明日、玄関のドアの前から

玄関のドアを開けることができない。ドアの向こう側、そのあと一歩が踏み出せない―――

外に出る。道行く人とすれ違いながら職場に行く。友達と待ち合わせしているカフェへ向かう。車道では車がひっきりなしに走っている。名前も顔も知らない他人、一瞬で過ぎ去ってしまう車。誰もわたしのことなど知らない。わかっているのにすれ違うのがたまらなく緊張する。身体がこわばり息苦しくなる。

身支度を全て済ませた状態で、玄関の前で立ち止まりしゃがみ込む。あとは外に出るだけなのに。行かなきゃという気持ちと、ずっしりと重い身体と気持ちの葛藤が始まる。


外の世界がわたしの目には時々眩しすぎる。それでも仕事は毎日容赦なくやってくる。約束していた友達との待ち合わせは楽しみが負担に変わる。わたしはどうしてこうなんだろうと、何度も何度も自分を責める。「ダメな人」という言葉が、わたしをぺしゃんこにしようとする。跳ね返す力もないわたしは、すぐにぺしゃんこになる。


わたしは普通で居られない。普通が何かは分からないけれど。普通で居なくちゃいけない理由も分からない。それでも周りの大人は普通を求めるし、普通以上のことをしないとそこに居ることを許さない。本人はそんなことを思っている訳ではなくても、声色、表情、話す言葉、行動…これらのすべてから、「否定」を感じてしまうのだ。相手の機嫌を損ねないように、波風立てないように。全ては平穏でいるために。悪いのはわたし。できないわたしがいけない。自分のせいだと思うことで、その場を収めることにした。そうやって自分を守ることしかできなかった。その中で得たものは、「生きづらい」という簡単には消えないものだった。


「見た目は大人、中身は・・・・・・・?」


大人と言われる年齢になった今、何をもって「大人」と言うのか考える。社会に出る。仕事をする。責任を持つ。自分で考える。仕事もプライベートも楽しむ。他にもたくさん、色々な「大人」があると思う。どれも間違いではないと思う。その中にわたしは、「助けて、と言える」を加えたい。正確には、自分の中の大人の定義にそれを加える練習中と言うべきかもしれない。自分が出来ないことと、出来ること。「これが苦手なんだよねえ」「出来ないから手伝って」年齢を重ねてもそう言える大人をわたしはかっこいいと思う。


外への一歩に足がすくんでも、人とすれ違うことに緊張しても、一応毎日生きている。生きることに疑問を感じながら、自分の存在に確信が持てないまま、不安定だけれど一応生きている。出来ないことが沢山ある。出来ていないことも。明日の朝、わたしは玄関のドアを開けられるだろうか。今はまだ分からない。もし開けられなかったら、自分のダメと刻まれたところに絆創膏を貼ろう。もし開けられたら、「出来ないので、教えてください」と言える練習をしよう。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。