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「ダッセェくらいなんだよ我慢しろよ!」〜『監獄のお姫さま』『あまちゃん』『マンハッタンラブストーリー』に流れるクドカンからのメッセージ〜

【ネタバレ注意】

『ゆとりですがなにか』終了後、皆に待ちに待たれていた宮藤官九郎ドラマ『監獄のお姫さま』が好評放送中だ。日本のドラマを一切見なくなった私だが、『あまちゃん』が魂のど真ん中にどすんと投げ込まれて以来、彼のドラマだけは欠かさず見るようにしている。しかしこれから書くことを踏まえるとこのように自己言及すること自体、宮藤官九郎氏に好印象を持たれるかはわからない。

このドラマは、刑務所仲間の女たちの復讐譚コメディである。家事、子育てと仕事を両立させた完璧さでかえって夫に疎んじられ浮気された馬場かよ(小泉今日子)、有名金融アナリストだったが脱税が露見してしまった財テク(菅野美穂)、夫である暴力団組長の覚醒剤取引の罪を被った姉御(森下愛子)などの女囚仲間が出所後、鬼看守であった若井(満島ひかり)と共に、元恋人である青年実業家(伊勢谷友介)の罪を着せられ、会社と息子を彼に奪われた大企業社長令嬢、姫(夏帆)の復讐を図る物語だ。

この作品の秀逸な点は、日本のドラマではどんどんその存在感を無くしてしまう40代以上の大人の女優たちを大活躍させ、ピカレスクコメディの中で普段語られることのない同世代の女性たちのこの社会での踏みつけられっぷりを遺憾なく吐露させている点にある。奇しくも大傑作『あまちゃん』の鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)は経験を重ねた女優が母親役しか振られない不満をこう語っていた。「つまんないじゃん、ドラマの中の母親役ってさあ。肝っ玉か良妻賢母でちょっと病気がち?その2パターンしかないわけ。それって男の勝手な願望じゃない。」『監獄のお姫さま』に出てくる女たちは馬鹿でお人好しでしかし同時にズルくて自分勝手だ。姫の復讐に奮戦するが、意味もなく主人公のためだけに使役する登場人物は1人もいない。第7話の中心となる"女優"(坂井真紀)も同様である。

"女優"は囚人仲間の中で最も精神エネルギーの高い人物だ。話の本筋と関係ないところでその流れをまぜっ返しながらわーっとひとり盛り上がり、で、いながら周囲に最も気を使う(彼女だけが出所が決まった時の反応を見てほしい)。その彼女は何とこの中で一番刑期の長い古株である。"女優"は2.5次元ミュージカルオタクで月100万かけていた推しの俳優の追っかけ資金のために結婚詐欺を繰り返していた。複数いた婚約者たちから百万単位の借金をしては踏み倒し、やっていたのは地方公演制覇や出待ち、ファンミーティング全出席だ。彼女は語る。「私マジやべぇ奴なんです!でも後戻りできないわけ!泉くん、歌もお芝居もグングン良くなってくし!」

Twitterをやって5年以上経つ私には既視感ありありの姿である。観察眼と批評力ある彼らは的確にこれから伸びる出演者を見極め、知名度の低い頃から熱心にその役者を応援する。原作漫画やアニメのある2.5次元演劇はその文脈をよく理解しているファンとまだ役者としての将来も未知数な若手俳優によってのみ共有される濃密な空間で、その分ファンの思い入れも強くなる。数ある女性キャラクターを描く際、オタクという、類型的でない、しかし確実にこの社会に存在する女性を描くクドカンの人物造形力は的確である。

古株である"女優"はいち早く仲間より出所し、その器用さから刑期中にいくつもとった資格を活用して地道に働き始める。そんなある日ふと何の気なしにかつての推しの舞台に足を向けてしまう。『行け!面!胴!』はいまだにその旗を下ろさずやっていた。キャプテンというにはとうのたった泉くんが座長となって前よりも小さなハコでコツコツと同じ芸を積み重ねていた。しかし7年ぶりにその舞台を見た"女優"はこう独りごちる。「何も感じませんでした。心が1ミリも揺れない。(略)刑務所でのハードでめまぐるしい日々が私を変えてしまったんだ。理不尽なルール、まずい飯、(略)先生の八つ当たり、塀の中の現実が切実すぎて面白すぎて、絵空事の演劇の世界に入り込めない」

これは作品が変わってもクドカンのドラマにおいて繰り返し用いられるテーマである。実はクドカンは他のドラマでも何度となく、傍観者になることを許さず、自分の人生の現実に直面することをこちらに促してきた。

その1つに『マンハッタン・ラブストーリー』(03年)があげられる。TV局近くの喫茶店内で繰り広げられる登場人物たちの恋のさや当ての観察を唯一の楽しみにしている店の主人"店長"(松岡昌宏)はこのドラマの主人公であるにも関わらず、永遠に傍観者を気取っている。彼は決して交差することなく一方向に連なっていく片思いのジェンカに巻き込まれる人たちをこっそり観察しながら恋の当事者たちが自分の感情にがんじがらめになってしまった際は姿を隠しながらそこに割って入り、「私の経験と人生と魂を込めて言わせてもらう」と、ドラマチックに傍目八目な助言をするのがおきまりの展開になっている。

ところがある時いつものように彼がその当事者である振付師のベッシー(及川光博)に助言を与えようとすると、彼がくるりとその方向性を変え、逆に店長にこう言うのだ。「君にはグルーブ感が足りない!ダンスに例えるなら頭で覚えたステップを繰り返しているだけで面白みがない。躍動感とかエモーションとかスリルとかそういうものが全然感じられないよ!赤羽さん(小泉今日子)のことが好きなんだろ!僕もそうだ、なのに君は僕と同じステージに立とうとしない!(略)いいか、店長、僕の経験と人生と魂を込めて言わせてもらう、心のおもむくままに行動する、それがグルーブだよ、エモーションだよ!」

ここで私は心底ドキリ、としたのだ。これは私たちドラマを見ている観客に向けられている言葉だ。私たちはドラマ内の登場人物たちの滑稽で愚かで子供じみた恋愛模様を娯楽として楽しんできた、目の前で繰り広げられる騒ぎの当事者に決してなろうとしない店長のように。しかし、彼も観察対象と侮っていた赤羽さんに恋のビームを当てられてからすっかり浮き足立ってしまい、意図せずに"愚かな"恋のジェンカの一員に加わってしまった。自分は安全地帯にいるまま擬似的に人生を楽しむことなどできはしないのだ、というクドカンの挑発がここに込められていると私は感じた。

"女優"の変化にもこのメッセージは込められている。女優は自由を極端に制限された刑務所の中で、人間関係を形成し、アイデンティティを築き、能力を発揮するという、人間に備わった精神の自由への欲求を味わったことで、かえって"生"の躍動感やスリルやエモーションを経験したのだ。そのため、他人の成長や変化を微細に観察して自分のことのように擬似的に味わうオタク活動に魅力を感じなくなってしまったのである。考えてみれば、"女優"は精神エネルギーが非常に高い(これはオタクと呼ばれる人たちに多く見られる特徴である)上に資質に富んだ人物なのだ。結婚詐欺では医師、IT社長、自称石油王との婚約を果たし、数千万円の婚約指輪まで得ている。なのにシャバにいた時の彼女はなぜか自分の現実を生きようとせず強いエネルギーを"絵空事の世界"や他人の成長に注ぎ続けていたのだ。

このメッセージは大傑作『あまちゃん』(13年)の中にもしっかり流れている。主人公アキ(能年玲奈)の親友であり田舎を出てアイドルになることをアキよりも希求していたユイ(橋本愛)が、ドラマ本編内では(ファンならわかる注釈)、結局北三陸を出られなかったことはファンの間でも賛否が分かれている。しかしユイが北三陸を出られなかったこの設定にも自分の人生のリアルを生きろ、というクドカンのメッセージが込められている。

アイドル志望であるユイは自らの夢を語ると同時に私は自分の現実を見極めていると幾度となく冷めた発言をする。こんな田舎にいたくない、東京が好きと言いながら、アイドルとして注目を浴びるためには嫌いな地方出身という属性を活かし、積極的に訛っていくことも辞さない。彼女は言う、「オラも田舎を利用すてっから、ご心配ねぐ」。しかしその冷静さは一見小賢しくすら見える。彼女の生活は全ていつか来るアイドルとなる将来に照準を定めて決定される。だから地元で起こるあれこれが心を動かすこともなく、人を好きになったこともない。クドカン作品において彼女こそ自分の現実を生きていないキャラクターの代表格である。彼女は言う、「こう見えでオラ、ずぶんのごど分がってっから(こう見えてわたし自分のこと分かってるから)」。人は大概、自分はこうだと標榜するのとは本質的に真逆の性質を持っている。ユイは自分のことなどまるでわかっていなかった。それを証拠にアイドルになれるチャンスが東京で待っていたにも関わらず、父が倒れたこと、母が失踪したことを理由に彼女は一向に故郷を出ようとしなかったのだ。彼女が常に言っていたように二度と田舎に帰ってくることなどなかったら親に恨まれようと、地元の人にどう見られようとかまわないはずだ。彼女は田舎を出られない理由を現実に直面できない自分の問題として捉えられないから出ていけないのだ。

対してアキは大きな流れに巻き込まれるように東京に出て現実の厳しさにモロにぶつかる。アイドルとしてはイケてない自分、能力のなさ、資質のなさにぶつかり、母 春子(小泉今日子)の業を背負って理不尽な運営と不利な戦いを続ける。くたびれはて衝動的に故郷に一旦帰ったアキにユイはこうぶつける。「アイドルとかどうでもいい、関わりたくない、冷めたの完全に。だってダサいじゃん、オタク相手に生足出して媚び売って真ん中立って、それが何なの?!今となってはあんなものに夢中になってた自分が恥ずかしいっていうか、もう汚点だよね、ほんと無理、勘弁してほしい」

アキが東京で苦闘しているあいだ、ユイは田舎で腐っていた。「(田舎に閉じこもっている)ママみたいになりたくない」という言葉をぶつけた母の方が他人の気持ちなど配慮する余裕もないほどにはるかに彼女より行動力があった。先に母に逃げられ、麻痺の残った父親の介護をせざるを得なくなった彼女は自分がそう言っていたようには自分の人生をまるで把握できず、ひねた態度をとるしかできない。それに対してアキが返したセリフがこのドラマを象徴するものとして残ることになった。

「ダサい?そんなの知ってるよ、やる前がらダサいと思ってだ、(略)ダサいけど楽しいがら、ユイちゃんと一緒だと楽しいがらやっでだんだよ、ダサいくらい何だよ、我慢しろよ!」現実にぶつかりもしないでわかったようなことを言うな、自分のダサさぐらい引き受けろ、ダサい自分を認めなければ何も始められるわけがない。誰かにこう見られるから、こう言われるからなんて逃げてたらお前の人生はいつまでたっても始まらない、とクドカンが言っていると、私はこの場面を見ながら思ったのである。

思えばこのドラマは冒頭から、「ねえ、おばあちゃんはなんで海に潜るの?潜ってる時は何を考えてるの?」と興味を示しながら、泳いでみるか?と聞くと「ムリムリムリ、冷たいんでしょ?泳ぐの苦手だし…」と尻込みするアキを祖母の夏(宮本信子)が無言で海に突き落とすところから始まる。浮き輪につかまって浮かび上がったアキに夏は「しゃっこいどが、足がつぐどが、つかねえどが、考える暇ぁねがっだべ。そんなもんさ、飛び込むめえにあれこれ考えだってや、どうせその通りになんね。だったら、なんも考えず飛び込め。何とかなるもんだびゃ。」と笑いながら言うのだ。そう、これこそ岩手の海女、夏の言葉を借りたLeap of Faith(見る前に跳べ)なのだ。それに対しアキは海の世界を全身で感じて「気持ちいい」と笑う。

アキは母に連れられ北三陸に行き海女になり、種市先輩(福士蒼汰)に憧れ潜水士免許をとり、ユイに請われて上野でアイドルを目指した。彼女はそれらに飛び込む際、それが自分に合っているか、適性があるかなど微塵も考えなかった。ままならない現実と格闘しながら女優鈴鹿ひろ美と出会い、敏腕プロデューサー太巻(古田新太)に立ち向かい、自分の居場所をあちこちで作りながら母の因縁を掘り返していく。それが彼女の人生をつくり、人の気持ちを動かし、恋をして主演映画が作られるまでになる。

人生は決して思うようにはならない、だけど、私は自分のことをわかっている、どうせ私の人生なんてたかがしれてる、自分にはできないことをしてくれる人を応援して生きていきたい、と嘯きながら現実に飛び込まないでい続けちゃダメだろ、なんでダメかなんてそんなこと俺にもわからないけど、でもそれって何か違うよ、ということをクドカンは新たな物語を編み出しながら繰り返し私たちに訴えているのだ。

しかしこれは非常に矛盾を孕んだメッセージでもある。クドカンの作り出した絵空事の世界に魅了され、彼のメッセージを真摯に受け止めるほど、ここにとどまってはいけない、"絵空事の世界"に浸っていてはいけないという居心地の悪さから逃げられないのだ。本当にとことんクドカンは意地が悪い。

『監獄のお姫さま』第7話に戻る。オタクとしての思い入れ抜きに推し俳優と打ち解けて接することができた"女優"だったが、酔った勢いで彼に無理矢理関係を迫られる。幻滅しながら彼を突き飛ばし必死に逃げる彼女の背中に元推しは「勝手に好きになって勝手に飽きやがって!」と叫ぶ。そう、それでいいのだ。所詮、これは他人のつくった絵空事、自分の人生のように仁義を尽くさなくていい、むしろお前の人生の中にドラマをつくれ、と。それを物語るように、元推しから逃げ出した女優は、刑務所内で夢中になった『この恋は幻なんかじゃないはずだって私は生きてる神様ありがとう シーズン5再会(長い…)』のロケに偶然立ち会い、エキストラに採用され、夢の世界の内部に足を踏み入れる。一瞬しか映らなかった彼女だったがその表情は出演者の誰よりもドラマチックだった。きっと彼女はこれから自分の人生のドラマを作り出していける、それを確信させる表情だった。彼女につけられた"女優"というあだ名はその願いが込められたものかもしれない。

私も自分の人生にドラマを作れるだろうか。たかが物語、所詮は絵空事の世界とわかりながら、そこに描かれたクドカンのメッセージに心動かされ、鼓舞されて私は日々の現実を生きている。どうも私も夢の世界から完全に自分を断ち切ることなどできなさそうだ。せめて、2つの世界を行き来しつつも、そこを現実からの逃げ場にせず、絵空事の世界の旅からこの世界に宝物を持ち帰りたいと願っている。

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