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『ノクターナル・アニマルズ』

【ネタバレ注意】

人生にはその節目節目で乗り越えなければならない試練がある。夢想していたよりもずっと能力のない自分、幻想を超えて1人の人間を愛し続けることのできない自らの酷薄さ、幻影の装飾抜きにそのたび露わになる自分の実態と向き合い、決着をつけねばならない。

主人公、スーザン(エイミー・アダムス)はとても幸運な女性に見える。ここでいう彼女の幸運とはアートギャラリーのオーナーとしての名声や莫大な資産やハンサムで社会的地位のある夫(アーミー・ハマー)を持っていることを指さない。スーザンは低俗でしかし耳目は引くアートイベントを開くことで、時宜を得て獲得した過去の栄光をなんとか維持しているタイプのアート・ディレクターだ。もはや自分の表現に込めるメッセージも思い入れもない。であるのに客足を呼べただけで成功したと評価され、なんの中身もないと自分でもわかっているものが賞賛されていく。そもそも彼女は何で自分が世間から評価され、何が自分に不足し、何が自分を虚ろにするかがまるでわかっていない。何かをしても手応えのないまま、成功という結果だけがやってくるということを繰り返している。ただぼんやりと感じるのはこんなことは長く続かないという不安だけだ。華やかに見えながら、足場のない雲の上を延々と歩かされているような、とてもとても恐ろしい毎日を彼女は暮らしているのだ。
それは私生活においても同じである。彼女は芸術活動に熱意を失っていることを夫に打ち明け、家庭での時間を増やしたいと吐露する。これは彼女の下で働く多くの人間の生活が左右される深刻な告白である。にも関わらず夫はあからさまにそれに興味がなく上の空だ。夫の愛情が移ろいでいるということは彼女も薄々感じてはいる。が、そもそも作家志望のうだつのあがらない前夫エドワード(ジェイク・ジレンホール)を捨てて乗り換えた自分を受け入れた夫がどういう人間なのか、自分が彼の何に惹かれていたのかわからないで彼女はここまで来てしまった。だからむくむくと広がる黒雲のようにいつかやってくる破綻に打つすべのないまま彼女は立ちすくんでいる。

そんな時、エドワードからやっと本を出版する夢が叶えられたと、一冊の本が送られてくる。それがタイトルにもなっている『ノクターナル・アニマルズ』である。劇中劇として繰り広げられる小説の中身は、暴漢たちに美しい妻と娘を強姦され殺された男の復讐劇であり、それに余命僅かの刑事が助太刀する正直陳腐な筋立てだ。仕事に手応えを感じられず、夫も出張し取り残されたスーザンはまさにノクターナル・アニマルズ(夜行性動物)のようにそれを夜を通して読みふける。
おかしいのはこの劇中劇で妻を演じるのは、スーザン演じるエイミー・アダムスに容姿が似ているとよく指摘されるアイラ・フィッシャーであることだ。自分の命を賭してでも妻と娘の復讐を果たそうとする主人公はジェイク・ジレンホールである。これが小説を読んでいる際にスーザンの心に広がるイマジネーションであることを踏まえると、彼女が自分はまだ前夫にとってかけがえのない存在であると想定し、夢想していることが読み取れる。

皮肉なことだが、恋愛関係とはその終止符を打った人間の中でだけ生き続け、打たれた側の中では死んでしまう一面を持っている。その終わりを告げられた側はその恋を自らの意思に逆らい、意識的に一旦殺さなければならない一方、終わりを告げた者の中では相手がその後もずっと自分への愛情を抱いている存在として生き続ける。実際、スーザンは部下にエドワードのことについて尋ねられた際、自分が彼を捨てた経緯を半ばうっとりとしながら語るのである。彼女の脳裏によぎるエドワードの姿は、彼女と夫が密通している現場を目撃してしまった無残な瞬間だ。

本を読み終えた彼女はエドワードに連絡を取り、会おうと持ちかける。夫の心が離れていっているのを敏感に感じ取った彼女からしたら当然の行動だったろう。そもそも彼女は次の恋に身を乗り出すことで恋の終わりに立ち会わない人なのだから。エドワードは了承し、スーザンは華やいだ装いをして待ち合わせの店に向かう。しかし彼は現れなかった。何時間も彼女を1人待たせて。

この映画を復讐の物語だと語る人がいる。確かにそのキーワードはスーザンのアトリエのリトグラフに大きく書かれ、物語のかなりの時間を割いて描かれるエドワードの小説も復讐譚である。しかし観た方は思い出してほしい。スーザンが部下のiPhoneのベイビーモニターを覗き込んだとき、そこに一瞬、小説内の暴漢の首謀者(アーロン・テイラー=ジョンソン)が映り込んだことを。それだけ彼女の現実とフィクションの世界はその境界を失っているのだ。これは信頼できない語り手そのものではないか。思い返せば、連絡が取れたエドワードも彼女だけがその存在を確認し、待ち合わせの場所も時間も彼女が設定しているのだ。小説を出版できたエドワードは存在するのか、あの甘ったるく過度にヒロイックで陳腐な小説は不眠症で意識レベルの変動しやすい状態にある彼女の頭の中で繰り広げられた空想の産物ではないのか。小説の中でエドワードの姿を借りて描かれる夫は訪れた災難により解体していく家族を守れなかった自分を責め、無邪気で無力な娘は母に必死にすがりつき、彼女の現実とは全く正反対である。

冒頭、私はスーザンが「幸運」な女性であると書いた。彼女の幸運とは 人生の節目節目に危機の形で訪れる課題に直面せずに済んできたことだ。芸術への本質的な能力の可否を自問せずとも時代の要請にその表現が合致したために名声を得られた。一生愛すると誓った配偶者の不遇を共に乗り越えずとも、彼女の求めるものを携えた代わりの誰かがあちらから彼女の人生に飛び込んできた。

映画ではスーザンがエドワードと知り合ったばかりの頃の会話がフラッシュバックとして挟まれる。ここでは43歳のエイミー・アダムスが一本の作品の中で同じ女性の人生の円熟期を迎えた現在と、まだ何者でもない初々しい20代の頃を演じ分けた見事な瞬間を目撃できる。エドワードに彼女はゲイである兄のこと、それを許さない保守的な両親について話し、あなたは兄の初恋の人なのよと無邪気に打ち明ける。すると若いエドワードはイノセントに反応し、「気づかなかった。彼とは長いこと連絡せず疎遠になってしまったんだ僕は。彼を傷つけたかもしれない。」と遠慮がちに話す。これは2人の(そして監督トム・フォードの)故郷テキサスの男性としては珍しい反応だ。少数者に対して無配慮であることが許される既得権益を自分たちは持っていると思っている男性は、こういう場合往々にして性的欲求の対象者となる恐怖を冗談めかして語るなど同性愛者に対してのナイーブな態度を開陳する。しかしエドワードは違った。人の繊細な心のひだを瞬時に想像して共感し、それをできなかった当時の自分を責めたのだ。その彼の良心にスーザンが心打たれた瞬間もエイミー・アダムスは見事に表現している。
彼女は彼の良心に惹かれたのだ。誰に何を言われなくても自分のすべきことを知っている、大きな指針を彼は持っている。エドワードとの結婚を「彼はあなたと違って強くない」と反対する母(ローラ・レネー)にスーザンが言った「彼は別の種類の強さを持っている。それは自分を信じる気持ちだ。」とはその良心のことである。しかしそのイノセントな気持ちは長く続かない。年を経て現実的な成功を追い求める野心が成長し始めたスーザンはあれだけ惹かれていた彼の素朴な心の美しさを、小説の中に書くのはやめたほうがいいと彼にアドバイスするようになる。それは彼の魅力だと彼女が思っていた価値観がだんだんと色褪せていった故である。彼女は「あなたはロマンチックで優しくて繊細で…でもその全てを私は持ってないのよ」との言葉を彼に投げつける。

本来ならば彼女はその自分の変化に直面すべきだった。自分は若い頃の自分が思っていたよりもずっと世俗的で実利的で実際的な人間であったと。どんなに美しいものを内包していても、世間に評価されなければ意味がないし、それに固執しているのは愚かで滑稽に思える。自分はそういう人間であると認める前に、彼女の前には成功と充足が訪れた。直面しないからこそエドワードの体現するイノセントを喪失したと思わずにやり過ごすことができた。それを証拠にエドワードと会う前に彼女は習慣的にしっかり塗ったプラム色の口紅を指でごしごしと拭うのだ。そうすれば彼のイノセントさに率直に惹かれた頃の自分に戻れると彼女はまだ思っているのである。

しかし彼はやってこない。これを持ってエドワードの復讐が果たされたとみなす向きは多い。しかしこの無残な愛の終幕劇を仕掛けたのは本当にエドワードなのだろうか。私は先に「愛の終わりを告げられた側だけがその愛を自分の中で殺すことができる」皮肉を指摘した。スーザンは小説を読み進めながらエドワードの姿を借りた主人公の怒りを体験的に受け止め、司法の手を借りず、奪われた家族の復讐を自らの手で果たすヒロイックでロマンチックな「強さ」を彼の中に見出していく。そして最後に彼が自らの手で自分の命を終わらせたとき、スーザンも物語の中で彼を「殺」せたのだ。
そして彼女は"待ち合わせの"レストランに向かう。彼の不在を確かめるように何時間もかけ、来ないとわかっている彼を待ち続けたのだ。そうやって彼女は無意識にではあるが、自らの手でイノセントな恋を終わりにできた。人生の秋に向かってやっと春にし残した試練に直面し、挫折して自分の本質を受け入れられたのだ。もうイノセントに戻ることはできない。その覚悟を持って自らが見過ごしてきた挫折を一つ一つ舐めていくように彼女はこれから経験していく。世俗的には彼女の"幸運"は奪われたようにみえるだろう。しかし本当の意味での幸福を彼女は得られるのだ。自分の経験を自分に本当に起こったこととして受け入れ、自らの手で人生を作り出していく人間になるという幸福である。

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