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見たくないのに見てしまうのは。

夜、空を眺めるのが好きだ。月や星が綺麗に見える空も好きだし、雲がかかっている空も好き。好きなはずなのに、その時の気持ちによって不安にさせる時もある。むしろ今は見たくないとさえ思う。「一人」を強く実感させるから。


気持ちを整理したくて、友達に電話する。整理して落ち着こうと思っていたはずが、気持ちがかき乱れている。そういう時のほとんどが、今言われたくなかった言葉を掛けられた時や○○した方がいいと言われた時。言って欲しい言葉を相手に期待して、それを言われなかったことに不満を感じるのはこちら側のエゴだ。だからといって、話を聞いてくれた相手の気持ちを考えるがゆえに、言われて辛くなった自分の気持ちを無視してしまうのもなんだか違うように思う。


「皆そうだよ。」

「皆同じようなことで悩んでるよ。」

皆って何だろう。皆もそうだから、わたしもなんとかやっていけるのだろうか?皆の中にいつの間にかわたしが入ってる。誰が入れたの?誰が決めたの?わたしが大丈夫って、ねえ、誰が決めたの?


高校生の頃、机の教科書の横にいつも置いていた小説がある。何冊かいつも自分のそばに置いていた文庫本の中の一つ。裏表紙、「わたしはみんななんて信じない」そう書かれていた。高校生のわたしは、学校の「みんな」の中に居ることが苦痛だった。それでもみんなの中になじんでいるフリをして、三年間やり過ごした。怖かったから。レールから外れることも、外れた自分を周りの人がどう思うかも。その本を常に自分のそばに置いていたのは、「みんななんて信じない」と言い切る言葉に惹かれたのと、「みんな」への反発心があったからだったのかもしれない。

つらい経験をしてきた人、今苦しみを抱えている人、行き場のない思いを抱えてなんとか”今”をやり過ごしている人。わたしが知らないだけで、さっき外ですれ違ったあの人も、昨日カフェで隣に座っていたあの人も、目には見えない何かを抱えて生きているのかもしれない。聞いて初めてわかる。その人が過去に抱えていたものや今悩んでいること。その人の思い。見ただけでは分からないから、傷を付け合う。家族だって、分からないことや理解できないこともある。家族だから、なのかもしれない。話をしたくても、相手は話したくない時期かもしれない。気持ちの一方通行は、辛い。言葉を掛けて相手に届かないのも、「今は受け取れない」と思いながら掛けられる言葉を避けるのも。


「普通」や「みんな」に囚われなくなる日々が送れるのは、もう少し先かもしれないと弱気になる。みんなへの反発心とみんなの中に居られない不安。相反する感情が、自分自身を混乱させる。暗闇の中で黄みがかった明るい月が窓の外からこちらを見ているのは、人には見られたくない混乱するわたしの様子を覗かれているようにも思えてくる。






最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。