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誰かの好きは、誰かの嫌いかもしれない。

JTのCMが好きだ。CMが流れると、昔からつい観てしまう。そして普段タバコを吸わないけれど、わたしの喫煙所への憧れをより強くした。タバコに関しては賛否両論あると思うけれど、喫煙所というタバコを吸う人にだけ与えられるあの場所が、何だか特別なもののように感じて。喫煙所で遠くを見ながらあの人は何を考えているのだろうと考える。誰かのことを思っているのだろうか。今日の昼ご飯のことしか考えていないかもしれない。それはそれで楽しい。


「あなたの好きは、誰かの嫌いかもしれない。」

この視点で物事を考えるのは、出来ているようで実はあまり出来ていないのではないだろうか。わたしたちはそれぞれ違う環境で育ち、それぞれ同じようで違う生活を送る。


色んな環境で育った人がいるけれど、育った環境は、大なり小なりその人の一部となって、良くも悪くも何らかの影響を与える。例えば、「安心」を感じられない環境で育った子どもは、自分の居場所を守るために自分自身に嘘をついて成長する。本当は痛いけど、痛くないよと自分で傷口を洗いに行く。本当は辛いけど、こんなのなんてことないよと平気な顔をして、夜中に布団の中でひとり目が腫れるまで泣いたりする。涙は、気持ちを隠すのにも役立つ。泣いているからといって、悲しいとは限らない。嬉しいとも悔しいとも限らない。フェイクだ。自分を守る武器のひとつ。

それが良いのかどうかはわからないし、良い悪いの問題でもないのかもしれない。そうせざるを得なかった。逃げ場のない子どもはそこで生きていくしかないから。


子どもの頃は通用した自己防衛の方法が、大人になると通用しなくなる。それまでは自分の身を守れていたのに、大人になると逆にそれが自分を苦しめる。社会に適応できない。社会の「普通」に翻弄されて、周りと同じ方向を向いて、同じスピードでは進めない。本来は同じ方向を向く必要も同じ速さで進む必要もないのだけど、「普通」でいられない自分に焦り、不安を感じ、自分を責める。

「普通」ってなんだろう。「変」ってなんだろう。「変」は「普通」があることが前提にあって、「普通」じゃないから「変」だという。「普通」は嫌だ、人と同じはつまらない、そう言う人もいる。これも前提に「普通」があるから、その基準を超えたいからこそ出てくる言葉なのだと思う。
「普通」がだめということでもない。けれど無意識に、良い悪いで判断しようとしてしまう。

立ち止まってちょっと疑ってみたら、見えなかったものが見えたりしないだろうか。そこから新しい形が生まれないだろうか。


わたしの普通だけが普通ではないことを、あなたの普通だけが普通ではないことを、忘れないでいたい。そう考えると私たちはみんな「普通」じゃない。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。