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そぽたんの存在論的身分について

みなさんこんにちは。パノムレンダという訳のわからない名前でXをやっている人です(由来については多分固定ポストになってたと思うのでよければどうぞ)。
これを読む人は、たぶんみんな比較文化学類の人なのでしょう。そう仮定して今回のお話を書いていこうと思います。

みなさんは、「分析哲学」好きですか?
はい。当然嫌いですよね。わかってました。

なんでみんな、分析哲学のことを嫌うのでしょうか。なんかまあ数学ぽいからとか、ロマンがないからとか、あるいは、教員が怖いからとか、色々あるのかもしれません。教員が怖いに関しては、もしかするとそうなのかもしれません。
そもそも嫌いな人が多いというのはほんとなのか?私が観測できる範囲の比較文化学類生はみんな哲学とか思想とか、そういうのが好きな感じが漂っていたので、みんな思想文化領域の人なのかもしれません。そういう人たちにはどうやら嫌われてそうでした。他の領域の人たちは、もしかすると、聞いたことすらないのかもしれません。

思想専攻の人でなくとも、「現代思想概論」の授業は、なんとなく哲学っぽいこともやってみるか、的なノリで受講する人多いですよね。あれで嫌いになる人も多いようです。なんか期末レポートで、「誰にも相談せず、一人で考えることを誓います」ってレポート内に明記させられたこともあるかもしれません。なんとなく怖いっぽい。

まあ、ではいいでしょう。怖いことには怖いということにしておきましょう。数学もまあ数学っぽさで言えばそうなのでしょう。でも、ロマンがないというところだけは、この機会に否定しておいてもいいのかもしれません。

分析形而上学

ってなんだ?

聞いたこともないですよね。これがすごく面白いんです。

形而上学?それなら聞いたことあるぞ。面白そうだし、これぞ哲学って感じだし、ロマンが溢れている。分析哲学とかいう、あの禍々しい記号列を涎垂らしながら(🤤)ありがたがって崇拝している狂信(※個人(私ではない)の感想です)には理解できんだろうけどね。

いや、分析哲学も形而上学にコミットします。バリバリに。ゴリゴリに。それに、すごくロマンティックですよ。ここでいうロマンティックはローマっぽさじゃないですよ。皆さんが普段使う、「ロマンティック 恋のアンテナは〜」とかそういう意味ですよ。いや、違うかな。

通時的同一性

おい、急に変な専門用語を出してくるなって?
いや違います。某先生がよく言ってるアレを、ちょっとかしこまった言い方にしただけです。要は、「時間的な変化の中でそれでも同一であるようなもの、ってどういうことだ」っていう話です。
某先生なら
「1秒前の自分と今の自分が同じ自分だと思う人挙手して✋」
「じゃあ1年前の自分と今の自分だったら同じ自分だと思う人✋」
って言います。確実に。そして必ず「同じ自分なんてものはあり得ない」って方向に持っていきます。確実に。でも、(現代)形而上学だと、これは同一だって答える人も大勢います。それを裏で強力に支えるのが、分析形而上学の議論だったりするわけです。いくつか実際に見てみましょうか。

三次元主義

ってなーんだ。なんでしょう。三次元てのは、要するに、”個体が時間を跨がない”ってことです。時間まで跨いだら四次元になっちゃうじゃないですか。???。それじゃあ通時的同一性の話になってないじゃーん。
これは後に見る四次元主義の方を理解すると、逆にわかってきます。今は先に進みましょう。

三次元主義者は、大雑把に言うとこう主張します。そしてその前に、そもそもこのnoteは全部大雑把にしか書きません。専門書で言えば、八木沢先生の『神から可能世界へ』の中に、今回の例なども含めて全部書いてあります。詳しく知りたい人はそちらをどうぞ。

三次元主義者「個体っていろんな部分を持つけど、空間的な部分(手足・髪の毛・目など)だけじゃなくて、時間的な部分(心・魂(がもしあればそれら)など)も全部、現時点に存在するんだよ」

これって、どういうことなんでしょうか。時間の概念を記号で導入しますよ。やっと分析哲学っぽいやつが出てきますね。

ある時点nを表すために「t<n>」(noteでは添字が使えないようなので、代わりに<>を使います。本来はtの横に添字で入ってます)ってのを使いましょう。tはtimeのt。「ある時点1」なら「t<1>」、「ある時点2」なら「t<2>」ってわけです。簡単ですね。

んで、どういうことなの?どうでもいいこと言ってないではよ説明しろ。
はい。三次元主義によれば、我々個体(われわれを「個体」と呼ぶべきでないというスーパーロマンチストは、これから呼ぶ個体を何らかの物体だと考えてください。本来は「個物」と言いたいところで、人間でも物体でも、議論に差支えはありません)はt<1>に「私」としての部分のすべてを持って存在し、t<2>にも同様に、「私」としての部分のすべてを持って存在します。昨日の私は私のすべてを持ち、今日の私も同様に、私のすべてを持ちます。
いや待てよ。昨日の私と今日の私がそれぞれ部分のすべてを持ってて、かつ時間が経っても同じ「私」って言うなら、それは個体が永遠に変化しないってことを言ってるトンデモ理論じゃないか。そんなのは話にならない。
いや、話にはなります。けどその批判はごもっとも。もう少し分析哲学ぽく、”分析”してみましょう。

二つの時点で同じ「そぽたん」であるような個体を考えてください。そぽたん?はい、あのそぽたんですよ。みんな好きらしいじゃないですか。ありがたく使わせてもらいましょう。この場合、次のような関係が成り立っていることを三次元主義は認めています。

(1)t<1>でそぽたんであるもの  =  t<2>でそぽたんであるもの

ここで、そぽたんは何からできてるんでしょうか。手とか足とかはともかくとして、なんか他にも、ポスト内でよく色々食べてますよね。食べてるってことは、部分になってるってことでしょう。そういうものも全部含みます。場合によると時間的な、魂的な部分として、中のひ…おっと失礼しました。とりあえずその時点での部分全部からそぽたんはできてます。てことで、次のように整理しましょう。ある時点nでのそぽたんの部分の全体をA<n>とします。nにはその時々の数字を入れましょう。すると、次の二つの式が出てきます。

(2)t<1>でそぽたんであるもの  =  A<1>
(3)t<2>でそぽたんであるもの  =  A<2>

ところで、そぽたんは今年の11月11日に、ポッキーを食べてたみたいですね。

じゃあこれを使って考えてみましょう。
そぽたんがポッキーを食べる前のある時点をt<1>、食べた後のある時点をt<2>と置きましょう。すると、そぽたんを構成する部分が明らかに変化しているわけですから、次の式は正しいでしょう。

(4)A<1>  ≠  A<2>

でも待ってくださいよ。(1)~(3)からして、「A<1>  =  A<2>」も正しいはずじゃないですか。これって矛盾してますよね?
はい。そうなんです。これが三次元主義がどのような点で”トンデモ理論”なのかを”分析”した結果です。当たり前だろこんなの、って?でも、形式的に分析して初めて、どこに矛盾があるのか明確に分かりましたよね(この例だと分かりやすすぎて、直感的にわかってしまうかもしれませんね)。どうでしょうか。分析哲学の人たちは、何も記号が使いたくて仕方のない異常者ではありません。記号化して形式的に書かないと浮かび上がりづらい、そういう矛盾が世の中にはあるってことなんですね。
でも待ってくれよ、じゃあやっぱり分析哲学がやってることって、形而上学の粗探し、つまり反ロマン哲学じゃん!!
少し違います。分析哲学は確かに、「それぞれ無限の時点に、それぞれ無限のそぽたんが存在し、それらはすべて同じそぽたんである」という、三次元主義の素朴な形而上学、率直なロマンに難癖つけます。でも、そこで止まりません。もっともっと分析していくと、更なる驚異的な形而上学、曲がりくねったロマンが顔を出してくるのです。

四次元主義

さっきまでの話を思い出してみてください。三次元主義はなぜ難しかったのでしょうか。それは、三次元主義の中で普通に認められるいくつかの関係が、いつの間にか矛盾を孕んでいたからですよね。じゃあその矛盾を取り除けば、よりもっともらしい存在論が取り出せるはずです。つまり、通時的同一性の問題に関して、よりもっともらしい答えが得られるはずです。どこをいじればいいのでしょうか?
四次元主義が目をつけるのは、(1)および(2)です。
三次元主義は個体の同一性を説明するときに、その時点におけるそぽたんの部分の全体同士を比較しました。そして、それぞれの時点で異なる部分からなるそぽたんについて、それが同一であると主張して、破綻しました。端的に言うと、井川先生の通時的同一性批判は、ここに集約されています。井川先生の批判はごもっともですが、三次元主義が信じ難いからといって、通時的同一性そのものを放棄するのは、ちょっぴり性急です。
あれ?名前出していいの?ここまで読んでくださった人なら、もう相当の物好きでしょうから、大丈夫でしょう。
話を戻すと、三次元主義はそういう仕方で破綻したので、ならそこの認識が間違っていたのです。そう見るのが四次元主義です。
四次元主義は、それぞれの時点でそぽたんであるものを、単なる部分の全体としてはみなしません。では何か。それはそぽたんの「時間的延長」における「時間的部分」だとみなします。時間的延長?時間的部分?てなんでしょうか。ではその前に空間的部分から。空間的部分というのは、そぽたんの目や鼻や手足のことです。細胞があれば細胞のことです。ポッキーが胃に入った直後ならポッキーもそうかもしれません。空間的部分は空間的延長において存在するため、空間上のある1点を2つ以上のものが占めることができません。そういう意味で、そぽたんはそのときごとに異なる領域を占める、それぞれの空間的部分からなる、空間的存在です。四次元主義はこれとまったく同じ意味で、そぽたんは時間的延長を持つ、というのです。そぽたんは空間内に広がっています。空間内のある領域をそぽたんが占めています。同様に、そぽたんは時間内に広がっています。時間内のある領域をそぽたんが占めています。
???
よくわかりませんかね?これがすぐによくわかる人は、第6感を持ってるかもしれません。こう考えてください。そぽたんが右手を持つように、そぽたんはt<1>における時間的部分T<1>を持ちます。そぽたんが右目を持つように、そぽたんはt<2>における時間的部分T<2>を持ちます。n個の時点においてn個の時間的部分があり、そのそれぞれをひとまとまりにしたでっかい塊。それがそぽたんの真の姿なのです。
四次元主義的な感覚を持つ人間がいるとしましょう。するとその人間には、
「そぽたんの右手と右目って離れてるけどおなじそぽたんなの?」
という疑問がナンセンス(これは実はナンセンスではありませんが、これを論じると2万字を軽く超えるので、今はナンセンスだとします)なのと同じようにして、
「t<1>のそぽたんをなすもの(T<1>)とt<2>のそぽたんをなすもの(T<2>)って離れてるけどおなじそぽたんなの?」
という疑問がナンセンスに感じられるわけです。時間的に離れているということは、四次元主義に言わせれば、空間的に多少離れていることと変わりません。空間的な部分からなる空間的存在があるのとまったく同じレベルの自然さで、時間的な部分からなる時間的存在があるのです!これのなんとロマンティックなことか。我々は普段、「個体」と聞くとすぐさま空間的なまとまりを想像します。しかし四次元主義の考え方に基づけば、個体は空間的なまとまりが時間的にさらにひとまとまりになった、よくわからない(ここがロマンである)四次元(超時空)的塊だったのです!

ロマンだけでは納得できない人もいますから、これがなぜ三次元主義に換わる、よりもっともらしい存在論であるのかを見て終わりにしましょう。(ちなみに、ここでは四次元主義までしか取り上げませんが、分析形而上学の議論はもっと深いところまで及びます。興味がある人はぜひいろいろ調べてみてください。)
すでに時空間に広がる四次元的個体という概念と、時間的部分T<n>という記号化は紹介しています。なのでそれも利用しましょう。

まず、t<1>およびt<2>における、T <1>およびT<2>からなる、それぞれそぽたんであるものをB<1>、B<2>として記号化しましょう。すると、三次元主義のときと同様、次の二つの式が出てきます。

(5)t<1>でそぽたんであるもの  =  B<1>
(6)t<2>でそぽたんであるもの  =  B<2>

ここで、四次元主義によれば、T<1>もT<2>も同じ四次元的個体そぽたんの部分に過ぎませんから、どちらからなるそぽたんも、存在論的には同一であることがわかります。よって、B<1>とB<2>の間にある関係は、同一性に他ならないことがわかります。よって、次の式は正しいことになります。

(7)B<1>  =  B<2>

また同時に、四次元主義の立場では、三次元主義の時に出てきたA<1>とA<2>はそれぞれT<1>とT<2>に他なりませんから、次の式も正しいことになります。

(8)T<1>  ≠  T<2>

何か気づきましたか?そうです。三次元主義は、それぞれの時点のそれぞれのそぽたんが持つ存在論的な身分を、その時点における部分のすべて(全体)に帰属させていました。だから、まさに存在論的な通時的同一性を問うときにも部分からなる全体どうしの同一性が問題となり、矛盾が生じたのでした。
一方、四次元主義は、それぞれの時点のそれぞれのそぽたんが持つ存在論的な身分を、より大きな塊としての四次元的個体に統一的に帰属させました。よって、四次元的個体におけるそれぞれの時間的部分T<1>およびT<2>がまったく異なっていたとしても、そんなこと当然だと言えるわけです。形式的矛盾も全く起こり得ません(T<1>=B<1>ではないことに十分注意しましょう。そぽたんであるものは一つしかありません。T<1>もT<2>も単なる部分ですから同一でなくても良く、B<1>とB<2>は存在論的にまったく同一ですから、(8)は真です。その上で、明らかに(7)と(8)は矛盾していません)。我々も、そぽたんの右手と右目が部分的に異なっているからと言って、それらが異なる存在だ!そんなものに同一性など認められるか!などと考えないでしょう。我々は普通に、同じそぽたんの異なる部分として、それらを捉えることができます。そぽたんは時空間的に広がっている大きな一つの塊で、そのうちの時間的な部分、すなわち、それぞれの時点の塊の一部が、それぞれの時点に顔を出しているというわけです。本体はもちろんでっかい一つの塊ですから、同じ個体の別の部分が顔を出しているということになります。ポッキーを食べる前のそぽたんも、食べた後のそぽたんも、同じ一つのそぽたんの”部分”であるわけです。

「俺たちってさ、時空を超えて広がりを持つ一つの大きな塊なんだよ…」

これを是非、周りの友人に言ってみましょう。たぶん超絶ロマンティックなオモシロ人間として重宝されるか、さもなくば何やら怪しい思想に取り憑かれたとみえて、今度からLINEの返信が少し淡白になるかも知れません。私は友人が少ないので実験できませんが、みなさんなら一人くらい失っても大丈夫でしょう。ぜひ実験して、その結果を教えてください。

ともかく、以上のような分析形而上学における三次元主義と四次元主義の議論を見てみると、分析哲学にロマンが欠けるなんて、口が裂けても言えないのではないでしょうか?そうなんです。分析哲学は(確かにそれを好む人が堅物である傾向はあるかもしれませんが)、滅茶苦茶ロマンティックなのです。恋のアンテナとか言ってる暇があれば、もっと分析哲学しましょう。異常、現場よりお届けしました。

おわりに

比較文化学類にいると、いろいろ実践的な学問に触れることができると思います。でもそんな中でふと、たまに出てくる抽象的な思想を前に、自分の足元が揺らぐ感覚があるという人も多いのではないでしょうか。

「自分のやっていることは学問なのか?」
「単なる妄想と何が違うんだろう」

というような感じ。私自身、これについては常に考え続けていますし、今後も考え続けなければいけない問題だと思います。でも、この問いに対する答えとして、今のところ一番「まあ結局それだよな」感があるものを、以前書き留めていました(というのを最近思い出しました)。分析哲学の系譜の中で、普遍の問題について研究している、アームストロングという哲学者の言葉です。みなさんの今後の思索の中でも、何らかの意味を持つかもしれません。それを紹介して終わりにしようと思います。

形而上学者は、自らの探究においていかなる確実性も期待すべきではない。ひょっとするといつの日か、この学科は変貌を遂げるかもしれないが、現時点で哲学者には、次のような仕方で問題領域をできるだけ入念に調べ上げるという以上のことはできない。すなわち、先人や同時代人の意見や論証に注意を払い、それらをもとにして誤りの可能性のある判断を下し、その判断をできる限り合理的に裏づける、といった仕方である。
                      (『現代普遍論争入門』, 289頁)

最後まで読んでくださった方、がいるかどうかはわかりませんが、お付き合いいただき誠にありがとうございました。暇なら何か反応などください。喜びます。
それでは。


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