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素人がスリル・ミーを観た

初めまして(の方が多い?)。パラボナと申します。
普段は主に女優の波瑠さん界隈で活動させてもらっており、映画やドラマはよく見るのですが、舞台や演劇についてはまったくの素人です。
そんな僕が、Xのフォロイーさんのオススメもあって、『スリル・ミー』の2021年5月29日・田代×新納ペア(東京芸術劇場(配信))と、2023年9月16日・松岡×山崎ペア(東京芸術劇場(現地))を鑑賞しました。このnoteは、その際に当該フォロイーさんに送りつけた感想を加筆修正したものです。そのため、出来るだけ万全を期してはいますが、勉強不足故の不正確な記述だったり、主観的な意見が相次ぐかもしれません。その際は、優しくご指摘くださると幸いです。


自己紹介

改めて、パラボナと申します。20代男です。法学部卒です。
映画やドラマ、アニメ、漫画を観るのが趣味です。舞台は2020年の『ローマの休日』が初めて観た作品で、それから年に2~3公演ほど鑑賞しています。なので、舞台に関してはまったくの素人レベルですが、件のフォロイーさんのお陰で、面白いからもっと観てみたいなと思っております。
(女優の波瑠さんのファンです。現在映画『アナログ』が絶賛公開中です。とても温かくて優しいラブストーリーですので、ぜひご覧ください。また、来年1月4日21時からテレビ朝日系列にて松本清張原作の主演ドラマ『ガラスの城』が放送されますので、こちらも合わせてどうぞ!(ダイマのコーナー))

観終わった直後の雑感

まずは各公演を観終わった直後の雑感を覚えている限り…

①2021年5月29日・田代×新納ペア(東京芸術劇場(配信))

こちらは配信で自宅から観たんですけど、観終わった後の感想は、「うわ…フォロイーさんの口車に載せられて何段もディープな世界に引きずり込まれてしまった…」でした笑。
何だろう。キスシーンとか耳舐めで「うわっ///」ってなったのもあったんですけど、もう画面越しでもむせ返りそうになるほどねっとりとした空気が凄くて…笑。しかも箱自体も狭いし、暗いし、お客さんの多くがヘビーリピーターだしで、何か得体の知れない秘密組織の儀式を覗いてしまったような、そんなドキドキがありましたね。あの雰囲気はお客さん皆が目にマスク付けててもおかしくなかった……
そんなことはさておき、シンプルにお話が面白くて満足感があったのを覚えています。詳しくは後で書きますが、彼が私を支配しているかと思っていたら、私が彼を知らず知らずのうちに篭絡していたという展開はゾクゾクしました。 私の行動は、読もうとすればするほど分からなくなったんですよね。だから、最初は私の立場に立っていたのが、私の真意が判明した時以降は彼の立場にいつの間にか移っていましたし、終わってみれば、遡って作品全体を彼の立場から振り返っていました。この観客の意図によらず見方を転換させていくの、本当凄かったです。
また、2人だけで進んでいく舞台も初めて観ましたし、こんなにセットが少ないのも初めてでした。それまでは帝劇とか四季とか物量や人量(?)のごっつい舞台しか観たことなかったので、こういう人だけで世界を作り上げていくのは舞台の醍醐味なのかなとか勝手に思ってました。
あと、これは自分が特撮ファンだから思ったことなんですけど、僕にとって新納さんといえば『仮面ライダーキバ』のキングなので、また同じような役やってる…笑と思いました。『キバ』は2008年にやってたんですけど、もしかしてその演技見て2011年の初演に選ばれたのでは? なんていう妄想もしちゃいました(もちろんそんなことないですが…笑)。てか、新納さんは当時実年齢46歳で19歳役をしていたんですよね。これも、物質的な物をできる限り削ぎ落として、観客の想像力に委ねたからこそできる業ですよね。

②2023年9月16日・松岡×山崎ペア(東京芸術劇場(現地))

前回から2年後。今度は東京芸術劇場の現地へ観に行きました。
前回の配信でも既にウェットな空気が凄かったですが、もう現地で箱に閉じ込められると、本当その蒸気に圧し潰されてしまいそうで。渋谷駅副都心線ホームで無量空処食らったらこんな感じなのかな……とにかく圧迫感が半端なかったです。あと、ステージの奥行きが意外と深いんだなとも感じました。配信だともっと小さな箱のイメージだったんですけど、実際はステージが縦横に広かったです。
そして、これは先に述べた秘密組織の儀式を覗いてしまった云々のお話に繋がると思うんですけど、上演中、本当にお客さんが一切音を出さないんですよね。いや、どの劇場でも静かに観るのが当たり前なんですよ?けど、本作に至っては、舞台から出る以外の音をお客さんが吸い込んでるというか、お客さんの静寂すら舞台の演出に組み込まれているような印象を受けました。というより、TL観てるとスリルミーのお客さんって手練れの方々ばかりなので、意識的に音を出さずに緊張感を演出してるのでは……笑?
また、この公演では、配信では見えなかったところを見つけるを目標に観劇したのですが、まずは、ピアニストの方が気になりました。配信ではあまりピアニストの方の存在を意識して観ていなかったんですけど、現地では舞台の右上にいらっしゃって、役者のお二人と並んで存在感が凄かったです。しかも驚いたのが、基本的に役者の方は見ないで、ずっとピアノに向かってるんですよね。いや、分からない。僕の目が節穴で、普通にピアニストの方も結構舞台の方を見てるのかもしれませんけど、僕は基本的には舞台に背を向けているように見えました。いずれにせよ、あの距離感で見事に演技と音楽の波長が合っているので、観劇直後は、演者の演技に合わせて音を奏でてるんだろうなと思っていました。しかし、当該フォロイーさんにお尋ねしたら、基本的にピアニストの方が演者の演技に合わせてるんですね。めっちゃ稽古で合わせてるから本番でもあのピッタリ加減という。プロフェッショナルすぎる。
そして、やはり現地ということで、お客さんの反応も感じられました。その中でも印象的だったのが、隣に座っていたお姉様方が、「やっぱりめっちゃ早口だったね」と仰ってたことです。これも後で質問して知ったのですが、ペアごとに台詞のタイミングとか進行時間も異なるんですね。そこまで気がいってませんでした。

世界観の構築について

ここからはトピックごとに色々書いていこうと思います。

物質と想像による世界観の構築

2021年に本作を観て思ったのが、セットなど物質的な要素を必要最低限まで削ぎ落してるのに、そういうもので溢れている舞台よりも2人の見てる情景がちゃんと目に浮かぶのが不思議だなという点です。
物質感で満載の舞台と言われて僕が思い浮かべるのが、『ローマの休日』です。舞台の上に所狭しと配置されたセットと煌びやかな衣装で、作り手の構築したローマの世界観にどっぷり浸かることができました。さすが東宝の金力…!一方、『スリル・ミー』は、先に述べた通り、物質的な要素が必要最低限の部分にまで削ぎ落されており、世界の構築が多分に観客の想像力に委ねられていました。『ローマの休日』のような物質感に溢れた作品は、世界の構築が既に作り手の側でセットや衣装といった物質を用いて完成されているので、観客側の僕としては、その他者の作り上げた世界を自分の中の景色とするまでに、いったん咀嚼して理解するという作業を要しました。一方、『スリル・ミー』のように、観客側の僕の想像があって初めて世界の構築が完成する作品の場合は、そこに僕の思い描く世界が多分に含まれますので、咀嚼して理解するというプロセスを踏むまでもなく、その世界を自分の中の景色として受け入れることができます。だからこそ、2人の見ている情景がすんなりと目に浮かんだのかなと思います。くわえて、物質的な制限を超えた世界の構築という点では、あるべき凄惨な場面が拍車をかけて凄惨に思えましたし、私と彼の関係性が、もはやファンタジーの世界でのお話のように、異常にウェットで、神秘的に感じました。
これはどっちが良い悪いという問題ではなく、作品や場面に応じて適否が変わってくるのかなと思います。『ローマの休日』でいえば、同作はアンとジョーの恋の行方と並んで、ローマのオシャレな世界を堪能するというのも醍醐味なので、作り手側としては、セットや衣装をがっつり用いて世界を構築する必要があると思います。一方、『スリル・ミー』は、主眼が私と彼の関係性に置かれており、その関係性も友情や恋愛といった卑近なものを超えた域にありますので、その表現に当たっては作り手側の介入を抑えて、観客側の創造を掻き立てる方がぴったりなような気がします

物の使い方の妙味

観客側の想像があって初めて世界が完成する舞台。その中で出てくる物には、観客の想像を作り手側の世界の構築に引き留める役割がある気がしました。たとえば、ロープ。私が人を殺すのに用いた凶器ですが、本作では人を殺す場面は直接的には描かれません。それ故、彼の超人思想も相まって、私と彼の凶行がどこかファンタジーのように思えてきます。そこに実際にロープが放り込まれると、途端にその世界が現実味を帯びていきます。実際の殺人の場面は観客の想像に委ねるが、そこに向かうまでの描写は物質感に溢れさせる。そうすることで、観客の想像の世界が作り手によって生々しい方向へとフィックスされました。
一方、最後の私が仮釈放される場面では、手錠を外すシーンが絡んだ手を解くのに置き換えられていました。先ほどのロープの例からすると、もしここで実際に手錠が用いられた場合は、このシーンの持つ意味は、私の釈放という実際的なものに留まったかもしれません。しかし、ここで手錠を出さずに手を解くだけにしたことで、私の釈放に加え、牢獄に閉じ込められていた私の魂が彼のいる世界へ解き放たれたという意味も付加されたように思えました。(ちなみになんですけど、この場面は何かとてもエロかったです……笑。何だろう。徐々に腕が解かれていく焦らされ感が原因なんですかね。焦らされはエロスの醍醐味なので、ええ。今思えば、あのシーンの私には、彼と一生一緒にいるための場所だった刑務所から思いもよらず追い出されることとなり、そこに繋がれている証だった手錠が外されていくことへの焦りや恐怖みたいなのがあったと思うんです。それを、絡まっていた手が徐々に解かれていくという表現にしたことで、その焦りや恐怖が段々と私の中にこみ上げてくるというか、迫ってくる様をうまく演出していたように思えます。)
このように、本作は、物を出す、出さないの使い分けが味わい深いなと思いました。

私と彼について

2人の関係性

また、私と彼の関係性も良かったです。
僕は最初、私は彼に支配されることに喜びを見出す人間なのかなと思っていました。しかし、その後、私は、流れのままに犯罪に手を染めていく自分に恐怖を抱いていたり、彼と対等な関係を求めて契約を結んだりと、それでは説明のつかないような反発を見せてきたので、とても奇妙に思っていました。そうしたら、まさかのラストでした。彼が犯罪に手を染めてスリルを味わっていたのと同様に、私は彼を着々と手玉にしていくのにスリルを味わっていたんですね。劇中、私が歌の中で「スリル・ミー」と口にする場面が2回あったと思うんですけど、初めの「スリル・ミー」では、そこにある彼の愛が手に入らないことへの叫びみたいなものを、2回目の「スリル・ミー」では、彼の愛が永遠に失われたことへの嘆きみたいなものを感じましたいずれも、彼の愛という「スリル」への渇望が歌われていたように思います

2人の人となり

もし小学生に私と彼の人となりを一言で表してと聞いたら、多くの人がこう答えると思うんです。
「うーん。サイコパス!」
本当今どきの小学生って、すぐ「サイコじゃん」とか言うんですよ(体験談)。それはさておき、確かに、強烈なナルシシズムとニーチェの超人思想に酔い殺人を犯し続ける彼と、彼と一生一緒にいるための計画を実行した私は、どちらも常軌を逸しており、もしかしたらサイコパスと表現される者同士かもしれません。しかし、同じサイコパスであったとしても、彼はその歪み故にサイコパスなのに対し、私はその純粋さ故にサイコパスであるような気がします。彼の歪みは、弟や父への強烈なコンプレックスから来るものです。「歪み」の意味を調べると、「物体に外力を加えたときに現れる形状または体積の変化」と出てきますが、この外力が、彼にとっては弟や父なんでしょうね。一方、私は家族に恵まれていましたから、そのような歪みの原因となる圧力は存在しません。それ故、純粋。今思えば、彼を手に入れようとする私の執念は、ちょうど子どもがおもちゃが欲しくて駄々こねて泣いているのと同じような印象を受けます。この純粋さはずっと鳴りを潜めていますが、ラスト、事の真相がすべて明らかになった時に、底の方にあった私の純粋さが爆発したので、本当にゾクゾクしました。

演者について

次に、田代×新納ペアと、松岡×山崎ペアについていくつか書いていこうと思います。といっても、僕にはそれぞれのペアの詳細な比較とか特徴の指摘とかはできないので、本当抽象的な感想になりますので、ご了承を。

より「超人」っぽさがあったのは新納さん

まず、より「超人」っぽさのあった彼は、新納さんでしたね。「超人」っぽさというか、新納さんには、本当にこの人は世の常人とは異なるのかもしれないと思わせるようなオーラがあったような気がしました。多分あの一度見たらなかなか忘れられない唯一無二のお顔と、それと演技から来る圧倒的ねっとりさ故なのかもしれません……
一方、山崎さんの彼は、常人が「超人」に憧れて頑張ってなろうとしてるような感じがしました。多分山崎さんの若さと爽やかイケメンフェイスとさっぱりした演技故なのかもです。「超人」という言葉が地に足着いてないというか、大学で初めて哲学学んだばっかりのただのニーチェ厨って感じでした。そのため、私に一転攻勢された後の彼との繋がりをより感じたのは松岡×山崎ペアでしたね。

田代さんの切り替えの演技

あと思ったのは、田代さんの切り替えの演技が凄かったです。田代さんも松岡さんも現在の私と過去の私を声音を変えて表現してたんですけど、特に田代さんは、同じ演者が声音を変えて表現しているという仕組みに気付くまで、私と彼以外の第三者が目撃した事件の証言をしてるんだって思ってました…笑。
てか、田代さんに関しては、お顔が童顔すぎたので、新納彼とのディープな絡みでは、いや、お前が襲う側なのかいと思いましたし、終わった後の田代さんの笑顔が、本当恍惚って画像検索かけたらトップに出てきそうなほど恍惚恍惚してて、笑ってしまいました笑。あんな可愛いお顔だからこそ、序盤の支配される側の演技もしっくりくるし、そこから逆転して狂気の笑みを浮かべる演技もまたしっくりきたんでしょうね。また、後で知ったことなんですが、「口開けろ」も耳舐めるのもお二人のペアの独自の演技なんですね。あんな恍惚フェイスできる田代さんにもってこいの演出でしたね。

本家と日本・韓国版について

本家と日本・韓国版の違い

ところで、『スリル・ミー』について先に述べたフォロイーさんとお話させて頂いていたら、こんなことを教えてくださいました。
「本家では固有名詞がバンバン出てくるのに対し、日本・韓国では可能な限りボカしてる」
こういう国や文化による違いを考察するのが大好きな僕は、それを聞いて早速ネットで色々調べてみました。すると、こんな記述を見つけました。
「ニューヨークとロンドンで観て印象的だったのは、『弟でなく、別の誰かを殺す』『そっちのほうがずっといい』という台詞や、『99年一緒だ』という台詞で数人から笑いが起きたことだ(両地とも同じ個所で笑いが起きた)。日本や韓国ではまず考えられない反応なので非常に印象的だったのだが、これは二人のことを『なんて愚かなことをしているんだ』と引いた目線で観ている観客が何人かはいるということなのだろう。」
「韓国版・日本版では役名をなくして“私”“彼”の物語という設定にしたのは、特殊な若者の特異な話でなく、観客と地続きの普遍性を持ったドラマとして描きたかったということではないだろうか」
(大原薫「“私”と“彼”の関係性のスリルを追い求めて──ミュージカル『スリル・ミー』公演レポート」omoshii、2021年4月11日最終更新、2023年11月9日最終閲覧、https://omoshii.com/interview/16136/
私の調べによると、本家では、私と彼の名前として、本作の元となった実際の事件の犯人の名前である「ネイサン」「リチャード」が出てくるらしいですね。一方で、日本・韓国版ではそこはボカされている。この違いの理由について、上記の記事は、名前をあえて出さないことで、"私""彼"と観客を地続きにするためと、的確かつ端的にまとめています(そして、その作業が行われていない本家では、私と彼の言動に笑いが起こる)。これでこの話題は終わりなような気もするのですが、ここでは、あえてこのお話を広げてみようと思います。

叙事的な本家、抒情的な日本・韓国版

先に見た観客の反応や名前の有無といった違いを踏まえると、本家は叙事的で、日本・韓国版は抒情的なのかなと思いました。
本家のように、現実の事件の関係者の名前をお話の中に出せば、そのお話には、現実の事件の再現の側面が出てくるのではないでしょうか(仰天ニュースみたいな)。再現である以上、舞台には、その再現された景色を客観的に見る者、つまり観客の存在がその世界に織り込み済みになるということとなり、私-彼-観客の三面当事者関係が生まれてきます。この観客が私ー彼の様子を観るという点で、叙事的になりそうです。
一方、日本・韓国版のように、現実の事件の関係者の名前を一切出さなければ、欧米版のような再現の側面がなくなり、1つのフィクションの中の世界として完結します(もちろん、現実の事件を観る側が想起して語られない世界を補うということもありますが、それをせずとも、舞台の上で繰り広げられる世界が完成されるという意味で)。その世界では、観客の存在は織り込み済みではなく、主にストーリーテラーたる私の立場から(そして、私と彼の立場が逆転した以降にあっては、もしかしたら彼の立場から)その世界を眺めることになります。つまり、舞台にあるのは私ー彼の二面当事者関係なのです。この私と彼のいずれかの立場から眺めるという点で、抒情的な印象を受けたのかもしれません。
こう考えると、先ほど触れた記事にあった本家では笑いが起きたというのも、その三面当事者関係の中で、極端にいえば、観客が仮釈放審査の刑務官に一番近い立場から私と彼を眺めていたからなのかなって思います。けど、自分は、今思えば私の立場からその刑務官の声を聞いていたように思います。何というか、自分がその声を発しているというより、その声が聞こえてくるという感覚になったというか…極端にいうと、私の彼に対する感情を理解しようとしない刑務官への苛立ちすら覚えてしまいそうな感覚です。この記事の冒頭で、お客さんの静寂すら演出に組み込まれているような気がしたというお話をしたと思うんですけど、本作で描かれる場面って本来2人しか知り得ないはずのものですよね。それを当事者視点で見れば当然笑いなんて起こる余地はないですし、逆に、それを第三者視点で見れば、笑いが起こる余地もあるんでしょうね。

違いの理由は個人の強さ?

この違いはどこから来るのでしょう?
これは本当に勝手な憶測なんですけど、もしかしたら、『スリル・ミー』の演出が本家と日本・韓国版で異なるのは、洋の東西における個人の強さの違いに理由があるのではないかと思いました。
西洋と東洋における個人の観念の違いについては、検索すると結構記事や論文が出てきます。キーワードとしては、「個人主義」や「集団主義」ですかね。この界隈で一般に説かれていることを何となくまとめると、以下の通りです。
「アジアや中東といった自然が猛威を振るう地域では、人は常に自然に劣後してきた。そのため、そういった地域では、個人が生き残るために自ずから集団の重要性が認識され、その中で、個人は集団の前で弱いものと観念されてきた。一方、欧米は、比較的災害の少ない穏やかな地域であり、牧畜が営まれ、いち早く産業革命も起こったりと、古くから人が自然を制御する側にあった。そういった地域では、個人が土地を開拓し、産業を興し、富を築いていくことができたため、集団の前に個人が強いものと観念されてきた。」
ざっくりいうと、東洋では集団>個人で、西洋では個人>集団ということですね。日本代表が個人技よりもチームワークの良さが売りにされるのも、もしかしたらこんなところから来てるのかもしれません。
この個人が集団に埋没しているか、集団の前に確固たるものとして確立されているかは、個人がいわゆる「悪」という存在とどう接するかという違いに繋がるのかなと思います。
西洋では、確固たる個人がいるから、「悪」を見ても、自分とは違う存在、異質な存在とみなすことができるのだと思います。だからこそ、私と彼という「悪」を眺めるときも、両者とは異なる立場からとなるのではないでしょうか。
一方、東洋では、個人が集団に埋没しているので、集団を媒介として、簡単に誰かに同調したり、影響を受けたりします。個人が強い存在ではないからこそ、犯罪者を自分とは異質な存在とは思えない、つまり、いつか自分も犯罪者になってしまうのではという立場の交換可能性を潜在的に自覚しています。だからこそ、私と彼という「悪」を眺めるときは、両者とは同じ立場からとなるのではないでしょうか。
つまり、個人が強い存在であれば、他者を自分とは違う存在ととらえ、眺めるということができるため、三面当事者関係が馴染むといえ、逆に、個人が弱い存在であれば、他者を自分とは違う存在ととらえることが難しく、二面当事者関係に馴染みやすいのではと考えました(もちろん、これですべてをとらえ切れるとは思いませんが)。これを『スリル・ミー』に当てはめると、個人が強い存在である地域で上演するなら、観客に、狂気的な関係を築く私と彼を特異な存在として見せようとするでしょうし、逆に、個人が弱い存在である地域で上演するなら、観客を私と彼と同じ立場に立たせようとするのかなと思います。そのために、欧米版では現実の関係者の名前を出して現実とのリンクを保ち、日本版ではあえてその名前を出さないようにすることで、まさに「観客と地続きの普遍性」を演出しようとしたのかななんて感じました。
ちなみに、件のフォロイーさんによると、チェコ版の『スリル・ミー』は、実際の事件の犯人の2人の写真が映し出されるらしいです。チェコは東欧最悪の警察国家と呼ばれたこともあるほど、戦後も秘密警察が活発に活動してて、市民相互間で犯罪の抑圧・監視・告発に対する意識が国家レベルで高められていました。犯罪の抑圧には、多分に犯罪者を自分とは異なる個人と見る感覚が必要ですから、やはり三面当事者関係が馴染むのかなとも思いました。まぁ、こじつけの域を出ませんが…笑。

ちょっと法学部卒っぽいうわ言―刑事訴訟と「懲役99年」について

(ここからは、舞台そのものとは関係ないようなことをつらつら述べてますので、読み飛ばして頂いて構いませんし、飽きたらブラウザバックしてください。)
もしここまで読んでいただいた方がいらっしゃれば、こんなことを思われたのではないでしょうか。「いやいや、西洋が他者を異質と見れるとか、東洋がそう見れないとか、無理やり地域と文化をテンプレ化したこじつけじゃん」…と。
いや、もうぐうの音も出ないですね。確かにこじつけでしかないです。
ただ、そういうこじつけが実は答えなのでは?と思わせてくれたエピソードがありまして…だいぶ蛇足気味ではあるんですけど、せっかくなので手短に紹介したいと思います。
2回目の『スリル・ミー』を観た後、学部時代にお世話になった弁護士の先生に、とある質問をしました。
「先生。なぜ日本ではアメリカと違って懲役99年ができるような法整備をしないのでしょうか?」
そう。『スリル・ミー』でも印象的に語られる懲役99年ですが、実は、日本には刑法14条1項で懲役刑(もうすぐ拘禁刑)は30年までといった規定があるので、こういった判決はできません。しかし、アメリカは懲役の年数に上限がありません。
また、アメリカと日本では、併合罪の処理にも違いがあります。併合罪とは、「同一人物が2つ以上の罪を犯したが、確定裁判を経ていないもの」(47条)です。例えば、『スリル・ミー』の私と彼は、1人の少年に対する誘拐罪と殺人罪で起訴されました。この場合、両罪はまだ確定判決を経ていないので、併合罪として処理されることになります。日本では、併合罪として処理される罪のうち、「最も重い罪について定めた刑の長期にその二分の一を加えたものを長期とする」(刑法47条)とされています。そのため、もし私と彼が日本で同様の犯罪を犯していた場合、殺人罪(刑法199条)と未成年者誘拐罪(刑法224条)で起訴されるものと思われますが、殺人罪で懲役とする場合、その範囲は、5年以上30年以下となり(刑法199条、47条)、未成年者誘拐罪では、3ヶ月以上7年以下となります(刑法224条)。よって、刑の長期(上限)が最も重いのは殺人罪の方なので、もし裁判官が被告人を懲役とする場合は、その上限は30年+30年÷2=45年となります。一方、アメリカの場合、併合罪でもそれぞれの罪における刑の年数が単純加算されていくので、先ほど述べたように懲役刑の年数に上限がないこともあって、懲役99年というぶっ飛んだ判決が出る訳ですね。
もしかすると、『スリル・ミー』を観た方の中には、「日本でも懲役99年とかできるようになれば良いのに」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。刑事に限らず、アメリカは、民事の損害賠償でも、懲罰的損害賠償といって、損害を補う以上の賠償を認める判決をすることができるんですよね(日本では基本的に損害を補填する以上の賠償が命じられることはない)。
では、なぜ日本では無限懲役刑や懲罰的損害賠償といった法制度が導入されないのでしょうか?先ほどの僕の質問に対し、先生のお返事はこうでした。
「うーん。日本って村社会じゃん。だから、犯罪でもお互い様っていう感性が強かったからじゃないかな。ほら、村八分っていうけどさ、あれって火事と葬式の二分はやるよっていうことでしょ?そんな優しいの、西洋じゃなかなかないよ。日本って、犯罪者にも優しかったと思うんだよねぇ」
正直このお返事には多分に先生の偏見や先入観も含まれてると思うんですけど笑、的を射てるような気もします。というのも、日本式の併合罪の処理はドイツに淵源があるらしいのですが、法史学において、ドイツは、主にフランスと対比されて、村社会における法VS都市における法という形で対比されることが多いんですよね。だから、日本式の併合罪の処理は村社会式の法で有名なドイツに淵源があると知ると、あながち先生の言ってたことも間違いじゃないのかと思えてきます。
ちょっと文献やネットで調べてみると、まず刑務所の収容数の問題が出てきます。確かに、99年も刑務所にいられたらスペースが足りなくなっちゃうような気もしますが、現状日本って厳罰化の傾向にあって、懲役(拘禁刑)の年数も段々上がってきてるんですよね。だから、刑務所の収容数に限界があるからアメリカ式は導入しないっていう説明は、あまり的を射てないような気がします(まぁ、軽微な罪には執行猶予が付されることも多くはなってるので、一概には言えませんが)。
また、更生可能性への期待というのも出てきます。確かに、同じ殺人でも、彼のようにただ歪んだ思想のもと人を殺めていた人間と、ある特定の人物だけが憎くて憎くて仕方なくやったという人間では、更生可能性にも違いがあるように思えますね。ただ、更生可能性に応じて刑の年数を判断するなら、むしろアメリカ式にして裁判官の裁量で軽くも重くも出来るとした方が、柔軟な対応ができるような気がしますね。
ということで、今のところ、僕は先生のお返事が一番答えに近いように思えています。お互い様ということは、自分もいつか罪を犯してしまうかもしれないというリスクを潜在的に認識しているということで、そこには、「悪」を異質な存在と思えない弱い個人がいます。だからこそ、量刑においても、アメリカのように一罪一罪を単純加算していくのではなく、一番重い罪の長期の1.5倍を上限とするだけにした。一方、アメリカでは、個人が確固たるものであるからこそ、その個人がわざわざ犯罪を選んで行ったのなら、その犯罪に応じた刑罰を負わせようということで、刑罰を単純加算していく形式が採られたのでは……?半分、というか大部分が邪推ですけど、この異質な存在をどう捉えるかという観念の違いは、『スリル・ミー』の演出の違いにも繋がっているような気がしました。

「九十九年」の意味合い

懲役99年といえば、本作の歌に「九十九年」があります。これ、原題は「Life Plus 99 Years」なんですよね。原題の方は、殺人罪について終身刑(Life Sentences)、誘拐罪について懲役99年(99 Years in Prison)という私と彼の罪責が2つとも盛り込まれてるんですけど、邦題の方は片方だけになってますね。それも「懲役」というごっつい言葉は取り除かれてます。まぁ、歌のタイトルで「終身刑と懲役99年」っていうのもおかしい気はするんですけど、「九十九年」の方だけ残すのも何か変な感じがします。
「九十九年」の方だけ残した理由としてまず考えたのが、終身刑なのに懲役99年もあるっていうのが日本では馴染みがないのではという点です。先に述べた通り、アメリカではそれぞれの罪に対する刑罰が単純加算されていきますが、これは懲役刑の年数のみではなく、終身刑と懲役刑というように種類の異なる刑罰も同じです。けど、実際は死ぬまで牢屋にいるんだから、懲役99年なんか必要ないでしょって思いませんか?僕もそう思います。なので、混乱しないように、「九十九年」だけにしたのかなと。終身刑より、懲役99年の方が、日本に住んでる人にとっては「え、そんなことある!?」ってインパクトありますしね。
ただ、それだと「懲役九十九年」で良いはずですよね。と思って歌詞を思い出してみると、「いつまでも僕のものだ99年」とあるように、私にとって懲役99年はご褒美なんですよね笑。だから、「懲役」という圧倒的ネガティブワードは確かに合わないかなと思いました。一方、彼にとってはご褒美ではないので「懲役九十九年」でも良いのかなと思いつつ、懲役99年自体は、彼にとって最悪の結果ではないんですよね。なぜなら、彼は捕まった時点で死刑を覚悟していたからです。それを、私の父親の雇った有能弁護士のお陰で、終身刑と懲役99年という判決になりました。なので、懲役99年という判決は、むしろ彼にとっては勝利なんですよね。問題は、その後明かされた私の真意です。それまで支配していたと思っていた私の計画にはまり、99年私と同じ牢屋の中にいることとなった。これは彼には思いがけない出来事であり、敗北にも近い結果でした。なので、彼にとっては、99年が懲役であることよりも、私の手に堕ちた結果であることの方が重大なのだと思います
以上のことからすれば、「Life Plus 99 Years」の邦題が「九十九年」なのも、まぁ分かるなって感じです。

「Life Plus 99 Years」の意味合い

ところで、この懲役99年という判決。文字通り99年刑務所で働けっていうことなんですけど、いくら私と彼が若いとはいえ、実際に99年も生きられないですよね。つまり、「99 Years」は、実質的には終身刑を意味してるのであり、「Life (Sentences)」と同じ意味合いでとらえるのが正しいです。99年という量刑になったのも、マリオの残機が99でカンストするみたいに、その罪が本来死刑でもおかしくないぐらい重いものであるという最大限の非難を示すためなのかなと思いました。
そうなると、「Life Plus 99 Years」って、「Life Plus Life」と言い換えることもできそうですよね。ただ、個人的に、「Life」と「99 Years」では若干ニュアンスが違うような気がします。どう違うのかというと、まず、「Life」=終身刑には、死ぬまでずっと刑務所の中という意味合いが含まれているので、死を迎えたら終わるものです。一方、「99 Years」というのは、先ほど述べた通り、本来ならこの罪が終身刑や死刑に値するほど重いものであることを示すために懲役の年数をカンストさせたものです。マリオの無限1UPみたいに、無限にノコノコを転がしてクリボーを倒してても、残機のカウントは99で止まっちゃうのと同じですね。なので、「99 Years」には、「Life」と違って、無限というような意味合いが感じられます
このように穿った見方をすると、「Life Plus 99 Years」というのは、「終身刑と懲役99年」という表の意味にくわえ、「私と彼の一生と、その後に続く無限の時間」という裏の意味もあるような気がしてきました。そして、私と彼の「Life」は刑務所に入った時に終わったんでしょうね。なぜなら、死後も含めて、それ以降はずっと私と彼が一緒にいる時間=「99 Years」が続くからです(「いつまでも僕のものだ99年」と歌詞にあるように)。彼が殺された後も、きっと私は刑務所の中にいれば彼と繋がっているように思えていたんでしょうね。仮釈放された時に、私が「自由……!?」と驚いた風に言っていましたが、その言い方からしても、私にとって仮釈放は不本意で、ずっと刑務所にいたかったんだろうなと思いました。だから、仮釈放された後は、私は彼との第二の終の棲家へ行くために、死んでしまうのではないかと思ってしまいました笑。実際、その後、物語は私が彼の写真に語り掛ける場面で終わりますが、その時の彼が、彼を囲んでいた枠の色味も相まって、遺影みたいに見えました…笑。死してなお、彼は彼岸から私を見つめていたんですかね……

まとめ

以上が、僕が『スリル・ミー』を観て思った感想でした。冒頭で述べました通り、多分に主観や偏見が含まれており、不正確な部分も多々あると思います。なので、もしお気付きの点などあれば、ぜひご指摘などお寄せください。
ですが、そんな独りよがりも許されるぐらい、本作は考える余白が大きくて、楽しかったです。演者のあの動きにはどんな意味があるのかなとか、この台詞にはこういうニュアンスがあるのではとか、思いを巡らすひだがいっぱいありました。なので、今後も『スリル・ミー』を観たいなと思いましたので、出来ればもうちょっとチケット代下がりませんか……笑。よろしくお願いします。

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