なんかすごい、に騙されない

何かすごい人にならなければならないと思っていた。すごいことをして何でも出来て、くよくよ悩まず、たとえ悩んだとしても悩んでいる姿は人には見せずに自分一人で解決する。そういう人がすごくて立派な人なのだと、そういう人を目指していないと、生きていてはいけないと結構本気で思っていた。

いやいや極端すぎるだろ、と冷静になれば思える。そんな何でもできる仙人みたいな心の持ち主になって何がしたいのよ、とツッコめる。でも、‟自分責め癖”が染み込んでいるわたしは、本当にそういう人になりたいのかもよく分からないまま、そういう人からはどんどんかけ離れてゆく自分を、社会不適合者だと自分で責めて追い詰める。そういう沼にはまると、本当にどうしようもなくなるまで人にSOSを出すことができなくなる。厄介な人間だなと思う。

高校生の時、通い続けられないかもしれないと思いながら、偽りの社会適合者を演じて3年間過ごした。県外の大学に進学して、わたしはいよいよ社会適合者から外れた。途中で辞めたことは後悔しなかった。けれど、社会不適合者になってゆく自分を責めることは止められなかった。


そこに居ても良い理由が欲しい。だから自分で理由をつくる。何でもできるわたしだったらそこに居ても良い。でもそんな人なんていないし、なれないと思い知る。そういう人になれたところで、多分わたしは満たされない。本当はすごい人になりたい訳ではなかったのだと気が付くのに、何年もかかった。


何でも一人でできなくていい、人に相談してもいい、だめでいい。間違えていい。今更になって、ハッとする。

なんとなくすごい人ではなく、社会の「普通」に疑問を持てる人でいたい。社会から「あいつだめだな」と言われても、根性ないなと陰口を叩かれても、「自分は社会不適合者だぞ」と言いながら出来ることをしてる大人の方がかっこいいと思う。

そう思いながら、多分また極端な思考に走ったあとに冷静になって思う。わたし、なんかすごい仙人になりたかったんだっけ?


 

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。