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一番見たい写真、そして一番撮りたい写真

ネット上に日々洪水のようにあふれる写真たち。

それらの写真は、みんな何かを目指している。

「ただの写真」ではない。

全部みんな、何かを目指している。


それはカッコイイだったり、カワイイだったり、キレイだったり。

あるいは面白いだったり、スゴイだったり、オシャレだったり。


そして、大抵それらは十分達成されている。

十分カッコイイし、十分カワイイし、十分キレイ。

十分面白いし、十分スゴイし、十分オシャレ。


「ほー」とか「へー」とか言いながら、堪能する。

満足。


でも疲れる。見てて疲れる。

頑張って作ったのね。

「お疲れさん」って、そんな感じ。



もちろん、どうでもよく撮るなんて、そんなことはできない。

撮るならきちんと撮りたい。

どこに出しても恥ずかしくないように、きちんと仕上げたいし、自分の代名詞として世に出回るわけだから、一番いいって思われたい。

当然の思いだし、自分の写真が誰にも何も思われなくてスルーされるのは悲しい。

ちゃんとみんなの目に留まって、価値を認めてもらいたい。



そんな写真たちはすでに、ネットに上げる時点で「どうでしょうか?」と問うている。

「見てもらう」という時点ですでに、なんらかのリアクションを期待している。

そしてそのリアクションは、いいものであって欲しい。

だから、いいリアクションが期待できるような写真を上げる。


「どう?」ってその写真たちは、声を発している。

ネット上の写真は、ほとんど全部そう。

ほとんど全部の写真が、「どう?」「あたしどう?」「イケてる?」って、声を発している。


見ているほうは、その声に応えてあげなきゃという、謎のプレッシャーを受ける。

いいね!を押す、押さないにしても、心の中で「こうだね、ああだね」って、いちいち返事をしている。

スルーするにしても「いちいち」スルーしている。(笑)



声をかけられたら普通反応するでしょ?

駅前でティッシュを配っている人にも、「あ、どうも」ってもらわないなら、無視するという反応を「あえて」するでしょう?

それは一人で歩いている時の何もない感じとは明らかに違う。


ネット上を歩いていても、写真から声を掛けられる。

「あたしどうでしょうか?」「ぼくはどう?」


もちろん、ニュース写真とか「作品」ではない写真は、そんな声はかけてこない。

それらは街ですれ違う他人と同じで、いちいち声をかけてはこない。


でも「作品」は、ティッシュ配りの人と一緒。声をかけてくる。

一歩歩くごとに声をかけてくる。次から次へと。そりゃあ疲れる。

次から次に、どう?どう?って。

それは疲れる。



と、いうわけで、見たい写真。

それは、「何も言ってこない写真」。

「見て!」と言ってくるんじゃなくて、こっちから見に行きたくなる写真。


でも、ネットに上げてる時点ですでに「どう?」前提だから、なかなかそういう写真にはお目にかかれない。

いや、ネットだけでなくどんな媒体であっても、発表してる時点ですでに「どう?」って言っているようなもんだから、それは写真集でも雑誌でも同じ。


もちろんそれが悪いと言っているわけでは全然ないよ。

それらの写真は面白いし素敵だしサイコーだし、存分に楽しませてもらっている、もちろん。

ただ、何も言わない写真に、それとはまた別種の価値を感じるってだけ。


「何も言わない写真」


震える。


面白いとかキレイとは別次元を垣間見る。

異次元の空間が広がっている。

面白いとかキレイが霞んで消える。


震える。ほとんど、震える。


前回紹介した森栄喜の「intimacy」なんかがそれだし、ヴィヴィアン・マイヤーなんかもそれ。

そういう写真が見たいし、撮りたい。

でも、「撮りたい」って思った時点で撮れないんだろうな。(笑)


何も言わないって難しい。

どうやったらそんなふうに撮れるんだろう。

才能?センス?

それはほとんど、天からのギフトのように思える。


面白い写真やカッコイイ写真は、撮ろうと思えば撮れる。

頑張れば撮れる。

それは人のなせる技。


でも、何も言わない写真は、撮ろうと思っても撮れない。

頑張れば撮れるわけではない。

それはほとんど、天からのギフト。


何も言わない写真を前にすると、ほとんど無言になる。だって何も言ってないから。

何かを言っている写真を前にすると、多弁になる。だって写真がよくしゃべってるから。


無言。

ただ写真に引き込まれたい。

それが自分にとって、最高の写真。



何も言ってないことの何がそんなにすごいのかって?

いや、全然すごくないよ。

全然すごくないところがすごい。(笑)


大抵の写真は、すごくあろうとしている。

それはまあ、人間的な情動だね。

人間らしい心の動きだ。

人がビルを建てたりロケットを飛ばしたりするのと一緒。

ビルやロケットはすごい。確かにすごい。


でも、何も言わない写真は「ただ風が吹いただけ」みたいな写真。

ビルやロケットみたいにすごくはない。

いや、それどころかなんにもすごくはない。ひとかけらのすごさもない。


でもちょっと待って。


「ただ風が吹いただけ」

それってすごくないですか?(笑)


面白いか面白くないかで言ったら、面白くない。

すごいかすごくないかで言ったら、すごくない。

ただ風が吹いただけ、なんて、全然面白くもないし、すごくもない。


でも、ただ風が吹くことは、とてつもない奇跡です。

震えるほど、奇跡。

わかります?


だって何もやってないのに何かが起こるってすごくないですか?

ビルやロケットは確かにそのようにやった。だからその通りのことが起こった。ごく当たり前。

すごいかもしれないけど、それは別に当たり前のこと。

でも、風は吹かせてないのに吹いた。


すごくないですか? 奇跡じゃないですか?


意味わかりますかね?


とにかく震えるんです。震えるほどの奇跡を目の当たりにするんです。

そういう写真が見たいし、撮りたい。


ああ写真の醍醐味はここに尽きる。



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