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お風呂の中で、あの時の「大変だね」を考えていた。


少し熱めのお湯でシャワーを浴びながら、一ヶ月くらい前に聞いた話を思い出していた。

先月亡くなった祖父のお葬式でのこと。わたしはその場におらず、後で姉から聞いた。親戚のある一人が、母の様子を見て父に言ったそう。


「大変だね」


親戚に母の病気のことはほとんど話していないはずだ。わたしの母は精神病を持っている。統合失調症と診断されているが、色々な症状も併発する。親戚で母の病気を詳しく知る人はほぼいない。わたしの家族は、精神病を抱えていることを敢えて周りにオープンにはしてこなかった。「敢えて」と言うと少し聞こえは良くなるかもしれない。正確に言うなら、精神病をもつ家族がいることを知られないために「敢えて」話してこなかった部分もあると思う。それが良い悪いかは別として。ただ、隠そうとすればするほど苦しくなっていったことは体感としてある。

お葬式での母の様子を見て思ったのか、何かを感じたのだろう。親戚のうちの一人が、わたしの父に言ったそうだ。「大変だね」と。

この話を姉から聞いた時、わたしは悲しくなった。その人がどんな気持ちでその言葉を父に掛けたのかは分からない。何かを感じて、相手に寄り添う「大変だね」だったのかもしれない。

ただ、この言葉は残酷な言葉にも聞こえる。すこし言葉はきつくなるが、「大変だね」「大丈夫」「大変だけど負けるな」のような一見励ましの言葉は、優しい言葉のように見えて実は相手の首を絞める言葉にもなる。

大変なのも、負けそうになりながらなんとかここまでやってきたことも、大丈夫大丈夫と無理やりでも言い聞かせて、今まで過ごしてきた。そういう人に対して、もし軽はずみに「大変だね」と言ったのなら、わたしはとても切ない気持ちになる。


自分が精神科を受診するようになって思うこと。それは、精神病であることを隠そうとしなくても案外どうにかやっていける道もあるのかもしれないということ。わたし自身も、迷うことがある。例えば仕事で、自分の障害を職場の人(特に上司)に話すか話さないか。実際に話して「そういう方はちょっと…」と断られたこともある。一方で、できないことを踏まえたうえで採用していただいた会社もあった。厳しい目を向けてくる人もいるけれど、話したからといって態度が変わる、そんな人ばかりではない。障害者に対する捉え方は様々だと思う。目に見えない障害は、見えないからこそ誤解や間違った認識が生まれやすい。それでも、話してみたら見えてくる世界もあると、地元から離れた知らない土地で生活して初めて知った。

話せば楽になると言いたい訳ではない。話したから辛い思いをすることもある。何がその人にとってその時のベストかは誰にも分からないから。わたし自身、今は必要だと判断した時だけ病気をオープンにしている。‟必要な時”を判断するのさえとても難しい。そういう時は判断の手助けをしてもらっている。でも「一緒に考えて欲しい」このひと言を伝えることすら、わたしにとっては高い壁だ。


自分の障害を、自分や家族だけで解決しようとするのはとても難しい。家族だからといっても、出来ることと出来ないことがある。残酷だけれど。

優しくしたいと思っても、「家族だから」生まれる気持ち。なんで分かってくれないの?なんで同じことを何回も繰り返すの?何回言ったら伝わるの?

「もう止めて」「いい加減にして」という家族の気持ちと、「わかってよ」「止めたいのに止められないの」という本人の意志とは関係なく出てくる症状。

全員じゃなくても一緒に考えてくれる人はいると信じたい。一緒に考えられる人でありたい。「大変だね」その一言で終わらせたくないから。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。