夜の散歩道

夜の風を感じながら、ちょっと振り返って考えてみる

9月に入った。空気が少し、秋めいてきた気がする。今日は風が心地よかった。


もうすぐ、退院してから4年経つ。約5ヵ月の入院生活。実家から逃げるように今の土地にやってきて、入院生活から始まった。大学生の頃に一度は住んでいた土地だったけれど、その時とは全く違う4年と半年。

わたしは摂食障害になった。拒食と過食嘔吐を繰り返し、食事を以前のように摂ることが出来なくなった。食べたいけど食べたくない。食べたら食べたで、強い罪悪感に襲われて戻してしまう。1日の中で、体重計に何度も乗って、表示される数字を見て不安と安堵を行き来する。30kgを切っても体重が0.1g増えることが恐怖で、気が付くと足がトイレに向かう。飲み物も飲めなくなっていた。

あれから数年経って、変わったこともあれば変わらないこともある。変わったことは、状況や人との関わり方、話す内容。変わらないのは、人に頼るのが下手で、疑い深くなること。自己犠牲で目の前のことから目を背けようとするところ。食べ吐きは今も続いている。不安で身動きが取れないこともあれば、人混みに居られなくなることもある。息苦しくなり、その場に居られなくなる。

退院してから、福祉支援もたくさん受けた。救われた部分がたくさんあった。それと同じくらい、複雑な思いもたくさん感じた。知られたくなくて、隠したくて、情けなさでいっぱいだった。なのに、そこから抜け出そうと思ってもなかなか抜け出せない。何かする度に、‟支援を受けている自分”が頭の中を過ぎる。罪悪感と劣等感に襲われる。少しずつ受ける支援が減った今、当時の自分を振り返ると、わたしのちっぽけなプライドが自分を苦もっていてしめていたと思ったりもする。その時必要な支援を利用させてもらう。悪いことはしていないはずなのに、必要な助けを借りることに抵抗を感じた。

プライドをもつのは大切なことだと思う。自尊心は自己肯定感を強める。わたしは自分が大嫌いだった。今も自分のことを好きと言えない。自分の存在を、自分自身が認められない。なぜ生きているのか、生きていなければならないのか、そういうことをもう随分と長く考えている。誰かに話すと、ネガティブな話と受け取られることがほとんど。答えの出ない問いを、ぐるぐる考えるわたしにうんざりしかているかもしれない。それでも、考えてしまう。生きづらくてたまらないから、少しでも必要のない生きづらさを取り除きたくて。今は自分の気持ちが動くものは何かを観察して、自分のことを必要以上に責めないことを心掛けている。

わたしの母も、わたしが物心つく頃から精神科に通っている。入退院を繰り返していた時期もあり、一時期は幻聴や妄想が酷く、父親に掴みかかることも多々あった。幼い子供はただその様子を見て、「やめて」と声を上げることしかできない。漂白剤を飲んで自殺未遂。お風呂の浴槽で、舌から血を流して意識を失っていたこともあった。幼かったのではっきりとは覚えていないけれど、その時の映像は時々頭の中に浮かぶ。救急車の音は今も苦手だ。


退院して4年経つのに、わたしにはまだ消化しきれていないことが沢山ある。自分のこれまでのことも、精神病をもつ母親との関わり方も、家族との歪な関係性も。自分が病気になってから、母親の苦しさを想像するようになった。それでも相手が家族となると、耐えられないことが出てくる。家族だけで解決しようとしても限界がある。共倒れになる日がくると思う。隠そうとすればするほど、いつかそれは埋めることのできない大きな溝になる。


病気でも病気じゃなくても、しんどい時はしんどい。病気だから出来ないこともあるけれど、何も出来ない訳じゃない。それぞれの出来ることを寄せ集めて、関係性を築いていくには何が必要なのだろう。わたしの出来ることと出来ないことは何だろう。夜の風を感じながら、ゆっくり考えようと思った。



最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。