「日常への最適化」レールから、外れろ。

日常への最適化

 人が認識できていない多くのことの中で、本人に与える影響が強く、かつ最も気づきにくい一つが「日常への最適化」ではないかと思うようになった。

 日常起きること、日常での関係性など普段の営みで直面すること、繰り返されることに上手く適応できなければ、毎日に疲弊してしまう。自ずと日常の苦痛を和らげたり、無くすために、上手くやる工夫を取る。

 日常を上手くやろうモメンタムは、ゆっくりとその方向性を強めていく。本人が気づかないくらいの速度で。真面目な性格、日々の成果にこだわりのある人ほど、そのモメンタムに加速を与えていく。どれほど「日常」への最適化に集中しているのか、気づくことはまず無い。なぜなら望みどおり結果が良くなっていくからだ。良いことをやって何が悪いの?

 そう考えると「日常が上手くいかない」というのは「日常への最適化」レールから外れられるきっかけになるかもしれない。上手くいかなかったとき、自分がダメなんだという自責のみ問うのか、自分には別の選択肢があるかもしれないと捉えるのかで、その後が大きく変わりそうだ。

組織とは日常への最適化を後押しする仕組み

 多くの場合、日常への最適化を放棄するわけにはいかない。仕事で成果をあげるためには、必要なこと。組織にいれば仕事のカイゼンが奨励され、そのこと自体に疑問を挟む余地は少なくなる。

 思えば組織とは、日常への最適化を助ける環境が整っている。最適化のためには集中が必要だ。単一のプロジェクトやプロダクト、期待される役割、毎日集まる場所、限られた関係性。いずれも人の集中を促すもの。

 なお、組織に所属しなくても日常への最適化は起こる。組織から離れることで仕事の選択、関係性の選択という自由を得られるようで、そうとも限らない。前提に日常を生き抜くことが加わり、その一点に意思決定をあわせる、という新たなレールが敷かれる。場合によっては、組織にいる頃よりも日常への最適化が高まるかもしれない。

日常に引っかかりを置く

 日常への最適化に対して「本当に自分にとって良い判断になっているのか」と疑問を感じにくいのは、「最適化によって目の前の結果がよくなる」、またそうなっていく「日常に対して強い不満があるわけでもない」からだ。

 ただ、最適化の力学は思う以上に自分の行動を決めている。その選択が自分にとって最良のものなのかどうかは、本人にしかわからない。ならば、この力学が働いていること自体に、まず自分で気づいて、向き合うよりほかない。他の選択肢があるのかと踏みとどまって考えるためには、日常に引っかかりを置く必要がある。

 一つは、自分の「こうしたい」という意思を自分の外に置くことだ。やりたいことが自分の中にしか宿っていないようだと、日常のモメンタムにあっという間に忘却へと流されてしまう。外部化しておくと、目に入れば思い出すことができる。

 もう一つは、人との関係性を同じようにあらわすことだ(ここが私にとっての最近の気づき)。人によって度合いがあると思うが、人の活動を一点に集中させる組織形態から距離を置けば置くほど人との多様な出会い、関係性が生まれやすくなる。ピアツーピアの繋がりが圧倒的に増え、そして、手に負えなくなっていく。

 誰とどんな関係性があったか、何をしたいと企んでいたか、どうなりたいと思い描いていたかという記憶が、目の前のことに必要な関係性によって追いやられていく。日常という狭い範囲で単純接触効果が働き、見失っていく。日常への最適化が、人と人との関係性をも最適化する。

 自分の中に宿るものにのみ頼るのではなく、自分が認識できていないことがあることを想像できるようにする。そのための外部化、記憶を残すということ。こういう文章もまた、その一つと言える。

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