嘘に宿る本当と、本当に潜む嘘

大ヒットした低予算映画、という以外の情報をまったく持たずして、Amazonプライムにあったというだけの理由で話題作「カメラを止めるな」をみた。

みたらまぁ、面白いこと!話題になる作品は、なんだかんだ面白いよね。

しかし、どこからどこまでが計算で、どこから先が後付けなのか、考えていくと全然わからなくなる。そういう感じが面白いし、そこがヒットの核心なのだろう。

作為と計算に満ちた時間のなかで、冒頭の監督の言葉だけが真実だ。

気が弱くて、周囲の人々のバランスを取ることにばかり汲々とするだけで、本来の自分として生きていない人間、それは観客一人ひとりの似姿でもある。初見で抱く違和感と、二回目の腹落ち感、それはカタルシスと呼ぶにたる映像体験だ。しかし彼のドラマはそこでは終わらない。最後の最後におまけのどんでん返し。うーん。何度反芻しても愉しい。

や、ほんと、どこからどこまでが計算で、どのあたりがアドリブで、どこから先が編集なのか。

これでもかというぐらいにメタフィクションで、だからこそ、検索したら考察やら感想やら批評やらがたくさん見つかることだろう。この文章もまぁ、そのひとつなんだけど。

スターウォーズもマーベルも売れなくて、この世界の片隅にとか、カメ止めとか、こういう作品が売れる日本マーケットは意味不明だとかガラパゴスだとか、散々な言われようみたいだけど、捨てたもんじゃないじゃんと思う。こんなハイコンテキストな作品が売れるって、観客の成熟なくしては有り得ない。

とはいえ、こんな作品が出るのって、公式も方程式もない。それこそ偶然ぽこっと、なにかの具合で即興的に生まれるような話であって、作り手からすると、大変な時代なのかなぁとか愚考してみたりもする。

多少なりともいま売れる作品って、ストレートなコンテンツそのものというよりは、メタな視点や要素を含んでいる。そこから始めないと、なんか、照れ臭くて見てられない。そこにある嘘の感じ。作りものはあくまで作りものであって、その浅はかさに酔うような若さはいまの受け手にはない。

でもそこから出発して、そのうえで、なにかこう、メタな視点を突き抜けるドライブ感、グルーヴ感、暴走感。これを持っている作品が、近年のヒット作の共通点ではないか。はいはい、まぁまぁ、と半分舐めてかかった観客が、冒頭の20分ぐらいで、あれ?って感じで座り直す。虚構は虚構なんだけど、ちょっとなにかそれでは終わらせられない、済まされないリアリティのにおい。

シンゴジラみたいに満を持した布陣で達成する場合もあれば、ボヘミアンラプソディみたいに、そこを狙って作られたのではなくともそのようにして受け入れられるものもある。インディーズ、アングラ、クラウドファンディング的な世界から出てくる場合もある。

そんなふうに見ると、アマチュアやその延長にいる人間にもチャンスがある、という話でもあり、我が音楽制作においてもテーマとすべき話だと思うのである。

ひさとしメンバーも書いていてほんとそうだと思ったが、まず、好きなことをやるということだ。それを自己満足の内側で煮詰めて煮詰めて煮詰めたその先に、外側に飛び出していくエネルギー。カメ止めは、なんかそういうテンションに満ちていた。

音楽の世界で思い返すと、プーチンズのファーストアルバムはまさにそんな感じだったなぁとか。既製の枠のなかで違和感をもたらさない作品は、生き残る道はない。しかしただぶち破ればいいわけでもない。そこから入る、入って油断させておいたところで、ディープなインサイトってやつを、大衆の心の琴線ってやつを鷲掴みにする。

真実というやつは、虚構を通してしか語れない。そういうことの首根っこをつかむことができれば、表現者として一歩突き抜けられる気がする。

(ようへい)


追記

と、ここまで書いてから少しばかり関連情報を拾い読みしてみた。思っていた以上に計算されていた!型に嵌めて、そこからはみでるトラブルも含めて計算されていた。三幕構成とか、内的ゴールと外的ゴールとか、フォーマットにもめちゃくちゃ忠実だった!そこが一番の驚きかもしれない。基本を使いこなしているからこそ、基本臭さを感じさせない。ものすごい個性的でユニークな要素が、商品としての仕様に嵌め込まれている。「個性の出し方」のお手本のような。

あと、冒頭の監督の言葉がこの作品のテーマだ、という話は、事後的に自覚した、みたいな話も読んだ。確かに、あんまりテーマを大上段に構えるんじゃなくて、商品としてまずはきっちり仕上げることがまずあって、その先にテーマがやってくる、というのがほど良き手順なのかもしれない。テーマ先行だと、頭でっかちになっちゃう。まあ、それにはそれの味や面白さがあるんだろうけど。面白いものを作りたい、楽しんでもらいたいというリビドオが優先する作家が、村上春樹であり宮崎駿であり、はたまた尾田栄一郎であり、絶えず自意識のもとにある作家が、高橋源一郎であり押井守であり冨樫義博である、という。カメ止めの監督は前者タイプなのだろう。良いプロデューサーと組んだら、継続的に成功できるんじゃないかな、とか、ちょっとまた偉そうに愚考してみる。なんだかんだ、自分は後者タイプの作家に惹かれる。でもだからこそ、自分がものを作るときは、オーソドックスに王道的なフォーマットを守り、受け手に見せたいものをきちんと考え、演出として落とし込むことを意識した方が良いのだろう。基本キッチリ、技術バッチリ、これがあって初めて、個性もアイデアも花開く。

https://www.scenarioclub.jp/kametomeueda/


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