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『犬を飼いならす』

自己分析、だとか、自己診断、なんていうやつに必ずついている質問、
「熱しやすく冷めやすいですか?」「飽きっぽいですか?」

いやいやそんな、俺は一度好きになったもんは大概ずっと好きだからね?全然そんなんじゃないわ。正反対だわそういう軽薄さとはさぁ!
と「いいえ」を選択し続けてきたこれまでの人生。

ところがここにきて、ほんの2週間にも満たぬ間のnoteの文面からにじむ、その判断、行動の軽薄さに、もしかしたら、これまでの自己認識は間違っていたのでは?という疑惑を抱き始めた。
やっとである。

スマホを見る。
ダウンロード後さわりだけいじって以来ほとんど開いてすらいないアプリの数々。
常時100を超す開きっぱなしのブラウザがほのめかす、瞬間的な興味で飛びついてはそのまま忘れていった累々たる屍たち。
やたらと多趣味で、視界には無数の機材、道具、材料が居並ぶが、どれ一つとして誇れるほどの習熟を見せない。
じっくりと腰を据えて取り組む、という行為のなんと苦手なことか。

別にね。飽きたわけじゃないんだよ。思うに、興味がなくなったわけじゃないんだよね。なんていうかそのさ、ちょっと忘れてるだけなんだよね。
思い出したらさ、またすぐ興味がよみがえると思うんだよね。

と脳内で言い訳をするが、この忘れてしまう、という事態が最も致命的だ。
衝動と体力のみに底支えされた行動力は、時間の経過や疲労とともに急速にしぼんでしまうたぐいのもので、その興味に己をつなぎとめる、技術に裏打ちされた経験の蓄積はそこにはない。

そしてその、安定感、底支えのなさこそが自身の散々な現状をもたらしている。
瞬発力だけで生きてきた、ということは、瞬発力を失ったらもう生きていかれないということでもある。
瞬発力は気力、体力と直結している。

どう考えても、あの質問をに対する正しい答えは「はい」であった。
なぜ自分を客観視するということはこんなにも難しいのか。
自己分析なんてクソほども当てになんねーな。
と、いささかしょっぱい気持ちにもなるが、いずれにしてもそういった、軽薄さを筆頭とした己の数々の欠点がもたらした現状の打破のためにこそ、この試行錯誤を記録することを始めたのではなかったか。

してみるとさ、効果めっちゃ出てるじゃんね?
ちょっと書いてみただけで、自分が本質的に軽薄だと気づけてすごいぞ。えらい。すごくえらい。
書き始めて十日かそこらでこれなら、半年ぐらいこれを続けたら、どうなってしまうんだろうな。
とんでもなく大したことになってしまうかもわからんね。
はー、めっちゃすご…。

さて。
自分が死ぬほど軽薄で、かつ、その軽薄さによってしか生きてこれなかった類の生き物だとするならば、そもそも一般人を基準とした戦略を練ってはいけないということになる。

必要になるのは、思考停止の状態でも運用できるスキルを持つということだ。
何も考えなくとも、ここまでの水準なら自然とこなせる、というぐらいにデフォルトの状態の底上げをする。自動化、外部化、効率化を突き詰めて、己の意思でコントロールしなければならない範囲を最小化することが不可欠だ。

学生時代は常時思考停止、あるいはまったく関係のない演算をメインで走らせていてもなんとかなる、オートモードみたいなやつだけで乗り切ってきた自覚があるが、当時の自動設定は今や全く機能していない。
OSを更新しなければならないのである。
残念ながら人間のOSは、寝ているうちに勝手にダウンロードされている類のものではないので、自力でプログラムを組みなおす必要がある。

だがそれは”努力”や”決意”や”意識”によって成し遂げることはほぼ不可能であった。
つーか努力や意識でどうにかできるんだったらとっくにどうにかできてるんだよなこれ。

今までさんざん試行錯誤してきたが、なだめすかしや、義務感や危機感の喚起は何の役にも立たなかった。

これはあそびだよぉ、とってもたのしいよぉ、できたらおやつがもらえるよぉ!
という方向性でなくば躾けられないということがわかってきた。

つまるところ、犬にお手を教えるのと大差ない。

要は今まで自分に、ちょっと意識の高い要求をしすぎてたんだわ。
ヒューマンにするような要求をね。
犬に危機感を持て、とか、頑張れ、とか言っても意味ないよね。
なんのこっちゃいっちゅう話だよね
ちょっと行動の動機としては抽象的すぎたんだね。
ほんと、よくなかったね。間違ってたよ。

だからね、これからは自分を躾けるときは、犬を育てるつもりでやってくわ。

金銭を与えると確実にえさ代になります。内訳はだいたい、本とコーヒーとおやつです。