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悟りの危険なところ

悟りへの道のりは困難である。道を間違えると危険な方へ。だけど、恐れていては前へ進めないのも真実である。

悟り体験から起きる全能感

私の悟り体験を思い出すと、真実が解った瞬間の全能感がすごかった。神との合一の瞬間。何でもできそうなパワーが湧いてきて自分が神になったような気さえした。不可能な事などない!という謎の自信と経験したことのない幸福感。それが一定期間続いた。この感覚は日が経つにつれて薄くなり、今はその時の強烈なイメージだけが残っている。この全能体験には注意しないといけない気がしている。自分を神と勘違いしてしまう人もいるかもしれない。

真理を知ること

突然真理を知ると今まで全然解らなかった世の中のことが手に取るように解るようになる。面白いくらい。悟りがもたらしてくれるものはメタ視線。人間を縛っている枠組みを突破できるので、ものごとの見方がガラッと変わる。悟った人は啓蒙活動をするようになったりする。ブログなどを始めたわたしもそうである。悟りによって目が開かれたとしても、その能力をどう利用するのか。悟り後の活動は人それぞれだが、そこには危険がひそんでいることもある。

オウム真理教のこと

オウム真理教のことを考える。元信者の方のブログを読んだことがあった。こちら→オウムとクンダリニー。このブログを見つけた日は食い入るように読んだ。なぜあの事件が起こったのか、このブログに大きなヒントがあった。私が思うに、松本氏は確かに悟っていた。真理を理解している。でも、彼も人間だった。困難はやってくるしそれに対処する必要がある。どこかで悪魔の誘惑があり、判断を誤ってしまったのかもしれない。

あの事件の真相とは

彼の元には本当の悟りを求めていた人達が集まっていたみたいだ。個人的な意見ではあるけど、彼があの事件を起こした背景には人類の未来に関する何かがあったのかもしれない。松本氏はノストラダムスの預言や出口王仁三郎の預言に入れ込んでいたようだ。

これは悟りを得た私の見解であり、信じてもらえないかもしれないけれど、悟ると人類の大きな流れが見えてくるようになる。悟らなくても、真理の近くにいる人たちはその大きな流れに無意識で気がついてしまう。そして突き動かされることがある。

私もまだ悩んでいる事でもあり、その時が訪れるまで結論は出せないけれど、終末はおそらく近いうちにやってくる。世界には数々の預言があるが、あれは悟ってしまった人たちの見たものなのだと思う。彼と実行犯の信者たちは「人類を救済する」という大きな目標に向かって行動していた。けれど、私の体験した第2の悟り、愛の本質を知る経験があったならば人を殺すことなんてできないはずだ。彼らにその瞬間は訪れていたのだろうか?

この事件は、私たちに目に見えないものを考えさせるため、気がつかせるために起きたのだと思う。それなのに私たち日本人は、未だにこの事件について正しく理解できていない。それも当たり前だろう。目に見えないものを信じない人たちにこの事件の本質は理解できない。

真理の近くにいる人たち

真理に気がつき始めると悪に取り込まれる可能性が大きくなる。目に見えないものを考えることは、孤独な作業である。オウム真理教内でも実践されていた、厳しく辛い修行。瞑想やヨガなども本来は悟りを得るためのものだ。

多くの人は目に見えないものを信じない。周りの目は冷たい。だからそこに突っ込んでいくことは、自分の精神との戦いなのだ。その過程の中で「この世を支配しているのは悪魔だ!」と悪側にとらわれる人もいるし、現実から逃避し目に見えないものばかりを信じすぎて統合失調症になったりする人もいる。心が不安定なまま、目に見えないものを追求するのは危険なことなのである。

闇の先にあるもの

真理を追求することは危険と隣り合わせでもあるが、人間が目指すべき道である。自覚していなくとも人間はみんな真理を目指している。今の時代は目覚める人も増えているようなので、わたしみたいに辛い修行せずとも悟る人がいる。人類全体が目に見えないものを考える時期に入っているようだ。私たちが目を逸らそうとしているものがある。私たち一人一人に存在する闇。闇の先になにがあるのか知ることができれば、私たちは戦う事ができるはずだ。わたしは闇の先になにがあるかをお知らせしたく、ブログやこのnoteをやっています。



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