったら、北海道に来るお金も時間もない。関西に呼べるはずもない。沈み込みそうになる気持ちを振り払うように話題を変え、将来のプランを語り合った。大学を出たら、このバイトでお金を貯めたら。やりたいことと可能性だけは、無限にあるように感じた。

互いの思いを語りつくす前に夜は明け、フライトの時間は迫っていた。これから1時間足らずの間に別れの時が来て、二度と会うことはない。そう思うと、再び唇が鉛のように重くなる。彼女を家に送るまでの車内は、さんさんと降り注ぐ朝陽にも関わらず、よどんだ空気に包まれてしまった。何を言っても虚しいだけだ。最期の瞬間までのカウントダウンは止められないのだから。

「ありがとう」だけになってしまった別れの言葉を終え、彼女を車から降ろし、空港までの道順をカーナビに尋ねる。気持ちを切り替えてアクセルを踏み込むと、スッキリした表情でこちらを見つめる彼女の姿がサイドミラーに映る。静寂を振り切るようにラジオをつけると、サザンオールスターズの『真夏の果実』が流れてくる。

「また会える」と言えない自分の幼さを恨みながら、北海道を発った。








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