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なぜ女優は年をとると道化を演じなければならないのか 下/「おばちゃん」がBadassになるまで

(なぜ女優は年をとると道化を演じなければならないのか 上 https://note.mu/papurika_dreams/n/n35fed0103cb3 に続きます)

先日、Twitterが藤原紀香の話題で沸いていた。彼女が久しぶりに主演したドラマがどうやらあまりに仰々しく馬鹿げた演出で、それを見た人たちが高揚しながらその内容を書き込んでいるのだ。90年代後半、彼女が人気絶頂期にナンシー関がそのやりすぎ感や古典的なまでの芸能人ぶりを非常に洗練された文章で皮肉ったことを皮切りに、藤原紀香はサブカル文脈において一貫してメタ的分析の対象であった。本人は大真面目であるが大味な芝居や時代がかったスターぶりがその恵まれた容姿とアンバランスで一層人の関心を引きなにか言わずにはいられない対象ではあった。

歌舞伎役者と結婚し、しばらく目立った女優活動をしていなかった彼女の主演ドラマはそういう私たちの期待を裏切らない、メタ視線でのツッコミ待ちをしているような大仰なメロドラマであったようだ。ツイートを見ると、ドラマ内で紀香は17歳年下の相手役(と言っても26歳の大人である)と恋に落ちることにやたらと戸惑い煩悶する。また40代である彼女が持病の更年期障害を不治の病であるかのように苦しんでみせる様がさらに馬鹿馬鹿しく見え、人々の笑いを誘っていたようだ。

しかし『FEUD』で観客の中を斧を振り回しながら見世物になって歩く傷ついた目のジョーンを見てしまった私はその話を聞いてもなかなか笑う気になれなかった。17歳年下?藤原紀香と同い年の竹野内豊は公開中の映画『彼女がその名を知らない鳥たち』で14歳年下の蒼井優が恋い焦がれる男を演じているし、同じく同年齢の西島秀俊は二十代女性が恋人にしたい男性として名前を挙げてもこれほど特別視されないだろう。彼らなら若い相手と恋愛することにも年齢を重ねたことにも何の言い訳も笑いもいらないはずだ。なぜ女優だけが年をとると道化を演じなくてはならないのか。道化を演じなければ女性は恋愛も加齢もする主体として世間に受け入れられないのか。

20年前の藤原紀香はいくつも連続ドラマの主演を張り、誰もがその髪型を真似るほどに輝き、ディズニー映画のキャンペーンでキャメロン・ディアスの隣に並んでも遜色ないほど美しいと絶賛された。しかし40代になったとたんこの扱いだ。これでは若い女性が年齢を重ねることを怖がるはずである。若い頃は若さを消費するだけ消費して、それを搾り取ったら今度は道化として消費するのか。

紀香はあれを「わかってやってるから(笑っても)いいのだ」、という声もあった。確かにさすがの彼女も長い芸能活動から自分が私たちにどう見られているか、自分に求められているものは何なのか納得ずくであろう。しかし、ジョーン・クロフォードだって涙を見せ取り乱したのは玄関のドアを閉めてからだったのだ。かつての美人女優が見せる猿芝居を面白がる観客たちの前では動揺せず、笑顔でペプシコーラの宣伝までしてみせた。それは全部彼女が「わかっていた」からである。今の年をとった自分が社会に受け入れられる役割はこれしかないのだと。不倫の禊のために女性タレントが「わかって」タイキックされている様や、40代の美人女優が自らの加齢に懊悩してみせる滑稽な姿を「わかって」演じていることを読み取れ、笑ってみせて何の意味があるのだろうか。

つい最近まで放送されていた宮藤官九郎ドラマ『監獄のお姫さま』(17年)のある部分にも私は違和感を持った。このドラマは出所した女子刑務所仲間を中心に描いており、メイン登場人物は40代女性である。彼女たちに対しこのドラマの中ではやたらと「おばちゃん」呼称がされ、その呼称から抗う彼女たちの反応のあれこれを笑いとして機能させているのだ。これが私にはクスリとも面白くなかった。不愉快という意味の「笑えない」ではない。本当に何が面白いのかわからなかったのだ。

なぜならここで使われる「おばちゃん」という呼称は、いわば動物が飼い慣らされるために使われる首輪と同じだからだ。女たちが自ら獲得しようとするならばそれは"称号"となり得るが、周囲に無理に被らされるならばそれは適応のための矯正具に過ぎない。古田新太、長谷川博己、阿部サダヲ、陣内孝則などの男優たち(いずれも同ドラマの主演女優たちと同年齢の役者である)の集団を見て「おっさん」「おっちゃん」とわざわざ強調し、それを彼らがことさら嫌がってみせる様子を道化として提示するだろうか。「おばちゃん」「おばちゃん」連呼され、しかも彼女たちがそれをいやいや受け入れる過程を笑いにする虚しさがわかるだろう。

つまり彼女たちは中年男性たちと違い、日本のドラマというメディアの中で、中心に置かれるにはまだまだ異物であるのだ、ホラー映画のキワモノとして扱われたジョーン・クロフォードのように。しかし藤原紀香のドラマも『監獄のお姫さま』も喜んで笑っている女性たちは多く、そのほとんどが大人の女性たちであった。彼女たちは必死で適応しようとしているのだ、この社会に。男性であったらことさらおっさんおっさんと揶揄されない理不尽さを十分に承知しながら「そうそうおばちゃんってこうだよねー」「おばちゃんってわちゃわちゃしちゃうもん」「クドカンはおばちゃん愛があるから腹が立たない」と物分かりの良さを見せて事を荒立たせないようにするのだ。若くない女が年下の男とちょっといい感じになったからって調子にのっちゃいけないですよね、わかってます、そういう姿が滑稽だって、だから紀香のこれにもうっとりせず私たち笑っちゃいますよ、ほらわかってるでしょ私たち・・・そんな大人の女仕草を身につけなければ私たちはこの社会に適応できない。

小泉今日子演じる主人公馬場かよの口癖は「冷静に、冷静に」だった。物語の前段に出たものは大抵終盤に覆されるためにある。私は馬場かよがいつか 「冷静でなんていられるわけないだろ!」と自分をステレオタイプにはめ込んで口を塞ごうとしてくる世間に怒りを見せることを期待していたのだ。しかし彼女のその口癖は看守 若井(満島ひかり)による「本当に冷静な人が『冷静に』なんて言わないよね」との指摘に用いられるのみで、結局、突発事態にあたふたしてしまう彼女の性格を、あたかもそれが「おばちゃん」特有の可愛げとでも言うようにまさにステレオタイプを押しつける機能しかもっていなかった。それが彼女が抑圧された結果ではなく、肯定的魅力として描かれているのは馬場かよと恋に落ちた検察官のぶりん(塚本高史)の「可愛いおばさんはこれからもおばさんにならない!」というセリフからも明らかである。子育てしながら都市銀行支店営業ナンバーワンの実績を持つ設定であった馬場かよはその有能さを作中で微塵も見せないまま、世事に疎く可愛く無害な"おばさん"になり、それゆえに受け入れられるのだ。

彼女たちを怒りをもった切れ味のある人物として描かなかったのは、大人の女がドラマの世界において"異物"であるからだ。"異物"がいきなり怒ってはいけない、その世界の構成員にさせてもらうまで腰を低く頭を下げて自虐的に振る舞うことによって仲間入りさせてもらえる。しかし現実において大人の女はれっきとした社会の主要メンバーなのだ、頭を下げる必要なんて全くない、その現実から目をそらしているのは社会の方だ、自分たちの現実から逃げんなよ!と私は思うのだ。適応は闘いではなく現実からの逃避である。一貫して見ているものに己の現実と闘えというテーマがあるクドカンドラマ(「ダッセェくらいなんだよ我慢しろよ!」〜『監獄のお姫さま』『あまちゃん』『マンハッタンラブストーリー』に流れるクドカンからのメッセージ〜 https://note.mu/papurika_dreams/n/n90bca5eb53cf )の新作においてこういった妥協がされるのは非常に残念なことだ。

大傑作『あまちゃん』(13年)の海女さんたちは絶対に頭など下げずに毅然と怒ってみせた。観光協会の菅原(吹越満)に、北三陸鉄道の大吉(杉本哲太)に、漁業組合の長内(でんでん)に。海女あっての観光にもかかわらず観光業の黒字がほとんど自分たちの収入に反映されないことに、彼らから煙たがられることを恐れずストライキする。結果、副駅長吉田(荒川良々)や大吉に腹立ち紛れに各々につけられた「メガネ会計ばばぁ」「フェロモンばばぁ」のあだ名は私には彼女たちが獲得した"称号"のように思える。

英語のBadassという単語をご存知だろうか。もともと「悪どい奴」という罵倒語だったのが、一転「憎らしいほど強くてカッコいい」という肯定的利用が近年されるようになったスラングである。英語にはこういった語の転用が多い。オバマ大統領が2015年のFIFAワールドカップで世界チャンピオンになった女子サッカーナショナルチームに「これから『女の子みたいなプレー』は『Badassな(憎らしいほど強い)奴だ』という意味を持つ」と賛辞を送ったが、それ以降この言葉は勇気ある女性を形容する際に多く用いられるようになった。

「おばちゃん」という言葉がBadassと同じく称号となるには『監獄のお姫さま』のように周囲が無理やりその呼び名を首につけるようではダメだ、ましてや若くない女が自由に人生を謳歌することを嘲笑し、それを「わかっている」姿勢だとうそぶけるような社会では絶対に達成されない。

小泉今日子の役名を聞いた瞬間私は「馬場ちゃん?馬場ちゃんなの?」と声に出してしまった。それは小泉今日子が2002年に演じた、ドラマ『すいか』の登場人物の名前だ。彼女は自己主張が少なく周囲に違和感を持ってもそれを表明できない主人公基子(小林聡美)の元同僚で、彼女と対照的に勤務先の信用金庫から3億円を横領して逃亡しているのだった。基子は無理に社会に適応しようとして心が軋むたび、心の中で彼女と会話する。結局、馬場ちゃんはドラマの中では基子の持つ平凡な日常の価値を強調する存在にすぎなかったけれど、彼女が自首するのでなくどんなに孤独で厳しくても社会に迎合せす自由に生きることを選択し逃亡する最後を見てからは、彼女が私のBadassであったのだ。

『監獄のお姫さま』たちの登場人物たちもそうであって欲しかった。他人へのお節介の侵食的な側面や、新生児や乳児の社会の秩序に従わない側面を描かず、皆で赤ちゃんを育てる平和な光景だけ提示してそれをおばちゃん特有の行動とするのはあまりに世間に都合がいい。世間にとって都合の悪いことをしても、大人の女が強く自由に生きることを示して初めて「おばちゃん」はBadassになれるのだ。社会の残酷さを描く手腕に長けたクドカンに今度はぜひそんなBadassな大人の女のキャラクターを作り出してほしい、私はそう思うのだ。

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