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「そのコは結局運がなかったのよ」笑いの裏に描かれるクドカンの残酷

宮藤官九郎作品を見ていると、常に私の頭の中をある言葉が渦巻く。

「この世は残酷である」

これをひたすら伝えたくてクドカンはあらゆる物語を作っているのではと思うほどだ。それを特に強く思わせたのが他でもない『あまちゃん』である。NHK朝ドラですらクドカンはその手を止めなかった、いやむしろ他の作品よりも一層その傾向を強めたのだ。

「ま…結局は運よね、運がなかったのよ、そのコは」鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)の台詞である。これはアキ(能年玲奈)の母親 春子(小泉今日子)が音痴であった鈴鹿ひろ美のゴーストシンガーとなるほど有望であったにもかかわらず、なぜアイドルとしてデビューできなかったのかの理由を彼女がそれとは知らず語る場面で吐かれる言葉である。

当時マネージャーであったアメ横女学園プロデューサー太巻(古田新太)と彼女は恋仲であり、春子の歌声のお陰で売れっ子アイドルとなるも、女優に専念したがった鈴鹿の要望で太巻は独立。そのために春子は歌手としてデビューできなかったのである。

回想場面が挟まれる。喫茶店で太巻と若かった頃の春子(有村架純)が対峙している。数年もの間さんざんゴーストシンガーとして利用され続け、もう23歳になっていた春子は故郷に帰りたいと太巻に告げた。春子はすでに当初から不安を太巻に訴え続けていた。一回3万円で影武者として歌い続けたらいつまでたってもデビューできない、私はいつになったら表舞台に立てるのか。そう言い募る春子に太巻はせめて鈴鹿ひろ美のアルバムを収録するまで待ってほしいと懇願する。しかし彼女のアイドルデビューの未来の可能性はほぼ消えかかっていることは視聴者にもわかった。なぜならそう言った舌の根も乾かぬうちに太巻は、事務所の社長に「歌声が鈴鹿ひろ美に似ている」という理由で春子のデビューが却下されたことを漏らしているからだ。しかし春子はその後も太巻の、そして鈴鹿ひろ美の犠牲になり続けたのである。

春子の3年を犠牲にして自分が座ることになった売れっ子アイドルの座をむしろ鈴鹿ひろ美は疎ましく思っていた。自分の声が街に響き、人気を得ながらも表舞台に立てない春子が喉から手が出るほどほしがったアイドルの地位を鈴鹿ひろ美は取るに足らないもののように捨てた。さらにそのために春子はデビューする機会すら失ってしまったのだ。2人の立場の違いは、3年前の「アルバムを作る話が出てる」と言う太巻に「私の?」と勢い込む春子の言葉に「君のわけないだろう」と太巻が思わず吹き出す場面にすでに端的にあらわれていた。この理不尽な状況に自分と鈴鹿ひろ美を同一視してなんとか適応していた春子に冷や水が浴びせられたまさに残酷な瞬間なのだ。

故郷に帰ることを反対する太巻にならば『潮騒のメモリー』を歌わせてほしいと春子は踏み込んだ。鈴鹿ひろ美を通して人気アイドルとして生きるという悲しい幻想の中で、あの曲を歌ったのは自分だという事実だけがやっと彼女を支えていたのだ。それに対して逆に太巻は「君にはプライドってものがないのか」と叱責した。自分がすがっていた最後の誇りを奪われて春子は激昂し太巻とは二度と会うことがなかった。

「厚かましい女よね、そんなの私が許可するわけないじゃない、聞くまでもないって彼はよくわかってた。だから私に代わって彼がNG出したの」
そう、『潮騒のメモリー』は、春子の歌声の力によって生まれた名曲であるにもかかわらず彼女のものではない、鈴鹿ひろ美のものなのだ。

事も無げにそう言う鈴鹿ひろ美を見る私の頭の中には「捕食者」という言葉が浮かんでいた。食物連鎖の頂点にいる捕食者には被食者である下層の生き物の暮らしや生態など取るに足りないものなのだ。それは覆されない事実、春子が北三陸から大事に抱えて持ち出した夢や希望など、鈴鹿ひろ美の意向の前では何の意味も持たなかったのである。

80年代の懐かしの小ネタが繰り出され、ユーモアと愛すべき脇役たちが織りなす和気藹々とした空気に満ちていたこのドラマに恐怖にも似たぞくりとした感覚がもたらされた瞬間である。母 夏と離別してまで都会に出てきた1人の少女の夢など強者たちにいとも簡単に食い荒らされてしまうのだという現実をクドカンはユートピアのような北三陸編の気持ちのままでドラマを見てきた私たちに突きつけてくる。

しかし北三陸は本当にユートピアだったのか。食物連鎖にはいくつも階層がある。クドカンはしっかりと楽園にも残酷さの仕掛けを設定していた。
春子と大吉(杉本哲太)の同級生で海女クラブの一員である安部ちゃん(片桐はいり)が北三陸郷土食であるまめぶ普及のために宮城、東京に長期出張することになった。駅で別れを惜しむ人たち。そこに駆けつけた春子に意を決して安部ちゃんは言う。
「わたし春子さんのこと嫌いでした。ごめんね、でも許せませんでした。」

安部ちゃんは密かに卒業後、東京の大学に進学して北三陸から出ることを願っていた。安部ちゃんは高校時代のことをアキに語るたびに「春子さんは学園のマドンナだけど私は机の引き出しにしまわれてるコッペパンのカビくらいの存在だったから」と言及する。実際、背伸びして聖子ちゃんカットをした高校時代の安部ちゃんの写真はアキに思わず爆笑されるが、同じ髪型をした春子の可愛さにはアキも思わず見惚れるほどだった。

安部ちゃんは町を出るべき"ブス"だったのだ。映画『ゴーストワールド』の主人公イーニド(ソーラ・バーチ)はラストでどこに行くともわからないバスに乗って故郷の町を出る。田舎ではその価値観も魅力も誰も理解しようとしない"ブス"は、都会に出るしかないのだ。自分の顔貌には似合わない聖子ちゃんカットしか選択肢のない田舎から"ブス"は都会に出ていかなければ一生"ブス"のままだ。それをわからない馬鹿者たちを軽蔑して無為な暮らしをしていたイーニドはとうとう最後に自分の唯一持っている財産「可能性」だけを握りしめてあてどもない旅に出る。しかしその「可能性」を安部ちゃんは春子に潰された。春子が鈴鹿ひろ美に未来を潰されるずっと前に。春子が海女を継がずに家出したため、同じく最年少の安部ちゃんに後継者の白羽の矢が立ったのだ。しかし春子は食物連鎖の常として捕食対象である被食者の嘆きには一切気づかず蟻のような小さな安部ちゃんの希望を知らず踏みつぶして上京した。

これは片桐はいりという女優の個性を踏まえると秀逸な設定だ。その個性的な風貌に対して彼女は脚が長くすらりとしてプライベートではモード性の高いファッションを自分のものにしている。安部ちゃんが東京で生活するようになったら、きっと彼女のように自分に似合うスタイルを多くの選択肢から見つけて自分だけの魅力を発見できたかもしれない。実際、東京から帰ってきた安部ちゃんのデニム姿はスラリとして眩しく見えるほどなのだ。

私たちが安寧の地と思っていた北三陸にも"残酷"はあった。いやむしろ誰にもその痛みを気づいてもらえない意味でよりいっそう悲惨かもしれない。残された安部ちゃんと大吉が結婚して結局続かず5ヶ月で離婚する下りも中途半端な田舎への適応の現実をみせてもの悲しい。

そして視聴者にもっとも人気であった海女クラブの海女さんたちもクドカン特有の残酷さに満ちている。一見ユーモラスで他者に寛容に見える彼女たちであるが、彼女たちだって自分たちの世界のルールは厳然として存在し、それに従わない人間には冷酷だ。漁協組合ではどす黒い噂話に花を咲かせスナックではえげつない下ネタで盛り上がる。交わされるのは自分たちの狭い世界の中で得られた世間知で、それに当てはまらないと見た元地方局女子アナのユイちゃんの母親よしえ(八木亜希子)の蒸発にも冷酷だった。
「もどもどあの嫁は、こっつの人でねぇべ?なにしろ最近の嫁っこは根性が足りねえ!」
「んだんだんだんだ!お高くとまって近所づきあいしねえがら、こういうことになるんだべ!」
「(ユイの兄ヒロシに)おめとこの母ちゃん、完璧主義だべ、才色兼備にして良妻賢母、そういう女は案外もろいんだよ」
と勝手な言い分のてんこ盛りだ。その前段、よしえは春子にだけ夫の介護について「私1人じゃ何もできない。手の抜き方を知らない、周りに頼れない」と訴えていたが、こんな好奇の目で見られていたら自意識の強い人間は頼ることなど不可能だ。このドラマを愛している私たちの多くがこの土地に暮らしたらよしえのように町に打ち解けることなど困難で彼らの在り方をむしろ憎悪の対象とするかもしれない。進学や就職での失敗、未婚、不妊、離婚、病気、私たちの多くがそれは他人が踏み込めないこと、とする領域にどんどん足を踏み入れる文化に彼女たちはいる。

北三陸の人たちが集まるスナック梨明日はその象徴である。田舎のスナックは都会のバーと違って記名的で皆が子供の頃から相手がどんな人間であったか知っている。人生での躓きや過去にあった都合の悪いことをなかったことにできず、それをぶちまけて腹を割って初めて仲間入りができる。春子の言うように「腫れものはスナックで再生する」のだ。
より過激な題材や表現が許される演劇『鈍獣』(04年)ではクドカンは陰惨な殺人事件の舞台にこの"地方のスナック"を選んでいる。

この芝居の登場人物たちはみな地元の地方都市に暮らし子供の頃から全く変わらない交友関係を続けている。彼らの中学時代の仲間のうちの1人、ただ1人都会に出て行った凸川(池田成志)がその帰郷により現在小説家として脚光を浴びていることを彼らは知る。しかも彼らが長年必死で隠してきた中学生時代の陰惨な記憶を題材にした小説をこれから発表しようとしていることも発覚するのだ。
地元で飲食店や風俗店を経営する江田(古田新太)やその舎弟である岡本(生瀬勝久)は怒り狂う。都会に生きている凸川はこれを創作であると素知らぬ顔をしてやっていけるが、地元の人間が読めばそれと分かる内容だ、凸川が名声を得る代償に自分たちの生活が脅かされるのは理不尽ではないかと。そこからの顛末はさいたま市や福岡のスナック保険金殺人事件などで実際にあった凶悪殺人事件を連想させるものだ。

『あまちゃん』とこの『鈍獣』の世界観は全く異なるとお思いだろうか。むしろクドカンは爽やかで平和であるはずの朝ドラの世界にこの『鈍獣』のモチーフやテーマをこっそり忍び込ませているのだ。

東日本大震災から数ヶ月、東京でアキは落ち着かない気持ちでいた。当日、東京にやってくるはずだったユイに電話がつながったが、励ますつもりで未来のことを話すアキをユイ(橋本愛)はそんな気になれないと拒む。明らかに北三陸と東京での間の断絶を感じさせるものだった。アキのいる、歌や芝居という虚業の世界は救援活動といっても被災地に芸能人たちが一瞬出向いて炊き出しするくらいしかない。不安な気持ちを抱えたアキは夏ばっぱ(宮本信子)にそれをぶつけるように「ばっぱ、今年の夏は潜らないよね?」とメールを出すが「お構いねぐ」と他人行儀な言葉が返ってくるのみだ。

アキが意を決して北三陸に帰ると家や海女カフェは流されてもみな変わらず笑顔で暮らしていた。しかしもう東京のことを一切口にしないユイを始め、何かが圧倒的に変わってしまっている。だがその時ここにいなかった自分は何が変わったかも分からず、そしてこれからもそれを追体験することはできないのだとアキは諦念する。震災後も変わらず海に潜っている夏ばっぱがアキに話す。

「海は怖えって決めつけで、潜るのやめで、よそで暮らすべなんて、オラァそんな気になんね。」「かつ枝と組合長な、ひとり息子が波に呑まれてよ、こないだの津波で、その遺影だの遺品だの、ぜんぶ家どいっしょに流されで、それでもここで笑ってんだ」「笑って暮らしてるかつ枝と長内さんさ、おめ『こごに居だら危ねえよ』だの『海がら離れで暮らせ』だの、言えるが?」「忠兵衛さんと会わせてくれだ海が、おまんま食わせでくれる海が、一回や二回へそまげだがらって、こごを離れで暮らすなんて、端っからそんな気持ちで生きでねえど」

『鈍獣』と『あまちゃん』にはそれぞれ"地元"への畏怖と畏敬がある。凸川にもアキにも都会に暮らしながらその時々で都合よく"地元"を創作に利用してきたクドカンの罪悪感が投影されている。ドラマの表面上、地元と都会どちらもが等価であるということになっており、その言葉を聞いて視聴者は安堵して平和な気持ちでドラマを見ていられるが、本当にそうだろうか。この作品における地元と都会は厳然と異なっている。特に震災の被害にあった被災地との隔絶は、胃がズンと重くなるほどに存在する。
夏ばっぱの言葉は一見感動的ではあるけれど、リスク回避の観点からしたら非合理的にすぎ、遠く離れた都会の地からはいくらでも批判はできるだろう。何代にもわたり繰り返し被害を受けているのになぜその土地にこだわって暮らすのかと(実際そのような批判は震災後いくつか目にした)。都会の人間は自分たちの方が多くのものが見えているように感じる、だから田舎の武骨さや朴訥さを笑いにしたりそこに居ないのに語ろうとする。そう、まさにこのドラマ『あまちゃん』も同じだ。クドカンの無情な"残酷さ"は自らにも向けられているのだ。

そこまでして彼が「残酷さ」にこだわるのは、結局は前回の記事(『ダッセェくらいなんだよ、我慢しろよ』 https://note.mu/papurika_dreams/n/n90bca5eb53cf ) に書いたように、物語を「現実に持ち帰る何ものかを探す旅」だと考えているからではないだろうか。であるから彼の物語は残酷さ=現実を常に見ている者に意識させるつくりになっている。強者と弱者、ブス、オバチャン、田舎と都会の隔絶・・・現実にあるそれらをないものとして物語をつくってもそこから持ち帰るものは何もない。物語を現実からの逃避場所にしないでほしい、物語を見終わったらお前の現実を生きろ、とクドカンは言っている、と彼の作品を見るたび私は思うのだ。

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