5/20/18

「今、この時」の体験を知的な未来展望のなかへ収めて、それですませてしまう。「今、この時」の体験の衝撃性に感性を震わすどころか逆にその衝撃性を「物語」のなかで滅殺させていく。
 言い換えれば、人間は、現在を生きることよりも、現在以降一日でも長く生き延びることのほうを欲し、この自己延命のために理性を働かせて「物語」を作り、支えにするということなのである。この延命策は、日々の労働から教育、科学研究までさまざまあるが、リオタールの先程の見方に従えば、これを上から保証する「メタ言説」、つまり根源的な動機付けになり精神的支柱になる「物語」を人間は必要にしている。自分が生き延びることを正当化するまことしやかな物語。延命のための独善的な話。それが「物語」なのである。(酒井健『夜の哲学 バタイユから生の深淵へ』2016年、青土社、p.94.)

出会う・付き合うことになる・結婚式を挙げる・死ぬ というきらめく瞬間のみを経験したい。点さえあればよくてそれらをつなげて線にしたいとは思わない。けれど実際に生きていく上では冗長な生活を送るほかなく、どうでもいい時間ばかりが蓄積され、きらめく瞬間が人生に占める割合もどんどん低下していってしまうのが惜しい。冗長な生活に意味を持たせるために「物語」を付与することは可能だけれど、わたしにとって冗長な生活は冗長な生活でしかないし本来存在してほしくない。そんなものに「物語」を無理やり見出すのは虚しい。きらめく瞬間以外のことは考えずに生きたい(といいつつTwitterやnoteに生活を記録しているのは矛盾かもしれない)。

ところで、ジャニーズのコンサートでアイドルからファンサをもらう体験というのは、「知的な未来展望のなかに収め」ようがなく、その場限りの衝撃でしかなくて素晴らしいかもしれない。あるコンサートでファンサをもらえたからといって、次のコンサートでさらにレベルアップしたファンサをもらえる保証はない、というかファンサ自体もらえるのかわからない(わたしの知らない世界もまたあるのだとは思うが)。そのときもらったファンサがすべてだ。いままでもらったファンサを組み立てて物語を作ろうなんて夢にも思いようがないし、ほかのなににも回収されずに輝かしい瞬間としてのみ記憶に残っている。

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