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「表現」を超えてゆけ

写真は「表現」だと言いますね。

つまり、伝えているわけです、何かを。


何も伝わらなかったら表現じゃない。

いい写真とは「伝わる写真」。

そんなふうにも言われます。


そういう意味で、写真はどれも一緒です。

フォロワーが何百万人もいる人から、つい昨日始めたばかりの人まで。


全員「表現」という土俵の上で、相撲を取っている力士です。

幕下から横綱まで、番付はいろいろありましょうが、表現という土俵の上で相撲を取る力士という意味では、全員一緒です。

やっていることはみんな同じです。


さて。

その土俵を降りてみようという人はいませんか?

皆が横綱目指して必死に汗をかいているのを横目に、土俵を降りる。

表現をやめる、ということです。


「写真=表現だから、表現をやめるということは、写真をやめるということですか?」


いや、違いますね。

表現をやめても写真は撮れますね。

表現はしないけど、写真は撮るということです。


「それってなにがおもしろいの?」


逆に表現の何がおもしろいんですか?

本当におもしろいですか? それ。

汗かいて横綱になって、だから何ですか?

「伝わった」からといって、だから何ですか?

伝える相手がいなかったら写真は撮らないんですか?

写真はコミュニケーションのツールですか?

写真それ自体で存在しちゃダメなんですか?



伝わらなくても、写真は写真です。

「表現」に縛られていませんか?

写真には何か「意味」がないと、撮ってはいけないと。

意味を盛り込んで、感動を盛り込んで、余すところなく一滴も漏らさず盛り込んで、さあどうだ、と。

意味と感動のてんこ盛り。

そしてそれを受け取る。

わあすごい、わあおいしい。


送り手と受け手の間に、感動が通い合う。

心が通じる、うれしい、楽しい。

素晴らしい瞬間。

打ち上げ花火の一瞬のきらめき。

一発終わったら、また次の一発。

次から次へと、どんどんどん。パパーン。


それはそれでいいよ、もちろん。

打ち上げ花火、楽しめばいい。

次から次にあがる花火に、拍手喝采送ればいい。



ヴィヴィアン・マイヤーって人、知ってます?

土俵降りた人。

てかそもそも土俵に上がったこともない人。


表現はしてないけど、写真は撮ってる人。

そもそも写真をどこにも発表してない。

死後にその写真が発見されて、話題になった人です。


ヴィヴィアンの写真は、ただの写真です。表現してない。

ただ撮りたいものを撮っただけの写真です。

だけど、世界中で話題になりました。

「これはすごい」と。


土俵に乗せられて、一気に横綱まで駆け上がった人です。死後に。(笑)

でもそれを撮ってる時、彼女は土俵にいませんでした。

土俵外で写真を撮っていました。

誰ともコミュニケーション取っていませんでした。

写真はコミュニケーションのツールではありませんでした。

にもかかわらず、横綱になっちゃいました。

別に相撲なんて取りたくなかったのです。

非常に彼女は、正直な人だったと思います。


「相撲なんて、取りたくない」


彼女はハッキリそういいました。

写真がハッキリ、そう語っています。

自由。奔放不羈。天衣無縫。

表現に縛られていません。

表現よりも自由が大事だと、そう語っています。写真がね。


表現なんて、露ほども気にしちゃいません。

こんな写真が可能なのかと、土俵上の力士はポカンと口をあけて見守るばかりです。

さっと視界が開ける。

狭い部屋から、一気に青空の下に解放される。


土俵だけが世界じゃないよ。

土俵の外にも世界が広がっているよ。

広大な世界が。

無限な世界が。

一筋に力士人生を全うするのも大いに結構だけど、土俵の外を知るのも素晴らしいよ。

土俵を降りるという選択肢もあるんだよ。


「表現」

素晴らしいことだね、楽しいことだね。

だけど、素晴らしい、楽しい、だけが写真じゃないね。


「表現」を超えてゆけ。

あなたの知らない可能性が、まだまだ写真にはある。

その可能性とはつまり、あなた自身の可能性。



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