一杯の盛り蕎麦に宿る禅的なムード

今日も今日とて蕎麦を食す。パパバンドのnoteが急遽「お父さんたちの蕎麦備忘録」に脱線しては、一体これはなんだという話なのだが、これもパパバンドゆえの、無用の用というやつなのである。

制作については、新曲の歌詞についてひさとしメンバーに少々大変なお願いをしてしまったので、きっと四苦八苦しているのかもしれない。あんまり苦しむのもよくない。打ちっぱなしでシャフトと戯れボールを打ち、湯に浸かり、サウナで整い、蕎麦でも食いながら、というのが良い距離感のつかまえかたなのではないかという。

しかしあんまり寒いものだから、今日は温かい蕎麦をいただいた。

もりを選ぶかかけを選ぶか、たったのそれだけで、こんなにも佇まいが変化する食べ物というのも珍しいな、と思った。

冷たいお蕎麦には、たとえそれが屋台でも立ち食いで食したとしても、スノッブな雰囲気がある。海原雄山的なこだわり、武士はくわねど高楊枝的な見栄、ああ一回ツユにたっぷりひたして食いたかったと遺言した江戸っ子の後悔。粋の世界。

一方で、真冬に啜る温かい蕎麦は、スキーリゾートで食べたとしても、即物的で、どことなくうらぶれた感じがする。あったまりたくて、栄養をとりたくて食べるのに、蕎麦ぐらいしかない、という感じ。

うどんにも冷え冷えとかアツアツとか、そういうものがあるが、そうした情景をよびおこすものではない。ラーメンの世界につけ麺という蕎麦ライクな食べ方が定着してもう随分と長い時間が経過しているが、やはり、こちらも然りである。

盛り蕎麦に宿る独特の価値観がどこからやってくるのか。大した根拠があるわけではないが、ワサビではないのかなと思ったのだった。冷たいお蕎麦限定のジャパニーズ・スパイス。(いや、ハーブなのか?)

そもそもワサビというもの自体、冷たいメニュー限定の調味料であって、考えてみれば、それ自体がなかなか興味深い。芥子はおでんに添える。(山葵だってステーキに添えたりもするけど、それは例外中の例外といって差し支えあるまい)

一杯の盛り蕎麦に宿る、禅的なムード。それはやはり、「里」ではなく、「山」に通じる意味論的空間において認識されるべきであろう。

で、あろう、なんて、まあ、そんな大仰な話でもなんでもないんだけど。

新曲「抜けてるお父さん(仮題)」の歌詞を待ちながら、ようへいメンバーは今日も蕎麦を啜る。

(ようへい)

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