朧豆腐は形あるものと言えるかについての考察

ひさとしメンバーのアンサーが面白くて、もう一つ悪ノリを重ねてみる。

人は、歩くために、ステップを踏むために、二本足である。三本足だと、安定しすぎて、動けない。動くためにこそ二本足であり、二本足だからこそ、立つという行為が、揺らぐを含む行為となる。

揺らぐからこそ、立てる。立つために、揺らぐ。

善があるから悪がある、なんて話にしたら、まんま老子の教えになってしまうが、まあ、そういった類の話をしようとしている。

ここでもう一歩、前進する。形あるもの、って、なんだろう、とか、最近考えているのである。

ネジには形がある。ギターにもある。ものは、そこにある。形があるから手に触れられるし、目に映る。

では歌詞はどうなのか。メロディは。形はないけど、やっぱり、ものだ。

情報システムやソフトウェアにも、姿形はないが、ああいったものも、設計され、製造される。つまり、もの、だ。ソースコードがあるじゃないかというかもしれない、電磁気記録が実体だというかもしれない。しかしソフトウェアが実際にリアリティを発揮するのは、徹頭徹尾その「働き」なのであり、物理的実体にはあまり意味がない。ユーザーインターフェースがそれだという人もいるかもしれない。しかしUIは映写するデバイスによって千変万化する。

やつらは、「もの」のくせして、ぐにゃぐにゃとして捉えどころがない。

押井守師匠なら、映画こそどうなんだと言うに違いない。あらゆる映画はコピーであり、つまりオリジナルは存在しない。ゆえに記憶として語られるべきだし、記憶としてしか語り得ぬものなのだ、と。

立つ、と、揺らぐ、の関係は、形、と、もの、の関係に似てはいないか。

つまり、もの、というのは、実存というよりは、働きなのだと。

光は波であり、粒である、みたいな話でもあるし、シニフィエとシニフィアン、みたいな話にも似ている。

どこまでいっても、この世は二元的なんだなぁと、最近思う。

やや、少々、悪ノリが過ぎた。ちょっとまだ、このあたりは生煮えなんだ。そう、言ってしまえば、ひとすくいのおぼろ豆腐のように。

それでも指先が滑ってしまうのも、これもまたひとえに心の揺らぎのなせるわざなのである。

(ようへい)


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