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なぜ年をとると女優は道化を演じなければならないのか 上/『FEUD/確執 ベティVS ジョーン』

『FEUD /確執 ベティ VS ジョーン』はgleeのプロデューサー、ライアン・マーフィー制作の連続ドラマだ。これは巨匠(とあえて言いたい)ロバート・アルドリッチ(アルフレッド・モリーナ)監督作品の『なにがジェーンに起こったか?』制作内幕劇を題材に2人の大女優、ベティ ・デイヴィス(スーザン・サランドン)とジョーン・クロフォード(ジェシカ・ラング)の女優人生の後期を描いたドラマである。2人は30年代のハリウッド黄金期に映画女優となり、それぞれに苦節を味わいながらスターになった。しかし2人の女優としてのあり方は対照的だ。ベティ ・デイヴィスはブロードウェイ出身の実力があり、その演技力と表現力で、誰もが演じるのを躊躇した『痴人の愛』での悪女役で逆に大衆の大人気を得るほどであった。彼女がLAの映画スタジオから軽んじられ、オスカーノミネートから外れたとき、多くの新聞や雑誌のコラムで抗議の記事が掲載されたほどだった。事実、彼女は2つのオスカー主演女優賞、そしてカンヌ国際映画祭主演女優賞を獲得した経歴がある。対してジョーン・クロフォードは小さな劇場を経営する貧困家庭に育ち、ダンサーからMGM女優になり主にメロドラマ的作品で女性らしい役を演じてきた。彼女はそこに至るまで、実力者と肉体関係を結んでのし上がってきたと言われている。いわゆるキャスティングカウチ(枕営業)である。

ハーヴェイ・ワインスタインを中心に#MeToo 運動によって、映画製作者や俳優が次々にその権力や名声をかさに女性や未成年者を性的に搾取してきた過去が暴かれ始めた。詳しくは私がThe New Yokerの取材記事を紹介した二つのモーメント、『ハーヴェイ・ワインスタインを告発した女優たち( https://twitter.com/i/moments/917959526334259202 ) 』『ハーヴェイ・ワインスタインの新たな告発者たち ( https://twitter.com/i/moments/924481063623069696 ) 』をお読みになっていただきたい。
これを読むと、ワインスタインとのセックスを拒んだ女優、時には性暴行を受けた女優までもが仕事を干されハリウッドからその存在をかき消された事実がわかる。アシュレイ・ジャド、アナベラ・シオラ、ダリル・ハンナ、そしてオスカー女優ミラ・ソルヴィーノまでもが、それまで脚光を浴びていたにも関わらずキャリアを伸ばせずその後、姿を消していったのは理由があったのだ。最近になり映画監督ピーター・ジャクソンは『ロード・オブ・ザ・リング』のキャスティングにアシュレイ・ジャドが決定していたにも関わらずワインスタインから渡された女優のブラックリストの中に彼女とミラ・ソルヴィーノの名があったため起用を見送った事実を打ち明けている。その知らせを聞いてソルヴィーノは電話で泣き崩れたという( https://www.theguardian.com/film/2017/dec/15/peter-jackson-harvey-weinstein-ashley-judd-mira-sorvino )。ワインスタインだけでなくダスティン・ホフマン、ケヴィン・スペイシー、ルイ・C.K.などの著名な映画人、演劇人、芸人がオーディションやレッスンの場で、俳優の卵やまだ無名の共演者を性的に搾取してきた事実が告発され始めた。

枕営業、というとそれは性的搾取ではなく、自分の肉体と引き換えに仕事を得る対等な商取引のように詭弁を弄して擁護されることがある。事実、日本の情報番組ではそういった発言があるようだ。しかし演出家 市原幹也が未成年者に役と引き換えに性的行為を持ちかけたことに対する劇作家平田オリザ氏による批判記事( http://www.seinendan.org/hirata-oriza/message/index-171222.html )にあるように、数値化や客観性の保証できないオーディションやキャスティングでこのような行為があることは、公平性への信頼を失わせ、結果的に役者が自らの権利を差し出さなければならない事態になる。その公平性を保証する努力を怠ったのは製作者の責任であり、差し出してしまった側にその非はないのだ。この記事の中で「人権を抑圧するような行為によって成り立つ芸術はもはや許されない」とまで平田オリザは明言している。

ハリウッドでは現在に至るまで、弱者、特に女優や子役の権利が蔑ろにされてきた。ましてや20世紀前半は言うに及ばずである。マリリン・モンロー以前から、ジュディ・ガーランド、エリザベス・テイラーなどの女優たちは子役時代からMGMの重役や年長の共演者たちと肉体関係を持たされてきたと言われている。制作や配役の決定権を握るのは常に年配の男性で、彼らの意向で作品の内容も決まるからだ。
アメリカン・ニューシネマの波がハリウッドにやってくるまで男女のカップルは50代以上の大物俳優とはるかに年の離れた若い女優の組み合わせが映画では主流であった。『サブリナ』のハンフリー・ボガートは54歳、オードリー・ヘプバーン24歳、『王様と踊り子』のローレンス・オリヴィエ49歳、マリリン・モンロー30歳。男はいくつになっても男でいられる、いやむしろ人間としての成熟を重ね、男としての魅力はいや増す。それに対して女はどうか。男は人間であるが女はモノと同じだ。誰かの使用済みの経年劣化したモノより新しくて新鮮なモノの方が魅力的だ、歳をとった女は女ではない。そう言わんがばかりに、大物俳優の相手役は20代、またはその面影を残した30代女優が配されてきた。

では、彼らと同世代の名女優たちはどうしていたのか。それがこのドラマ『FEUD』のメインテーマである。
最も興行収入を稼げる美人女優と言われてきたジョーン・クロフォードだが30代になり主演作品の収益は減少していき、悪役や端役にまわされるようになった。しかし40代になり、ハリウッドスタジオ最大手MGMからワーナー・ブラザースにその所属が移りチャンスが回ってきた。女性の悲劇的一代記である『ミルドレッド・ピアース』に主演しこの作品でアカデミー主演女優賞を獲得するのである。しかしこの栄光もまた長くは続かなかった。当時、サスペンス、西部劇、社会派、ミステリー、多くの作品の主要な登場人物は男性であり、50代の女優に演じられる役は限られていた。女優も経験を積むほど芝居の能力は上がりその評価も高くなるにもかかわらず、だ。例えば当時最高傑作と言われた『アラビアのロレンス』を見ると登場するのは男性ばかりである。ドラマ内で「雌のラクダがいるのも疑わしい」と皮肉を言われるほどだ。
再びキャリアの低迷を迎えたジョーン・クロフォードが再起を賭けて臨んだのがこの『なにがジェーンに起こったか?』であった。

スタジオにおける役柄の取り組みぶりもまた2人は対照的であった。交通事故にあって以降ほとんど人前に出なかった設定の女性を演じているにもかかわらず、ネイルや血色よく見えるメイクをやめず、時にはシワをテープで伸ばしてカメラの前に立とうとしたジョーンに対して、ベティは「この役は今や何も仕事がないのに自分をまだ女優と思っている女、一度塗った化粧を落とさず何層にも塗り重ねているような化粧をしている」と、プロに委ねず自分の手でぎこちなく厚化粧した姿で役の狂気を表現する。事実、それまでのハリウッド映画のステレオタイプにはまらないこの役にベティは息を吹き込み、見事に1つの物語を作り上げたのである。

しかしこのドラマにおけるジョーン・クロフォードの描写はいささか分が悪い。女優同士をゴシップで動揺させ互いに憎み合うことで演技にテンションと映画に話題性を設けたいという社長の奸計に抗い、ベティは何とかジョーンとの関係を改善して自分で状況をコントロールしようと望む。対してジョーンはまんまとそれに乗っかりベティの容姿の悪罵をゴシップライターに吹き込み、彼女への嫌がらせをさらに積極的に企むまでになる。さらに前述のようにジョーンは強迫的に老いて見えること、醜く見えることに怯え、役に似合わぬ扮装や小細工をしたがる。それは一見滑稽で、役のためなら狂女のように見えることを辞さないプロフェッショナルなベティに比べると愚かな女のように見える。だが彼女をこんな精神構造にしたのは誰だろうか。

ジョーンはいわゆるネグレクト家庭に育ち小学校5年までの教育しか受けていない。ほぼ無学のまま中西部のナイトクラブで酔客の相手をして働き、MGMに来てからMid-Atlantic Accentと呼ばれる上流階級の話し方や立ち居振る舞いを身につけた。逆を返すとそれまでそんなことすら知らなかったということだ。ハリウッドに来たのも肉体関係を持った男性を頼ったゆえであって何の学歴も表現者としてのトレーニングも受けず、ただただ自らの女性的魅力が自信を持てる資質であった。ペプシコーラ社長と結婚し、女優の仕事がなくても経済的に安定した生活を得られるかと思ったが、彼の死後多くの借金が発覚。むしろ常に破産の恐怖と戦い続けた日々だった。その精神的緊張感は、豪華な自宅の家具全てに「いつでも売りに出せるように」ビニールシートがかかっていること、バスルームの中にまで酒を冷やす冷蔵庫が設置されていることからもうかがい知れる。
そんな彼女が自らの老いに恐怖するのは当然の帰結だろう。彼女は卓越した能力を持つことでなく、人に愛されること、身体的魅力で周囲を圧倒することで生き延びてきた、女性という抑圧されたシステムの犠牲者なのだ。だからこそ、スタッフたちに毎日贈り物をするというような、職人肌のベティが「馬鹿げたこと」とみなす行為を彼女は重んじる。50代になり名声を得てもなお、交渉が行き詰まると、ジャック・ワーナー社長(スタンリー・トゥッチ)を性的に誘惑し、すがろうとする素振りすら見せるのだ。自分はそんな術しか知らないとでも言うように。

しかし彼女はただ無能な人間というわけではない。そもそも年配女性2人が主役であるホラーという、珍しい設定のこの原作を見つけ出し、ワーナーに持ち込み映画化を交渉したのは彼女だ。当初はヒッチコックを監督に選び、断られてもいる。現在ならばエグゼクティブ・プロデューサーとして契約金だけでなく収益の多くの配当をもらうべき存在だ(だとしたら莫大な収入を彼女は得たはずだ!)だからこそベティ ・デイヴィスも試写を見たあとジョーンに「あなたが正しかったわ、ジョーン。素晴らしい作品よ。感銘した。」との電話をしたのだ。これは言うなればジョーン・クロフォードが生み出した作品でもある。しかしそういった発想を持てず、女優としてベティに強い劣等感を持っていたジョーンは「ベティは私の芝居については何も言わなかった。ただの一言も。」と受け取りこの瞬間から彼女に強い復讐心を抱くようになる(これが63年のオスカー受賞式の醜聞につながるのだ)。

事実、低予算の作品の多かったワーナーの中でもさらに予算が絞られた『なにがジェーンに起こったか?』はワーナーに莫大な収益をもたらした。公開第1週からのクリティカルヒットで11日で制作費の全てが賄われ、全体で現在の物価でいうと7億3千万ドルの収益を上げた。

若くない女優が主演の作品であっても客は来ることを実証して見せたにもかかわらず、しかし現実はそう変わらなかった。このヒットに気を良くしたジャック・ワーナーは女優の落ちぶれた姿は当たる、と「これからはババア路線で行け」と部下に命ずる。つまりその後の作品においても年をとった女は映画の中央に据えられてもホラー映画のキワモノとして扱われるのにすぎなかった。

主演兼プロデューサーとしてアルドリッチ作品『震えて眠れ』が決まったベティはまだマシだった。精神を病み浮気した夫とその愛人を斧で殺した過去を持つ高年女性をまるでモンスターのように扱うサスペンス『血だらけの惨劇』に主演したジョーンはプロモーションのためにドサ回りを余儀なくされ劇場の客席の間を、悪ノリする観客の投げるポップコーンを浴びながらオモチャの斧を振り回し歩くのだった。
クタクタで自宅に帰ったジョーンはメイドに当たり散らす。間の悪いことに当時大ヒットしていた『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授役のレックス・ハリソンから祝いの花が届いていた。花を壁に投げつけてジョーンは叫ぶ。「こいつは私よりも5つも年上なのよ!なのにまだ恋愛映画に出てる、若い頃よりももっと魅力的になって・・・私はやりたくもない役に身を売ってるのに!あんたはいいわよ、観客はあんたを見に来てる、でもあの映画の客は斧が首をはねるのを見に来てるのよ、私を見に来てるんじゃない!」

(以下、『なぜ女優は年をとると道化を演じなければならないのか』下 https://note.mu/papurika_dreams/n/n4edc2f63475b に続く)

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