フレディ・マーキュリーと、禅的なもの。
本日も、インディーズバンドのプロモーションnoteにも関わらず、音楽にはあんまり関係ない、でもちょっと関係ある話を問わず語りのようへいメンバーです。
独立して、一本独鈷でやっていこうと決意して、3ヶ月ほど、実際に営業活動を始めて2ヶ月ほど、登記をしてから1ヶ月ほどが経って。
今日は「まさしくこういう仕事をしようと思っていた」という仕事ができた日だったのでした。
連想するのは映画「ボヘミアンラプソディー」で。
美化されたフィクションだ、なんて批評もあるけれど、あの作品で語られるフレディの言葉には、真実味がある。
あの作品の本当のクライマックスは、ライブエイドではなくて、病気のことをカムアウトして「同情なんか必要ないよ。僕はパフォーマーだ。パフォーマーになるために生まれたし、パフォーマーであるためにここにこうしている」(だいぶ意訳)と語るシーンなんだ。
禅っぽくこのセリフを解釈すると、こういうことになる。
生まれ落ちる因、外の世界と触れ合うことで生じる縁。それが導く果、この三者の不一致が苦しみを生じさせる。自分を自分が肯定できないことが、最大の苦しみである。うらをかえすと、内なる動機と他者からの需要が、のびのびと自然に一致したあり方こそが、目指すべき唯一の境地、悟りなんだ、と。
ボヘミアンラプソディーという楽曲を通して、フレディは自己否定の際限ない苦しみを朗々と歌い上げる。
Mama ooo (anyway the wind blows)
I don't want to die
I sometimes wish
I'd never been born at all
ママ (明日は明日の風は吹く)
死にたくないよ
この世に
生まれてなんか こなきゃよかった
自己と世界の不一致による苦しみというものは、洋の東西を問わない。お経みたいな歌だな、と、思う。
フレディマーキュリーという人物が、本当にそんな悟りの境地に生きたのか、やっぱり最後までのたうちまわったのかは、知りようもないんだけれど。たとえ虚構だとしても、いや虚構だからこそ。あの映画で、あのセリフが語られたことに、私は、感銘を受けないわけにはいかないのであります。
仕事をするにしても、音楽を作るにしても、そんな境地を体現したい。それを積み重ねることは、修行のようでもあり、遊びのようでもある。
そういう、ちょっと前向きなことを語ることができるのは、仕事のうえで、少しばかりの手応えを感じることができたからで。
御縁に感謝をしないわけには、いかないとひとりしみじみしているのです。
(ようへい)
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