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私は好きにした。君らも好きにしろ。

 どんなコミュニティにいたとしても、いつか違和感を感じるときがくるはずだ。そこでのやり方、在り方に対して、自分自身は異なる考えを持ち始める時が。それは何を問題として見るのか、何を可能性と見るのか、何を優先順位として高めるのか(何をファーストに置くのか)といった見解として現れるようになる。

 既存のコミュニティと、そうした問題意識、優先順位が合うかどうかは全く分からない。むしろ、現状のコミュニティには存在しえないものについての意識の現れなので、合わない可能性の方が高い。そうしたとき、どういう行動を取るか。コミュニティの外に出るか、コミュニティの中で自分の方向性が受け入れられるように働きかけるか、いずれかの場合が多いだろう。

 個々人の意見や生き方の多様性が受け入れられつつある社会にあたっては、コミュニティの中で共感を得ようと時間を費やすことが必ずしも良い選択とは言えなくなっている。

 「他者と共感を得て、進めていく」ことを重視するかどうかはコミュニティ(あなた以外の人)に委ねられている。「自分が好きにする」ということは、自ずと自分以外の人の「好きにする」も受け入れることになる。それは、コミュニティ側があなたの方向性とは合わない、という判断をすることも当然ありえるということであり、またそれを深刻に受け止める必要も無い。いくらでも外に可能性はある。多様性が高まる社会とはそういうことだと考えている。

 越境という言葉には、これまでの考え方ややり方とは異なる、ときには真逆の選択を取るという行動意思が込められている。コミュニティの中で、自分の意思を貫くという越境もあれば、コミュニティの外へ自分の問いを立てにいくという越境もある。

 いずれの越境にしても、その手前には「自分自身のこれまでの見方」自体を捉え、捨てる、脇に置く、受け止めつつ違う見方をする、といった自分自身に対する越境があるはずだ。おそらく「他者と共感を得て、進めていく」ことも手段になるだろう。自分の可能性を、自分のこれまでの認識や価値観で閉ざす必要はない。

 孤独のことを「ぼっち」と言って揶揄することが多かったが、このように考えると、孤独とは越境に伴う一つの在り方、その状態をこそ良しとみる価値観とさえ言って良いのではないかと私は思うようになった。孤独とは、孤高に通じる。そうした在り方もありえる社会の多様性とは、希望に他ならない。

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