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コミュニティは再会の約束。

 運営しているコミュニティの10周年記念を開催した。もう丸11年になる。2日間におよぶ会期の最後にしたのは、コミュニティの記念会にはそぐわない孤独の話。事前に聞いてもらった人には「暗い」と言われた。しょうがない、私の持つ性分だ。

 コミュニティにあるのは、ひたすらな出会いと別れ、その間に生まれるお互いの学びに尽きる。「学び」の部分はそのコミュニティがまさに集まっている「理由」にあたるため、もちろん他の場合もあるだろう。集まる理由も無いのに続いていく組織は無い。

 出会いがなければコミュニティは先細っていく。別れが待っているからだ。会社と違って、その場に物理的精神的につどわなければならない制約があるわけではない。別れは出会った次の瞬間に起きることもある。契約ではなく感性で繋がること(あるいは繋がりをやめること)。それがコミュニティの醍醐味であり、場づくりの難しさである。

 場づくりに必要な役割は、2つあると思う。一つは、今回の10周年記念で欠かせない存在であったように、場自体の創造、維持、運用をはかる「運営」という存在。大掛かりで、実現しているコンセプトがはっきりしているほど、それを具現する役割が必要になる。もう一つは、「定点」だ。

 定点とは、時の流れを越えて存在し続けるもので、コミュニティの掲げる「理由」を見守り、時に介入しそのメンテを行なっていく。定点だけには、「別れ」が無い。あるいは定点の引き継ぎが何らかの形で取られる。

 いずれにしても中の人が入れ替わったとしても存在し続けるもの。それはたった一人かもしれないし、複数人で担う場合もある。私は前者で、10年以上眼前に流れていく「ひたすらな出会いと別れ」を眺めてきた。そうした時の流れを背負って出てきた言葉が「どこまでいっても、ぼっち」なのだ。

 多くの人と繋がり、囲まれて孤独とは無縁のように思える存在。その実は、誰よりも孤独だ。「別れ」が無いとは、見送り続ける側だからだ。コミュニティでの別れは会社ほどはっきりとしたセレモニーがあるわけではない。人はそっと離れていく。そのことに気がついたとき、心中で穏やかな別れの言葉を送るだけだ。

 多くの場合はその役割を担い続ける意思をなくし、自身の「別れ」を告げようとするのだろう。私も何度もそういうチャンスがあった。だが、今もこうして留まり続けている。なぜか? その理由にはっきりと気づいたのは10周年記念をクロージングした後だった。

 クロージングの際、コミュニティを11年前に一緒につくり始めた「2人目の存在」に私は声をかけた。クロージングの前振りをしてほしい、と。彼もとうに「別れ」を告げた側である。記念回ということで声をかけて来てもらっていた。

 特に感慨深さもなく、頷き引き受けてくれた。前振りをするには、全参加者の前に立つ必要がある。この日のクロージングは、コミュニティの1人目(私)と、2人目(彼)の2人が参加者の皆さんの前に立つことになった。これは、ひょっとしたら11年前の最初の立上げの回以来のことかもしれなかった。

 会を終えて、彼は言った。「ここに立つと、すべての参加者と、すべての運営者、登壇者の人たちの顔が揃っているのを眺められるのですね」と。そう、時を越えて揃ったその風景を眺められるのは、最後に壇上に立つ者だけなのだ。

 その風景を、私は11年みてきた。一人で。それが、定点の役割だ。最後に、あなた(彼)に見せられて良かった。

 我々は、これからまた出会いと別れを繰り返していくだろう。私は最後の一人を見送るまでそこに居続けるのだろうか。それとも。私も誰かに別れを告げられる時がくるのだろうか。どちらが来ても、私は今度こそ人前で泣くことだろう。

 出会いと別れを繰り返すことは、別に寂しいことではない。コミュニティとは、その存在が再会の約束なのだから

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