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自分以外自分じゃないの。

 昨年末からツイッターの使い方を変えている。2ヶ月経ってみて、新しい使い方の良さを感じている。何かというと自分に1つルールを置いただけ。それは「ツイッターに自分の考えを出来るだけ残せ」だ。これをマイルールにすると、「考える」が適度に強制されるようになる。この感じが良い。

 そうでも無ければ、忙しい日常の中でこんな「そもそも」を考える機会もないし、考えようとも思わない。

 このツイートは、このまとめに繋がった。

 人は「考える」という行為の対象を目の前のことに置きがちになる。いわゆる「重要度が高く、緊急度も高い」という事案だ。自分の日常の意識の外のことまで含めて考えてみるということを意外にやれていないのではないか。日常が忙しいほど、このやれなさ加減は強化される。

 「忙しい側の自分」からしたら、意識の外に押し出していることにわざわざ時間を割くというのは、ムダと認識するかもしれない。でも、そこにこそ、日常の自分では考えつきのようなことの発見があったりして。面白いのだよね。

 時々「むきなおり (向かいたい方向から、今ココの自分を省みる) 」ってどのくらいの頻度でやるべきですか?って聞かれることがある。私は少なくとも週一回日曜の朝にその機会を置いている。週一と答えると「多い」と感じられることがある。

 だけどね。もっと、じゃない?毎日何度もむきなおりしていたら、自分の生きたい生き方になっていくような気がしないだろうか。自分の生き方なんて、他人にはわからないし、自分でも確信なんて持てないんじゃない。だからこそ、自分自身に問いかける時間はかけがえがないのだ。

 そんなに頻繁にむきなおっていたら、時間がかかるかもしれない。だが、目の前のことに反応するだけの自分のことを、自信を持って自分だと言えるのだろうか。

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