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写真をめぐる冒険

我々は写真において、何を目指しているのでしょうか。

プロになること?コンテストに入選すること?インフルエンサーになること?ただ単に上手くなること?

ほめられること?満足のいく写真を撮ること?帰属意識を得ること?気を紛らわすこと?


我々は写真において、何を目指しているのでしょうか。

多くの人は、ただ単にシャッターを切っているのではなく、ここではないどこかを目指して、シャッターを切っています。

今いる場所ではなく、どこか違う場所、素晴らしい場所を目指して。

そのために情報を仕入れ、勉強し、機材を吟味し、いろんな写真を見、撮影に励み、画像処理に打ち込み、ありとあらゆる活動を行います。

それだけの時間とお金と労力をつぎ込んで、一体どこへ行こうとしているのでしょう。

我々は一体、何を目指しているのでしょう。



「どこまでいっても、どこにも着かない」

そんな感覚は、ありませんか?

着いたと思った先は、ゴールではなかった。

その先にまだ、向かうべき場所があった。

永遠に何かを目指して、歩み続けている。

誰かの写真や文章に感化され、自分でも写真を撮り、どこかのセミナーに参加し、ハウツーやテクニックを仕入れ、SNSに写真をアップし、褒められたりスルーされたり、うまくいったりいかなかったり。


「写真にゴールはない、永遠に歩み続けるのが写真ってものだ」

「永遠に向上していき、ゴールはない」

「その過程こそが大事なんだ」


永遠に歩み続けて、何を得たでしょうか。

お金?地位?人気?写真の技術?一時的な満足?

やって来ては去っていく満足。

たどり着いたと思った到達点は、次の瞬間には流れ去り、また次の到達点を目指すしかない。

この無限ループを一定期間繰り返すと、「なんのために」という疑問が浮かび上がります。



やっていることは、いつどの時点でも同じです。

「どこかを目指し、ひたすら歩く」

その過程で、技術を身に付けたり、知識を身に付けたり、自信を身に付けたり。

地位や名誉や人気や、お金もいくらか得たかもしれません。

それに伴う満足や不満足も、得たり得なかったりしたかもしれません。

しかし、「どこかを目指し、ひたすら歩み続ける」というやっていること自体は、どの時点でも同じです。


「この終わりのない旅の意味は一体何なんだ」

ふと立ち止まりたくなる瞬間があったら、その意味をよく吟味してみるのも、悪くないでしょう。



永遠に続く、我々の旅路。

「あくなき向上心」

常に改善し、向上し、努力し続ける姿は、美しいとすら言われます。


何が我々を掻き立てるのでしょうか。

その先にあるとされている満足でしょうか?

あるいは不安や空しさから逃れるため?


何かを得るため、あるいは何かから逃れるために、我々は歩み続けます。

ひたすら歩み続けます。

「なぜ」を問うことをせず、ただひたすら、歩み続けます。


で、今ここで、あらためて「なぜ」を問う機会が生まれました。

「なぜ?」



答えは出ますか?

出たと思った答えにさらに「なぜ」をぶつけると、最終的には「無意味」に行き着くのではないでしょうか。

逆に無意味に行き着かないとしたら、まだ意味をはぎ取り尽くしていないということです。途中でやめているということです。

物事から意味をはぎ取り尽くしたら、必ず無意味に行き着くはずです。


動物や植物は、その無意味さの中に安住しています。

ただそのまんまで、生きています。

しかし人間だけは、その無意味の無意味さに耐えられず、何かしら意味をこしらえて、何とか納得しようとしています。

自分の人生を、何か意味のあるものにしたい、何か素晴らしいものであると納得したい。

動物や植物が考えないようなことを、人間は考えます。

だから必ず、何かしら意味を残したいと願います。


「あくなき向上心」という言葉は、どちらかと言えばいい意味合いの言葉です。

目指すこと、達成すること、努力することは、「いいこと」という意味合いが常識です。

逆に、何もしないのは「問題である」という意味付けが、これまた常識です。

「働かざるもの食うべからず」などと言われ、テレビを観ていたら「勉強しなさい」と言われます。


しかし事実を正直に見ると、物事に意味は見出せません。

事実は、やっていることに意味を付着させることであり、それらの意味を取り除いていくと、残るのは「無意味」です。

あまり直視したくないかもしれませんが、正直に見ると、それが事実です。


なぜ直視したくないのかというと、無意味には「空しさ」という意味が一般的には付与されているからです。(笑)

自分のやっていることは空しいこと、ムダなことだとは、誰も思いたくありません。

「リア充」なんて言葉もありますが、充実は善で、空疎は悪という意味付けの世の中です。


全ての出来事、あらゆる物事に意味を、意味を、意味を。

意味を貼り付け、意味の中で生きるのが人間です。


もちろん、それはそれで面白いことです。

しかし、この文章をここまで読んでいるあなたは、その「微妙なごまかし」を見逃すことが出来ません。

うわべじゃ乾いた心を、誰もが明るく喋っているこの状況に、違和感を禁じ得ません。

というわけで、その無意味さを覗き込んでみましょう。

その深遠さを直視してみましょう。



どうでしょう。

無意味さはあくまで無意味さであり、それ以外の何物でもありません。

本当に無意味です、ただ単に無意味です、我々のやっていることは。

あっけらかんと素直に、それを認めることができます。

「そうだよね」

笑っちゃうくらい、無意味です。

普通に、そのまんま見たら、それはもうただの無意味です。


何やら大そうなこと、すごいこと、重大な意義、名作傑作、目の覚めるような視点、しかめっ面で説く論点、涙を誘う感動秘話。

それらは何もありませんでした。

それらは「そうあってほしい」とか「その意味を選択する」と、各々がお好みで後付けした意味です。

実体は無意味です。


しかしながらその無意味は、「解放」です。

意味からの解放です。

空しさでもムダでもなく、解放。

「そっかあ、自分のやってることは無意味かぁ」

何だろこの清々しさ。


無意味だからこそ、やってもいいし、やらなくてもいいし、自由です。

意味に縛られることなく、どこに行く必要もなく、達成すべき何物もない。

今あなたは、どこにも向かっていません。

自分自身という家で、くつろいでいます。



あなたが目指している場所は、そこではないですか?

あなたが本当に目指している場所は、どこか遠くではなく、そこではないですか?


何かを目指し、何かを得て、何かを失い、また何かを目指す。

そうではなく、何もない場所。

何もないがゆえに、何も失うものがない場所。

何でもないからこそ、何にでもなれる場所。

その手に何も握ってないから、全てを掴むことができる場所。

全てがある、場所。


どこか違う場所を目指して今まで歩み続けてきたわけですが、そりゃあいつまでたってもゴールにたどり着けないわけです。

だって本当にたどり着きたかったのは、今いる場所ですから。(笑)


写真をめぐる冒険は、ついに大団円を迎えました。

いや、冒険すら始まってなかったですね。

初めからそこにいましたね。(笑)


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